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8.葛藤のはざま 祈りの果てに残る確かな面影 <男> シャルル=イグナス・サンソン

陽光は、すぐに届かない。


空の明るさは、四方を囲む建物の壁の上から、ゆっくりと降りてくる。


小さな井戸のそばに立ち、感触を確かめるように、桶を指で撫でた。


水が、冷たかった。


遠くで、鳥が鳴く。


胸の奥に広がる空気は澄んでいて、心の奥の重みを少し軽くしてくれる。


「早いですね。」


後ろからの声。


「いつも、朝は、神への祈りをささげていますので。」


いつもの狭い部屋と、今日の井戸のある狭い庭・・・


祈りのなかった朝など、いつぶりだろうか。


アンヌが、笑った。


「変ですね。あんなにいっぱい話すつもりなどなかったのに。」


胸の高鳴りを押さえ、静かに答えた。


「聞いていて、こちらの心が落ち着きました。」


アンヌは、少し驚いた顔をして、それからまた笑った。


胸の奥に、温かいものが広がるのを感じた。


部屋に戻り、服を着る。


「あら、朝食も準備しますのに。」


「いえ、今日は、もう帰ります。少し、やらねばならぬことがありますので。」


ここで椅子に座ってしまうと、もう帰ることができなくなるような気がした。


「では、お食事は、今度ですね。」


いや、もう離れることなどできないのかもしれない。


アンヌが持ち上げた外套を受け取り、ばさりと音を立てて羽織ると彼女の家を出た。


最初の角を曲がるまで、何度振り返っても、家の前に立った彼女の顔が見えた。


朝の街は湿った空気に包まれ、石畳は薄く濡れて光る。


坂道を下りると、細かい雨が降り始めた。


雨は、次第に強くなり、石畳を叩く音が広がる。


水が溝に流れ、小さな流れを作っていた。


濡れるのも、悪くない。


自然と笑みがこぼれた。


雨に打たれながら、胸の奥に生まれている感情の輪郭を確かめる。


何度も、否定しようとしてきたもの。


だが、もはや無かったことにはできない。


彼の人生は、決して劇的ではない。


むしろ、平坦すぎるほど。


だが、その平坦さの中に、簡単には説明しがたい起伏がある。


もともと、強い人間ではない。


何かを、激しく求めるわけでもない。


だからこそ、今、胸の中にあるこれが、どれほど大きいものであるか・・・


朝の祈りの分までというわけではないが、昼を過ぎるころまで、祈祷書を片手に祈った。


立ち上がり、窓から外を見ると、遠く屋根の群れの向こうに薄い煙が見える。


そこに、彼女がいる。


そう思うだけで、胸が静かに揺れる。


しかし、同時に、別の声が、聞こえる。


自分は、今、どこに立っているのか。


この人生は、もともと、生から少し離れた場所に置かれている。


家庭を持つこともなく、誰かと食卓を囲むこともない。


それでいいと、ずっと思ってきた。


むしろ、それが、ふさわしい生き方だと思っていた。


だが、今この時、その確信が、揺らいでいる。


アンヌと笑い合う時間を知ってしまった。


彼女に触れる喜びを知ってしまった。


胸に温かさと・・・同時に、痛みが走った。


彼女は、この街で生きている。


人と関わり、働き、笑い、泣く。


それに比べて自分は、外側の人間だったはずだ。


気づけば、長い時間、窓の外を眺めて立ち尽くしていた。


煙は、もう見えなかった。


淡く細い煙が、確かに上がっていたその場所を見ながら思った。


アンヌに・・・あの人に、これ以上近づいてはいけないのではないか・・・


石の壁、木の机、硬い椅子。


長い年月、この部屋でひとり過ごしてきた。


同じように座って過ごしてきた。


胸の中に、言葉にできないものがある。


目を閉じて、ひざまづく。


神に、祈りをささげようとした。


しかし、浮かんだのは、彼女の笑顔。


ただよう雨上がりの匂い。


葛藤のはざま・・・祈りの果てに残る確かなその面影・・・


すべてが、心の奥で静かに光る。


この気持ちは、消すべきなのか。


それとも、受け入れるべきなのか。


答えを出すことは、簡単ではない。


ひとつだけ、確かなこと。


彼女と出会ってから、世界の色が変わった。


石畳の硬さも、朝の音も、雨に打たれる木の枝も・・・


それは、これまでなかった感覚だった。


ゆっくりと、目を開いた。


遠くに、街のざわめきが、揺れていた。


胸の中の灯を、強く感じていた。


小さく、頼りない灯。


だが、確かに、燃えている灯だ。


それを、消してしまうことは、できるはずだ。


きっと、今ならできる。


これまでの静かな日々に、戻ることができる。


しかし、そうすれば、この灯の温かさも消える。


生とは、穏やかな灰色だった。


それが今、色づいている。


この灯を抱えたまま、生きていくことは、罪なのだろうか。


大きく、息を吸う。


歩みの先に、罪の匂いがあったとしても・・・


静かに、息を吐いた。


それでも・・・彼女と出会ったことだけは、間違いではない。


胸の奥で、そう言い切ることができる何かが、確かに息づいていた。

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