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これは、古の物語。
今はただ、吟遊詩人のみが語り継ぐ、永い永い時を超えた逸話。
セザー=ラージュ大陸に、ようやく精霊たちの御名のもと、人々が一つの国を作り統治し統治されることを学び、文明が生まれた時。
まだ、世界に名前はなかった。
世界の中心はどこにもなかった。
あるのは真実と、それを疑わないこころ。それだけをもって、彼らは生きている。
月明かりが降り注ぐ、静謐の大地の上で。
* * *
皮肉にも、それは闇の日の夜だった。
満月の夜ごとに盛大な祭りが開かれる習慣を持つこのサーラ国の新月の日は、闇の精霊が支配しているということで、まるで死んだ街のような閑寂の中に、民はひっそりと身を潜めている。
「……ルーシファー様がおられない夜に……こんなことになろうとは」
後悔を交えた低い呟きが、人気のない真の暗闇に響いた。
明かりを持って小走りする影が一つ。
くるぶしまでも隠すどころか裾は長く後ろに流した、ゆったりとした衣服を纏った、まだ二十五歳ほどの青年だった。穢れのない一枚の白く大きな麻の布を身体へ巻きつけ、腰紐を使って留めている。ラカーユと呼ばれる独特な衣装だ。肘あたりから見えている両腕には、太い赤銅色の腕輪をしていた。
長い髪の毛は、黒色にところどころ緑を交えた美しい色あい。その緑は薬草であるラヌーの葉を用いて染めているものだ。それを金色の布で緩く巻いて銀の留め具を髪に差している。この金色の布は、この国において一番の珍品であるトリアの華から取れる金色の綿を伸ばして糸にしたものを用いて織られたもの。
彼が身につけているすべては、貴重で緻密なものだった。
そして、彼のいでたちでもっとも印象的なのは、額に擁かれた十字の紋章だ。
金色のそれは、簡素な十字の形をしているが、どこか聖性を持って、指の第一関節ほどの大きさで額に浮き出ているように見える。人工的なものではない。だが、こんなふうに痣ができることもないだろう。
彼は回廊を無心で歩く。
回廊といっても、土レンガで造られた柱と屋根代わりに掛けられた大きな布、そして歩きやすいように大きめの石を削って平らにしたものを敷き詰めた床があるだけだった。その両側には針葉樹であるスーの樹が植えられている。
木々の間から見える闇色の空には、透き通る満天の星。
それは、今宵が新月であり、闇夜を支配する最も明るい月の存在がないから。
見上げた空から視線を外すと、眼前に小さな明かりが見えた。太い木の棒に使われなくなった古い布を巻きつけて炎を灯しているそれは、だんだんと彼に近づいているようだった。
「…………」
まさか、と青年は懸念し、足を止めた。闇の日の夜に出歩く民など、サーラ国にいるはずはないのだ。
隠れるべきか悩んだ。だが、青年も同じように明かりを手にしている。気づいたと同時に相手にも気づかれているのは必至だった。
青年は覚悟を決めて、気づいていないふりを決め堂々と回廊を歩いていくことにした。
だが、やがて見えた影は、青年と同じような衣を纏う男性だった。その顔には見覚えがある。そして、彼は幼い子供を連れていた。
「チェザ!」
相手もこちらの姿を認識して、名を呼んだ。やはり聞き覚えのある声だった。
「ロア」
同じような衣服を纏い、同じ形の紋章を額に抱く、彼と同年代の男性だ。身長が高く、すらりとした体躯、背中で緩く結ったくせのある赤茶色の髪が生ぬるい風を孕んで揺れていた。
「チェーザーっ」
明るい声とともに、闇の中から走り寄った小さな影を、彼はしゃがみこんで軽く抱き留めた。かわいらしい少年だった。彼らと同じような衣だが、少し薄い麻を二枚使用していること、髪の止め具が銀ではなく金色であることなどの違いがある。
「アース様。なりませんよ。このような闇の日にお外に出ては災いが起こるやもしれません」
もうそれはすでに起こっているのだが、あえて青年ーーーチェザは言わずにおいた。まだ七歳の少年だ。幼い彼をこれ以上脅えさせたくはなかった。
「でもね。僕どうしてもチェザに早く会いたかったの。だから、姉君さまにお頼みしてロアと行っていいってことになったの。みんなすごく心配そうなお顔をしているよ。でも、チェザはきっと笑ってくれると思ったから」
幼いアースですら、周りの人々の顔色を見て不安になっている。チェザは炎を灯した木杖を石の間に差し込み、彼を少し強く抱きしめてやった。
「大丈夫でございますよ。アース様は何も心配なさらずとも、我らリアスがサーラ国をお守りしておりますから」
「うんっ。チェザならそう言ってくれると思ってた」
アースはチェザの腕の中で、安心したように笑顔を宿した。身体を離してチェザもそれに笑みを返すと、木杖を持ち直して立ち上がる。そして、傍らに待つロアを見た。
「……月姫の巫女様、は」
おそるおそる尋ねる。
今もっとも知りたい情報を。簡潔に。
「心配はいらぬ。無論ご無事でいる」
当然のように、ロアは無表情のまま答えた。
「おさすがだな。このような状況にあっても落ち着いておられる……。おれにチェザの様子を見てくるようにとお命じになったからこうして迎えに来たのだ」
「ーーーそうか」
まずは安堵し、ほっと一息ついた。翳っていた彼の藍色の瞳にいくらか光が戻る。
肩の荷が半分降りた感じが、した。
チェザは木杖をロアに渡し、アースを抱き上げる。静かな闇夜に、幼い少年のうれしそうなはしゃぎ声が響いた。
こういうときはやはり、子供の無垢さがうらやましくもあり、またそれに救われる思いもある。
「では急ぐとしよう。早くご無事なお姿を拝見したい」
「そうだな。いま月姫の巫女様は聖月の宮のもっとも奥にある一室におられる。案内しよう」