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サーラ国は、四方すべてが山に囲まれた閉鎖地である。
この高山を登ることは難しく、それゆえ民は山の外の世界を知らない。外の世界という概念すら持っていない。彼らにとって、サーラ国が世界のすべてだった。月霊ルーシファーの加護により、月からこのサーラに召されてルーシファーの娘の末裔たる月姫の巫女と一時をすごし、役目を終えるとまた月に還る。それがサーラの民なのだ。
この聖月の宮の清浄を感じると、サーラの民の気高さを改めて感じさせられた。
(……おれはもうリアスだから)
だからそれがよけいわかるのかもしれない。初めてここに足を踏み入れたときから、この身を包み込む優しさはたぶん、頭ではないどこかでわかるたぐいの不思議な感覚だと思ったのだ。
だが、そんなリアスと言えども、いつでも簡単にこの宮の主である月姫の巫女と謁見できるわけではない。神秘を具現化したような彼女は、その尊さから聖月の宮はおろか、自室からも滅多に出ることはないからである。
金の儀式が終わった彼女は、イーザ・リアスに付き添われて聖月の宮に戻った。だが、金の日は、聖月の祭典が開かれる日でもある。これは、大人も子供も一日仕事を忘れて浮かれ騒ぐ完全なる休息の時なのだ。宮の外では、大勢の民たちの楽しげな声が響いていた。もちろん月姫の巫女のそばにいる数人を除いたリアスも参加している。
まもなく月も改まる。
果実の月から初雪の月へ。
秋から長い冬へ。
もうすぐきっと、雪が降るだろう。
四方を山に囲まれたサーラ国は、これから四ヶ月の間深い雪によって完全に閉ざされ、森を訪れることも困難になるのだ。
「う~。寒いなぁ」
金の儀式で用いられた布を運びながら、チェザは一人で聖月の宮の回廊をのんびりと歩いていた。回廊といっても、完全に家の中というわけではない。右を鬱蒼とした木々に覆われ、左側がレンガの壁になっている。両側をレンガで覆われた回廊を造ることは、彼らにはない。それは自然と長く共存してきた彼らの昔ながらの習性が、たとえ住居を構えていたとしても、そうさせるのだろう。住居を構えるようになった理由は冬の極度な寒さを防ぐためである。それだけのために彼らの祖先は家というものを覚えたのだ。
レンガ作りの壁に布の屋根があるだけのサーラ国の家は、冬に備えてさまざまな工夫をする。壁にはいくつか窓があり、普段は開け放たれたままになっているが、冬は厚い布で完全に覆ってしまうし、屋根の布も厚くする。雪が積もってしまわないように、屋根を支える中央の柱は周りの壁よりもかなり高くして傾斜のある屋根にしてある。サーラの雪は深いが、粉雪なのでその傾斜があれば簡単に滑り落ちていくから、屋根がつぶれてしまうことはまずないと言っていいだろう。もちろんその住居は土を固めて作った高台の上に建てる。また、食料の半分を山の幸に頼っているサーラ国だが、秋に収穫した肉や実などは、深く掘って保管しておけば数時間で凍るからほとんど腐らずに保つことができる。
こうやってサーラの民は、長く厳しい冬を凍死も餓死もすることなく過ごせるのだ。
そして、季節の準備などを行なうのもまた、リアスの仕事の一つである。
聖月の宮すべての準備はもちろん、国中すべてを管理し的確に行なわれるよう指揮する必要がある。処置を怠れば、冬の間の安全は保証できなくなるのだ。また、必要な物資を調達できない民の救済をも行なわなければならない。蓄えてある食糧を均等に配るのもリアスの仕事だ。
そしてもちろん、春になればまた、春の準備のために彼らは働く。
国のすべてをそうして潤滑に進め、月姫の巫女を守っていくのがリアスなのだ。
だが、そんな大役を担っていても、彼らにはまだ、国を治める、すなわち政治をする、という感覚がなかった。年長者であっても。
「どうせおれのやることなんてあんまりないんだろ~な~」
チェザは静けさに耐えられなくなってぼんやりと呟いてみる。
十五歳になって大人であるとはいっても一ヶ月が過ぎたばかり、まだまだ子供である。一人前として何かを任されることがあるはずもなく、チェザは祭事があまり好きになれそうおになかった。無論、民たちと外で浮かれ騒ぐことは大好きなのだけれど。
サーラには祭事が多く、それらはすべて月姫の巫女の下に行なわれ、実際の運営はリアスであるのだが、そうはいってもリアスの中でも年長者が中心になっているため、チェザには面白くないことのほうが多いのだ。今もこうやって片付けばかりをやらされている。
「そんなことはありませんよ」
「ーーーえ?」
柔らかな、それでいて芯の強い声が背後からかかり、チェザは振り向いた。
純粋なる白色と、春の大地と同じ緑色を纏う、まるでこの世のものとは思われないほど神々しい女性が、チェザのすぐ背後にいた。
「……え。あ……っ」
年長者に対する礼儀を重んじるサーラでにあっても、チェザは自由奔放な性格であったが、それでもこの高貴な光に圧倒されて思わず口ごもる。それほどまでに、彼女は民とは違っていたのだ。
「つ、月姫の……巫女さま……」
「どうしましたか。もうリアスであることが苦痛ですか」
