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【夢幻の大陸詩】 月姫楽土の子供たち  作者: 水城杏楠
三章  揺るぎなき決意
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「チェザ……っ! おい。聞こえないのか。返事をしろっ! 俺を無視するのか!」

 たどり着いた部屋には、鼻につく奇妙な匂いが漂っていた。

 その床に広がる夥しい血の鮮やかさを見て、チェザはそれが人間の血の匂いだと知った。

 誰かが二人倒れていて、チェザの耳に届いたのはまだ真新しい血溜まりの中に倒れる男のそばに座り込む男の声だった。

(……チェザ……おれと同じ名前)

 即座に嫌な予感が脳裏をかすめた。だが、そんなはずはない。あれはチェザが生まれたときの話。十五の暦を遡らねばならない。

 先ほど聞いたカリの年齢を思い出す……十二歳、だと。

(う、そだ……っ!)

 仰向けに倒れたその青年の顔が、チェザからよく見えた。

 それは二十代半ばの青年だったが、驚くほどチェザによく似ていた。

 チェザは戸口に立ち尽くしていたが、誰もそれに気づかない。チェザの名を叫ぶ声の主の顔を、チェザはようやく見た。

(……アスト? でも、違う)

 アストはチェザの父親の親友だったロア・リアスの次男で、チェザより一つ年上だった。ロアと母ファーリーは仲がよく、自然とチェザとアストも親友になった。そんな仲。

 チェザの名を必死に呼ぶこの青年はどう見ても二十歳を過ぎている。アストはまだ十六歳。鍛冶屋で働いていた。

 薬壷を持った体躯のいい男が、倒れた青年の傷を調べていた。その薬壷から、チェザは彼がリアスの中でも医療の経験を持つ民なのだとわかった。彼の表情は冷静そのもので、だがそれを不思議とも思わず、チェザはただ立ち尽くす。

 漂う血の生々しさが、チェザの感覚をどこか麻痺させていたのかもしれない。

「チェザ様!」

 背後から女性の鋭い声がなげられた。

 先ほど会ったケアラよりいくらか年上だろう。闇の日だというのに、一人彼女はどこからか走ってきたのだ。チェザは彼女に見覚えがあった。記憶の中の彼女は、眼前の彼女よりずいぶんと年上であったけれど。

 戸口に立つリアスでもないチェザの姿にはまるで気にも留めず、彼女は部屋に足を踏み入れ、そしてすぐにはっと立ち止まった。

「ネオン」

 男が彼女をそう呼んだ。

 ネオンと呼ばれた女性は、部屋の雰囲気に一瞬息を呑んだ。医療を知る男とアストによく似た男の顔を交互に見た。

 静かに、冷徹なほど静かに、その男はゆっくりと首を横に振った。

「……イーザ様、そんな。そんなことが」

「助けられないのですか、もう。これで終わりなのですか。こいつは月に召され……」

「……ああ」

 アストによく似た男の声に、イーザと呼ばれた男は簡潔な答えを返す。

「どうして。どうして今日なのです? せっかく朗報をお伝えに参りましたのに……っ!」

 ネオンは顔を覆って、だが涙を隠せずにその場に座り込む。

「お生まれになったのです。チェザ様にお子様が。ファーリー様はかわいらしい男のお子様をお生みになりました……」

 その朗報も、今となってはもう父親の耳には届かなかった。

(う、嘘だっ!)

 チェザはそう叫ぼうとした。言葉が出なかった。

 この流れる真紅の液体は、自分に流れるものと同じ血。

 これが、この姿が、チェザの父親の最期なのか。本当に?

「い……いや、だ。こんなの……」

 チェザは動かないその男を凝視した。その顔を。

 自分とそっくりなその顔。

(……さっきのやつ、だ)

 彼が祠で出会った男なのだと、脳裏のどこかで知った。常識でない部分で悟った。

 込み上げる思い。

 会ったことのない父親。

(父君、さま……)



「うわあああああぁぁぁぁーーーーーー!」



(いやだいやだいやだっ!)

 大気を切り裂くような、絶叫があたりに響き渡る。

 身体を支えるだけの力を失い、チェザはその場に崩れるようにして座り込んだ。

 リアスであったがために金色に輝く髪を持つ男に殺された父。それもチェザが生まれたその日に、まるで引き換えのようにして月へ旅立った。

 この不条理な現実に、チェザは慟哭の叫びを上げ続けた。

「父君様ぁーーーっ!」

 無意識だった。

 すべてをこの声で壊してしまえればいいと思った。父を奪ったのは月霊ルーシファーと、そしてその娘の化身である月姫の巫女だ。

(なんで! なんでこんなことがっ!)

