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雪が、降り始めていた。
音はなく、ただ。
初雪の月半ば。年が改まって初めての雪は冷たかった。リアスはその任務についていなくても常にラカーユを纏うことが常であったから、チェザも夏よりは厚めに織られたラカーユを着ていたが、それでも寒さはあまり変わらなかった。
冬のサーラは深い雪に覆われる。子供たちは外で遊べる機会があまりなく、また食料や薬草を採取するような仕事がなくなるため、暇が増えるのだ。
もちろん冬しかできない、雪を使った遊びはいくつかある。だが今はまだ、そんな遊びができるほどの雪はない。ようやく地面に薄く積もり始めただけだった。
「少しサラマンダーが弱くなってきたのかしら?」
寒さを感じたのだろう、縫い物をしていた母のファーリーが顔を上げて少し首をかしげた。
部屋の温度はいつも焔霊サラマンダーの恩恵によって暖かく保たれている。サーラは月霊ルーシファーが源であるが、そのほかにも森羅万象さまざまな精霊の力を受けて生活しているのだ。
「そんなことないんじゃない? 母君様。外が急に冷えてきたからだよ」
今日の夕食分のアスラの実の皮をむきながら、チェザが答える。この時期の食料はもっぱら保存食に頼るしかない。夏や秋に収穫したものを食べて彼らは生き延びるのだ。冬にしか取れない実や肉もないわけではないが、雪が降り積もる森へ採取にいくのはかなり危険を伴うため、食料が足りなくなってきたと判断されたときだけ、リアスだけが特別に森に入ることを許される。
「そうかもしれないわね」
ファーリーは笑顔をチェザに向けた。だが、チェザにはそれが無理に作られたものだとわかってしまう。何かの予感、かもしれない。月姫の巫女と近しい血を引きし民であるファーリーは、ときおりそういった予感のようなものを抱くらしい。そしてそれは少なからず真実だった。
「何をーーー」
「チェザさまー」
チェザが口を開きかけたとき、部屋の外からチェザの名を呼ぶ声がした。土レンガの壁で覆われた家の扉は、冬であっても麻の布であることに変わりはない。四方をレンガで覆われた家の一角だけ縦長に穴をあけておき、そこに上から布をつるしておくのだ。そこが出入り口になる。屋根も麻の布で、いくら傾斜をつけているといっても雪が積もりすぎて屋根がつぶれてしまうこともあるから、ときおり下から鉄か木の棒でつついて払い落とす必要がある。
「チェザさまー」
「チェザさまーあそぼー」
「あそぼー」
声は三つ四つ聞こえる。近所の子供たちだ。チェザの奔放な性格は、大人にはいい顔をされないこともあるが、子供たちには大人気である。
チェザは母のほうを見た。皮むきという仕事をまだ残している。だが母は目だけで笑い、いいから行ってきなさいと言った。
「ありがとっ母君様!」
チェザは急いで冬用の厚い沓に履き替えた。サーラでは部屋の中でも沓を脱がないが、冬だけは外用と部屋用とで履き分けているのだった。チェザは出入り口まで行ってから、ふと立ち止まって母を振り返った。
「大丈夫だよ。この暦だって上手く乗り切るよ。月姫の巫女様はずっとそうしていたんだからっ」
ファーリーの憂いは、身体の弱い妹に対するものだ。
サーラの民は誰もが平等で、食料や防寒具も偏ることはないのだが、それでもこの厳しい寒さに耐えられずに命を落としてしまう民もいる。たいていそれは乳幼児であったり、身体がもともと弱い民であったり、老人であったりした。老人といっても寿命の短いサーラでは四十歳を過ぎれば立派に老人と見なされ、長寿であることを尊敬される。
チェザは、寒い外へ飛び出した。子供たちにとって、この程度の雪では遊びの妨げにはならない。
月姫の巫女が守るサーラの地。
どんなに雪が降り積もり、厳しい寒さが続こうとも、彼女がいればサーラは無事でいるはず。誰もがそう信じて疑わなかった。それはリアスであるチェザにしてもまったく同様だ。
「今日は何して遊ぶ?」
集まっていたのは、ラフィ、アースの娘のエリェルのほかに、十歳前後の子供たちが数人集まっていた。アストは仕事だろうか。
「決闘がいいよ、決闘! ね、チェザさま」
子供たちが一番好きな遊びはいつでも、双剣術を競い合う決闘だ。一人の少年が手をあげて提案した。
「だめだよ、エリェルがいるもん」
「あ、そうか」
エリェルは生まれつき目が見えない。完全な盲目だったが、彼らが遊ぶにはまったく問題ではなかった。サーラの民は平等であり、対等だ。月姫の巫女はサーラの民とは逸脱しているから聖別視されているが、リアスは民となんら変わらない生活をしている。生きていく上で特別に権利があるということはない。
「東の森へ行きたい、チェザさま。もうすぐ行けなくなっちゃうでしょ? 今ならまだ行けるもの」
「あたしも! 行きたいですチェザさま」
「それいいですねっ」
少年の提案が流れた代わりのように、エリェルが提案した。エリェルと仲のいい少女たちがすぐに賛成した。
「おれもそれでいいです。今なら冬キツネが見れるかもしれないよ」
「やったー」
ラフィは薬草取りの仕事を目指しているだけあって、東の森の動植物には詳しい。全員一致で冬キツネ探しに乗り出すことになった。
「暗くなる前に帰るのよ。明日は闇の日だからルーシファー様のお力が弱まっている時なのだし」
「わかってるよ、母君さま」
ファーリーが家から顔をのぞかせて、チェザたちにそう忠告する。冬の昼は短い。月霊ルーシファーが、つまり月光が輝く時間が長い季節。もっとも過酷なこの時期だからこそ、月霊ルーシファーの加護を多く必要としている。
「……あら?」
「どうしたの、母君さま?」
少し首をかしげて、ファーリーが小さな声を上げた。走り出そうとしたチェザが振り返ってたずねた。
「北の森が、赤く光った気がしたのだけれど……」
集まっていた子供たちは……正確にはチェザはもう子供ではないのだが、いっせいに北の方角を見遣った。
いつもとなんら変わらない平穏と清浄に満ちている、聖月の祠がある北の森。
「赤い光?」
今はもう、見えない。
「不思議ね……」
肩をすくめて笑って見せたファーリーの表情はどこか曇っているように見えたけれど、早く行きなさいという彼女の言葉に従った。北の森でときおり不思議な現象を目撃するのはさほど珍しいことではない。そしてそれらは、聖月の祠の神秘性をよりいっそう高めている。月霊ルーシファーが降臨しているのだ、と。
ファーリーが見た光もそれなのだろう。
彼女は月姫の巫女の姉。もっとも近しい血縁者のひとりなのだから。