生霊の体温-間宮響子-
夜の雨は、窓ガラスを爪で引っかくような音を立てていた。
霊能力者・間宮響子の事務所は、古い雑居ビルの三階にある。
古書店と占い屋の中間のような空間で、壁には護符、棚には民俗学の本、机には録音機と温度計が置かれている。
午後九時を過ぎた頃、扉をノックする音がした。
「……どうぞ」
入ってきたのは、二十歳くらいの男子大学生だった。
濡れた黒髪が額に張り付き、顔色は異様に青い。
「突然すみません。間宮先生ですよね」
「ええ。相談?」
青年は名乗った。
「藤崎亮太といいます。都内の大学の二年です」
彼は椅子に座ると、しばらく言葉を失った。
指先が小刻みに震えている。
「……何が起きているの?」
響子が穏やかに聞くと、亮太はようやく口を開いた。
「生霊、だと思うんです」
雨の音が強くなった。
「同じ大学の女子が……僕の部屋に来るんです」
「来る?」
「夜中に」
響子の目がわずかに細くなる。
「姿が見える?」
「……最初は、影だけでした」
亮太は震える声で語り始めた。
彼の大学には、西園寺真奈という女子学生がいる。
文学部の同級生。
美人で、静かな性格で、あまり人と話さない。
だがある日、図書館で偶然話をした。
それから、真奈は亮太に妙に執着するようになった。
LINEが一日に何十通も来る。
講義のあと必ず待っている。
しかし亮太は、距離を置いた。
「正直……ちょっと怖かったんです」
すると三週間前から、異変が起きた。
夜中の二時。
アパートの部屋の中で、誰かの気配がする。
ベッドの横に人が立っている気配。
でも、誰もいない。
ただ――
「部屋の温度が下がるんです」
響子は机の温度計を見た。
「どのくらい?」
「……冷蔵庫みたいに」
そしてある夜。
亮太は、ついに見てしまった。
ベッドの足元に、女の後ろ姿が立っていた。
長い黒髪。
白いワンピース。
「振り向いたんです」
亮太は唇を噛んだ。
「顔は……西園寺でした」
響子は静かに聞く。
「その時、彼女は生きている?」
「大学には普通に来てます」
「なら、生霊の可能性はある」
亮太の顔がさらに青くなる。
「でも……おかしいんです」
「何が?」
「彼女、部屋に来るとき……」
亮太は言葉を止めた。
そして、ゆっくり言った。
「触れるんです」
部屋の空気が、わずかに冷えた。
「触れる?」
「はい」
亮太の声は震えていた。
「昨日……」
彼は語った。
夜中の二時。
いつものように気配がした。
目を開けると、西園寺真奈がベッドの横に立っている。
顔は青白い。
目は、ほとんど焦点が合っていない。
そして彼女は、ゆっくり手を伸ばした。
亮太の頬に触れた。
「……冷たい?」
響子が聞いた。
「違います」
亮太は首を振った。
「温かかったんです」
響子の眉が動いた。
「人間の体温と同じで」
彼は続けた。
「それで……こう言ったんです」
亮太の声がかすれる。
「“やっと触れた”って」
沈黙。
響子は机の上の鈴を指で転がした。
チリン、と音がする。
「彼女は帰る?」
「はい。いつも三時頃に消えます」
「消える?」
「霧みたいに」
響子は立ち上がった。
「大学名を教えて」
「東都文理大学です」
響子はスマートフォンを取り出した。
検索する。
数秒後、画面を見たまま言った。
「藤崎くん」
「はい」
「西園寺真奈の学部は文学部で合ってる?」
「そうです」
「二年?」
「……はい」
響子はゆっくり顔を上げた。
その目には、わずかな困惑があった。
「おかしい」
「え?」
「この大学の学生名簿データベース」
画面を亮太に見せた。
「西園寺真奈という学生はいない」
亮太の呼吸が止まった。
「……そんな」
「他の学部にもいない」
響子はさらに言った。
「SNSもゼロ。住所登録もない」
「でも、大学にいるんです!」
亮太は叫んだ。
「講義も出てる!みんな見てる!」
響子は静かに言った。
「写真は?」
亮太はスマホを取り出した。
震える手で、大学の集合写真を開く。
「この子です」
画面を差し出した。
響子は見る。
学生たちが並ぶ写真。
その中に――
空白があった。
人が立つはずの場所だけ、ぼんやりと歪んでいる。
しかし亮太には、そこに女が写っているように見えている。
「……見える?」
響子が聞いた。
「え?」
「そこに」
「もちろんです!」
響子は深く息を吐いた。
「藤崎くん」
「はい」
「あなた」
静かな声だった。
「いつからその大学に通ってる?」
「去年の四月からです」
「入学式の日、誰と話した?」
亮太は答えた。
「西園寺真奈です」
響子は目を閉じた。
そして、低く言った。
「違う」
「え?」
「その日、あなたは一人だった」
亮太の顔が凍りついた。
「大学の入学式の写真、ニュース、動画、全部見た」
響子はスマホを見せた。
映像には、学生たちの群れ。
その中に――
亮太がいる。
しかし彼の隣には、誰もいない。
亮太は震えた。
「……そんな」
響子の声は低い。
「藤崎くん」
「はい」
「あなたの部屋に来るのは、生霊じゃない」
彼はゆっくり顔を上げた。
「じゃあ……何なんですか」
響子は言った。
「あなたが作ったもの」
「え?」
「孤独が強すぎると、人間は霊を生む」
亮太の瞳が揺れる。
「西園寺真奈は……」
響子は静かに言った。
「あなたの霊」
沈黙。
雨の音だけが続いた。
亮太は、ゆっくり立ち上がった。
「……でも」
彼はかすれ声で言った。
「昨日、彼女は言いました」
「何て?」
亮太は震えながら笑った。
「“次は、あなたが来る番”って」
その瞬間。
響子は気づいた。
机の温度計。
針が――
急激に下がっている。
部屋の後ろで、女の声がした。
「ねえ」
響子が振り向く。
そこには、長い黒髪の女。
青白い顔。
西園寺真奈。
彼女は、亮太の肩に手を置いていた。
そして笑った。
「やっと会えた」
響子の背中に冷たい汗が流れる。
女の手は、亮太を通り抜けていない。
しっかり掴んでいる。
つまり――
響子はゆっくり言った。
「藤崎くん」
「……はい」
「あなたは」
喉が乾く。
「今ここにいるのは、生きているの?」
亮太は、少し考えてから答えた。
「……わかりません」
西園寺真奈が、ゆっくり響子を見る。
その目は、深い闇だった。
「でも先生」
亮太が言った。
「彼女、毎晩来るんです」
女は微笑んだ。
「違うよ」
そして、優しく言った。
「あなたが毎晩、こっちに来てるの」
その瞬間、事務所の電気が消えた。
暗闇の中で、響子は確かに聞いた。
ベッドのきしむ音。
そして――
男の寝息。
まるで遠くの部屋で、
誰かが眠りながら笑っているようだった。
――(完)――