責める口調ではなかった。どちらかというと少し悲しげで、チェザはぶんぶんと大げさに首を振ってみせた。
自分から進んで選んだリアスの道なのだ。一ヶ月もたたないうちに音を上げたのだとは思われたくない。
「そんなことない……です。……あ。そんなことは、ありません」
思わず普段の口調で話してしまい、あわてて言い直した。やはり癖はすぐに抜けるものではない。
そんな彼に、月姫の巫女は寛容な暖かい笑みを浮かべた。
サーラの民は最長でも四十年から五十年ほどしか生きない。三十歳の月姫の巫女は、国の中でどちらかというと長生きなほうである。もともと月姫の巫女というものは短命で儚く、二十歳ほどで月へ召されることも少なくない。月姫の巫女はもっとも月に近いお方だからそれに違和感を抱く民はいないが、実際にはほとんど部屋から出ることもない故の極度の運動不足による短命である。この日のような祭典がない限り、月姫の巫女は月光を牽制する強い光、すなわち太陽の光に照らされることを禁忌とされているから、その肌は病的なほど白く、まるでサーラに降り積もる雪のようだった。
「貴方たち若いリアスにはいつも期待しております。今はまだわからぬことも多いでしょうが、そのうち長のイーザも貴方やフィーザを頼るようになりますよ」
「……は、はい」
そう返事をするので精一杯だった。
月姫の巫女はまるで老化をどこかに置き忘れてきたように若々しい姿をしている。月光が彼女の時間を留め置いているかのようだった。
チェザほど若いリアスでなければ、なぜこのようなところに月姫の巫女がいるのかを問うていたかもしれない。また部屋に戻るよう諌めていたかもしれない。だが、チェザは月姫の巫女の身に注がれる溢れんばかりの尊さにただ、圧倒されるばかりだった。
「姉君様。こんなところにいらしたのですか」
そのとき、聞きなれた声がチェザの背後からかかり、チェザは助けを求めるような瞳で振り返った。
「アース!」
その姿に、チェザはほっと一息つく。少しだけ緊張が緩んだ。
纏う衣は、ラカーユとよく似ている。だが、一枚の白く大きな布だけを用いるリアスとは違い、彼のいでたちは二枚の白く大きな布を用いて纏っていた。その分できる襞が多く、またゆったりとした印象を受ける。そのような格好ができる民は、月姫の巫女ときわめて血の近いということになる。
彼の名はアース。月姫の巫女やチェザの母ファーリーの実弟で、現在二十二歳。エリェルという五歳の娘を持つ父親でもある。
「まあ。アース、珍しいことですね。貴方が聖月の宮に来られるなんて」
「それでは私がいつも不義理をしているような言い方ではありませんか」
親しいもの同士だからだろうか。アースは少しむっとしたように子供っぽくにらみつけてみせた。
そうは言うものの、彼は子供時代である十四歳までを聖月の宮で過ごしたせいか、祭事を好まず、サーラの中心である聖月の宮からかなりはずれた地に家を構えている。
「だって以前顔を見せてくださったのはまだ深緑の月でしたもの」
「……姉君様。よく覚えておいでで」
大げさに呆れてみせたアースは、ふとチェザのほうに瞳を向ける。そして口の端をゆがめて笑った。
「何びくびくしてるんだよ。お前らしくもない」
ばんばんと少し強めに背中をたたかれて、チェザははっと我に返った。手が少しだけ、震えている。
「……え。あ……う、ん」
「まったく。頼りないリアスだな」
邪気など欠片もない語調で、アースはチェザの額をこつんとたたいた。隣では月姫の巫女が穏やかな笑みを浮かべていた。
(び、びっくり……したぁ)
こんな会話ができるのだ。
月霊ルーシファーを具現化したような尊い月姫の巫女と、このように気安く、親しげに話ができる民がいるとは、そのときのチェザにはまったく想像すらできなかった。彼は自分の母であるファーリーとその妹である月姫の巫女が会話をしているところにすら、居合わせたことはないのだから。
「チェザはまだリアスになったばかりですもの。緊張していらっしゃるのね、きっと」
「緊張というよりはおどおどしているように見えますが」
常日頃から親しくしているアースは、チェザに対して容赦ない。もちろんそれは愛情表現であるのだが、チェザは少しむっとしてアースをにらみつけたものの反論するべき言葉はなかった。
すぐにアースは話題を変えた。
「それよりも姉君様。このような場所で何をなさっているのですか。月姫の巫女ともあろう方が回廊をお一人で歩かれるなど、ほかのリアスに会えば咎められましょうに」
もちろんアース自身はそんな些細なことを気にするような性格ではないが、それでもチェザよりはよほど月姫の巫女のことを知っている。彼女は身体がひどく弱い。冬は彼女にとってもっとも危険な季節なのだ。もうすぐ防寒対策がなされるだろうが、それまでの間が辛い時期であるはずで、姉の身を心配するのは当然のことだった。
「……若いリアスを気にかけるのは当然のことでしょう?」
つまりチェザに会おうとしたのだと、月姫の巫女はそう言う。
だったら部屋に招けばよいものだとアースは思うが、わざとそれは言わないでおいた。微苦笑する彼を、不思議そうな瞳のチェザが見上げていた。