 どうすればいいのかわからないこの思い。

 強く、哀しい。

 あの赤い液体が、自分を形成してきたものだったなんて。

 サーラのすべてが今は無意味だった。

 チェザにとっては、この死よりも意味のあることはなにもなかった。そして、それすら感じるこころは残されていなかった。

 ただ、あるのは空虚な愛情。

 父親の腕に抱かれたことのない、愛への飢え。

「…………」

 そのとき。



『サーラを見捨てないでいることが、貴方にはできますか』



 ふわりとチェザを包む、暖かい穏やかな風を感じた。

 憎しみの矛先を失って、チェザは顔を上げる。見つめる先は、何もない虚空。

 だのに、そのときのチェザにはたしかに風が見えていた。

『貴方はなにを憎んでいるのですか』

 穏やかな風は、穏やかな声で問い掛けた。

 それは少女の、美しく玲瓏な少女の声だった。チェザの双眸は十五歳の少女の姿を捉えた。

 白と緑、二色のラカーユを纏うその姿。そんなラカーユを纏えるのは、このサーラには一人しかいなかった。

(……月姫の巫女)

 なんて神々しいのだろう。

 にじみ出る光の美しさ、毅さ、そして儚さや涼しさといったすべてが、チェザが会うどんなサーラの民とも違っていた。

 チェザと同じ歳のその身体を形成するすべてを、どこから得ることができるのだろう。

(精霊の娘、だ)

 カリが月姫の巫女を人間ではないと評価した意味が、今ようやくわかった。

 月から舞い下りた月霊ルーシファーの娘。

 聖月システィザーナの記憶を受け継ぐ少女だ。

「……だっておれの、おれ、の」

 殺されたあの青年が、自分の父親なのだともうわかってしまっていても、それを言葉には出せずにいた。

 風に乗せてしまえばすべてが本当になってしまうように感じていたのだ。これらのすべてはもう、十五の暦を遡る昔に起こった事実なのだとしても。

「どうして、こんなのって……。おれ、」

 とめどなくあふれる涙。

 それを拭う術を、チェザは知らない。ただ、自然に流れるままに、頬を濡らしていた。

 あの鮮やかな真紅を、もう一生忘れられないだろうと思った。

「あんたを護って、だからあーなったの?」

『…………』

 少女は、とても……そう今のチェザですら罪悪を抱くほどに哀しい色を、その金の瞳に宿した。

 そして。

『そうです。私を庇って、彼は殺された……』

「い、やだっ!」

 耳を押さえてうずくまった。

 聞きたくない聞きたくない聞きたくない。

 突きつけられた現実。

 それは真実で、それゆえあまりにも酷薄だった。

『彼の意志を、知っていますか。小さなチェザ』

 月姫の巫女は、初めてチェザの名を呼んだ。

 はっとして目をみはると、そこは広く白い空間だった。チェザの前に立つのは幼い十五歳の少女ではなく、威厳ある、だが若々しい女性の姿だった。

「え?」

「ここは聖月の祠。聖月の御剣がかつて、奉られていた場所です」

 今度は耳に言葉が届いた。静かな、強い声。

(かつて?)

 今、は……?

「今は金の御剣を失い、それゆえ銀の御剣の御力も日に日に衰えております。わたくしが常に携帯することで御剣は暴走を押さえているのです」

 ぼやけていた声が、チェザの耳にはっきりと聞こえ、それはまさに精霊のような声だった。

「貴方は意志を、知っていますか。絶望よりも先にある、その意志を」

「……意、志」

 絶望よりも先にある?

 澄んだその声が紡ぐ言葉はひどく曖昧なものであったけれど、チェザには脳裏のどこかで意味を正確に悟っていた。

(そうか)

 チェザはようやくすべてが腑に落ちた。

 あの日、金の御剣が盗まれたのだ。それゆえ父であるチェザは闇の日であるというのに、聖月の祠に出向いた。そして、金色の男に殺された。月姫の巫女をその身体で護り。

 父はきっと、護るものを知っていた。

 見捨てないでいるその意味を、知っていたのだ。

 そしてカリも言っていた。サーラを護りたいのだと。

「おれは知っているはずだよ。……だって、そうじゃなきゃおかしい」

 それは確信。そして、必然。

 だとしたら、今のチェザにできることはたった一つしかない。

「おれが、取り戻す。金色の男を探して、おれが金の御剣を取り戻してやる。リアスの紋章はそのためにおれを選ぶんだ」

 ようやくすべきことが決まった。

 チェザにも未来が見えたのだ。

「……それでいいんだよね。父君、様」

 呼んだことのない言葉を、今初めて彼は無意識に呟いた。


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