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7.黄昏の慎ましき逢瀬   <女> アンヌ・ド・ブリュイ

鐘の音が、空に静かに響いた。


あたりは、茜に染まりはじめ、先ほどより長くなった城壁の影が、石畳に伸びる。


風が吹き抜け、袖を揺らした。


震えは、寒さのせいではない。


彼は、ただそこに立っている。


外套の紐をいじりながら、定められない視線をもてあましている。


その手に持つものが、刃ならば、迷いなく振るう人であろうに、今は、まるで道に迷った少年。


私が、行くしかない。


そう思いながらも、胸の奥がきゅっと縮む。


軽々しく殿方に触れる・・・はしたない女と思われはしないだろうか。


慎みを知らぬ女だと、軽んじられはしないだろうか。


風が頬を撫で、その決断を催促する。


お前が迷っているうちに、鐘の余韻が消えてしまうぞっ!と急かす。


小さく息を吸い、一歩、彼の隣へと歩み寄った。


彼の気配を、強く感じた。


外套越しに伝わる温度が近い。


そっと指先を伸ばし、腕に触れる


動かない。


静かに、息を詰めた気配だけが伝わる。


拒まれてはいない・・・そのことが、わずかな支えになる。


思い切って、そっと腕を絡ませた。


胸が、早鐘のように鳴る。


視線を上げるのが、怖い。


軽い女だと、思われていないだろうか。


困らせてしまっただろうか。


けれど、腕は振り払われない。


むしろ、ほんの少し、ぎこちなく力がこもるのを感じる。


その小さな応えに、胸の奥がやわらぐ。


「参りましょう。」


声が震えぬよう、できるだけ穏やかに告げる。


夕暮れの風は、少し冷たい。


そして、絡めた腕が、温かい。


慎みを破ったかもしれない。


それでも 彼と並んで歩きたいという、ささやかな願いは、許されてほしい。


ゆっくりと、昼のざわめきを沈めながら、街を歩く。


2人分の石畳を踏む音が、静かに重なりはじめると、心まで彼と重なった気がした。


「ほら、あの橋っ。」


指さした先、川面は赤く染まり、光が揺れていた。


彼と並び、セーニゥ川に架かるブオナパルテ3世橋に立つ。


橋にそびえる黄金の彫像は、夕陽を浴びて燃えるように輝き、光は、空から零れ落ちた祝福のように私たちを包んでいた。


川面は光を受けて揺れ、無数の祈りが、水に溶けて流れていく。


欄干に手を置き、彼の横顔をそっと見上げる。


陽に縁取られた朱色の横顔は凛として、どこか遠くを見つめるように静かだった。


彼の胸の奥に、私の知らない深い世界が広がっているのだろう。


沈黙は、優しさであり、同時に壁である。


彼の外套が風に揺れるたび、その布越しに伝わる体温を想像する。


もう一度触れたいと思い、胸が熱くなる。


彼の手は慎ましく、私の体を強く引き寄せなかった。


それでも、並んで立つだけで心が満ちるのは、なぜだろう。


黄金の像が最後の強い光を放つ瞬間、思わず目を細める。


眩しさの中で、彼がこちらを見た。


視線は、どんな言葉よりも強く、胸を震わせる。


微笑みを返すが、その内では、不安が揺れる。


彼の選んできた道は、私の存在を許すのだろうか。


彼の静かな信念は、私を受け止めるだろうか。


夕刻のリーパは、美しい。


だが、美しさは、儚い。


この瞬間が、やがて消えてしまう幻のよう・・・


彼の横に戻ると、腕を絡ませ、大きく分厚い手の甲にそっと触れた。


彼は、わずかに息を飲み、それでも手を引かなかった。


小さな勇気。


群青に染まる空が、灯火が描く水面の柔らかな円をうつしていた。


黄金の像は昼の炎を失いながらも、輝きを保ち続けている。


その姿は、彼のよう・・・孤高の姿に、彼を重ねた。


強く燃え上がることはないが、決して消えない光を秘めている。


高く・・・遠く、近づきがたい存在。


ゆっくりと歩き出す。


石畳を踏むたび、近づいてくる夜の冷たさが、足元から伝わった。


彼は、多くを語らない。


その沈黙の中に、葛藤があることを感じる。


風が強まり、髪が頬にかかった。


かたい指が、頬に触れた。


無言で、髪をそっと払う指。


指先の優しい動きに、胸が締めつけられる。


触れられた箇所が、ほのかに熱を帯び、鼓動が早まる。


彼に問いたい。


あなたは、私と共に未来を歩めるのかと。


だが言葉にすれば、壊れてしまう気がして、頬を撫でた手をただ握る。


彼は一瞬ためらい、それでも指を絡めてくれた。


その瞬間、橋の灯りが一層明るく感じられた。


水面に揺れる光は、不確かな未来のよう。


揺れながらも、確かに存在している。


彼の横顔を見つめる。


表情は苦悩に満ちているようで、どこか安らいでもいる。


もし、彼が選ぶ道に私が含まれていなくても、今この時間だけは、彼の隣で笑っていたい。


濃い群青色となった空気は冷たく、彼の手は温かい。


その温もりが、私のすべてを溶かしていく。


黄金は闇に沈み、橋は星と一体になる。


心は、彼の鼓動に合わせて確かに拍動している。


紫へと色を変えようとする空の下、淡く細い2つの影が橋へと落ちる。


それは、黒いひとつの影となり、月を背負って立ち尽くす。


私は目を閉じ、その温もりを胸に刻んだ。

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