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生霊の体温-間宮響子-

作者: 江渡由太郎 原案:J・みきんど
掲載日:2026/04/09

 夜の雨は、窓ガラスを爪で引っかくような音を立てていた。


 霊能力者・間宮響子の事務所は、古い雑居ビルの三階にある。

 古書店と占い屋の中間のような空間で、壁には護符、棚には民俗学の本、机には録音機と温度計が置かれている。

 午後九時を過ぎた頃、扉をノックする音がした。


「……どうぞ」


 入ってきたのは、二十歳くらいの男子大学生だった。

 濡れた黒髪が額に張り付き、顔色は異様に青い。


「突然すみません。間宮先生ですよね」


「ええ。相談?」


 青年は名乗った。


「藤崎亮太といいます。都内の大学の二年です」


 彼は椅子に座ると、しばらく言葉を失った。

 指先が小刻みに震えている。


「……何が起きているの?」


 響子が穏やかに聞くと、亮太はようやく口を開いた。


「生霊、だと思うんです」


 雨の音が強くなった。


「同じ大学の女子が……僕の部屋に来るんです」


「来る?」


「夜中に」


 響子の目がわずかに細くなる。


「姿が見える?」


「……最初は、影だけでした」


 亮太は震える声で語り始めた。

 彼の大学には、西園寺真奈という女子学生がいる。

 文学部の同級生。

 美人で、静かな性格で、あまり人と話さない。

 だがある日、図書館で偶然話をした。

 それから、真奈は亮太に妙に執着するようになった。

 LINEが一日に何十通も来る。

 講義のあと必ず待っている。

 しかし亮太は、距離を置いた。


「正直……ちょっと怖かったんです」


 すると三週間前から、異変が起きた。

 夜中の二時。

 アパートの部屋の中で、誰かの気配がする。

 ベッドの横に人が立っている気配。

 でも、誰もいない。

 ただ――


「部屋の温度が下がるんです」


 響子は机の温度計を見た。


「どのくらい?」


「……冷蔵庫みたいに」



 そしてある夜。

 亮太は、ついに見てしまった。

 ベッドの足元に、女の後ろ姿が立っていた。

 長い黒髪。

 白いワンピース。


「振り向いたんです」


 亮太は唇を噛んだ。


「顔は……西園寺でした」


 響子は静かに聞く。


「その時、彼女は生きている?」


「大学には普通に来てます」


「なら、生霊の可能性はある」


 亮太の顔がさらに青くなる。


「でも……おかしいんです」


「何が?」


「彼女、部屋に来るとき……」


 亮太は言葉を止めた。

 そして、ゆっくり言った。


「触れるんです」


 部屋の空気が、わずかに冷えた。


「触れる?」


「はい」


 亮太の声は震えていた。


「昨日……」


 彼は語った。



 夜中の二時。

 いつものように気配がした。

 目を開けると、西園寺真奈がベッドの横に立っている。


 顔は青白い。

 目は、ほとんど焦点が合っていない。

 そして彼女は、ゆっくり手を伸ばした。

 亮太の頬に触れた。


「……冷たい?」


 響子が聞いた。


「違います」


 亮太は首を振った。


「温かかったんです」


 響子の眉が動いた。


「人間の体温と同じで」


 彼は続けた。


「それで……こう言ったんです」


 亮太の声がかすれる。


「“やっと触れた”って」


 沈黙。


 響子は机の上の鈴を指で転がした。

 チリン、と音がする。


「彼女は帰る?」


「はい。いつも三時頃に消えます」


「消える?」


「霧みたいに」


 響子は立ち上がった。


「大学名を教えて」


「東都文理大学です」


 響子はスマートフォンを取り出した。

 検索する。

 数秒後、画面を見たまま言った。


「藤崎くん」


「はい」


「西園寺真奈の学部は文学部で合ってる?」


「そうです」


「二年?」


「……はい」


 響子はゆっくり顔を上げた。

 その目には、わずかな困惑があった。


「おかしい」


「え?」


「この大学の学生名簿データベース」


 画面を亮太に見せた。


「西園寺真奈という学生はいない」


 亮太の呼吸が止まった。


「……そんな」


「他の学部にもいない」


 響子はさらに言った。


「SNSもゼロ。住所登録もない」


「でも、大学にいるんです!」


 亮太は叫んだ。


「講義も出てる!みんな見てる!」


 響子は静かに言った。


「写真は?」


 亮太はスマホを取り出した。

 震える手で、大学の集合写真を開く。


「この子です」


 画面を差し出した。


 響子は見る。

 学生たちが並ぶ写真。


 その中に――

 空白があった。


 人が立つはずの場所だけ、ぼんやりと歪んでいる。

 しかし亮太には、そこに女が写っているように見えている。


「……見える?」


 響子が聞いた。


「え?」


「そこに」


「もちろんです!」


 響子は深く息を吐いた。


「藤崎くん」


「はい」


「あなた」


 静かな声だった。


「いつからその大学に通ってる?」


「去年の四月からです」


「入学式の日、誰と話した?」


 亮太は答えた。


「西園寺真奈です」


 響子は目を閉じた。


 そして、低く言った。


「違う」


「え?」


「その日、あなたは一人だった」


 亮太の顔が凍りついた。


「大学の入学式の写真、ニュース、動画、全部見た」


 響子はスマホを見せた。


 映像には、学生たちの群れ。

 その中に――

 亮太がいる。

 しかし彼の隣には、誰もいない。

 亮太は震えた。


「……そんな」


 響子の声は低い。


「藤崎くん」


「はい」


「あなたの部屋に来るのは、生霊じゃない」


 彼はゆっくり顔を上げた。


「じゃあ……何なんですか」


 響子は言った。


「あなたが作ったもの」


「え?」


「孤独が強すぎると、人間は霊を生む」


 亮太の瞳が揺れる。


「西園寺真奈は……」


 響子は静かに言った。


「あなたの霊」


 沈黙。


 雨の音だけが続いた。

 亮太は、ゆっくり立ち上がった。


「……でも」


 彼はかすれ声で言った。


「昨日、彼女は言いました」


「何て?」


 亮太は震えながら笑った。


「“次は、あなたが来る番”って」


 その瞬間。

 響子は気づいた。


 机の温度計。

 針が――

 急激に下がっている。

 部屋の後ろで、女の声がした。


「ねえ」


 響子が振り向く。

 そこには、長い黒髪の女。

 青白い顔。

 西園寺真奈。

 彼女は、亮太の肩に手を置いていた。


 そして笑った。


「やっと会えた」


 響子の背中に冷たい汗が流れる。

 女の手は、亮太を通り抜けていない。

 しっかり掴んでいる。


 つまり――


 響子はゆっくり言った。


「藤崎くん」


「……はい」


「あなたは」


 喉が乾く。


「今ここにいるのは、生きているの?」


 亮太は、少し考えてから答えた。


「……わかりません」


 西園寺真奈が、ゆっくり響子を見る。


 その目は、深い闇だった。


「でも先生」


 亮太が言った。


「彼女、毎晩来るんです」


 女は微笑んだ。


「違うよ」


 そして、優しく言った。


「あなたが毎晩、こっちに来てるの」


 その瞬間、事務所の電気が消えた。

 暗闇の中で、響子は確かに聞いた。

 ベッドのきしむ音。

 そして――


 男の寝息。

 まるで遠くの部屋で、

 誰かが眠りながら笑っているようだった。



 ――(完)――

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