閑話.処刑~刃の落ちる時~ <男> シャルル=イグナス・サンソン
リーパの街は、感情のない霧の中に沈んでいた。
石畳は、夜露を吸い、わずかな光さえも跳ね返す。
処刑台の前に立ち、皮の手袋越しに柄を握りしめながら、ゆっくりと息を吐いた。
白い霧が、喉を刺す。
処刑台の周囲では、好奇心に駆られた気の早い市民が、まばらに集まり始めていた。
誰もが声を潜め、確かな期待を胸に秘めている。
血の匂いを求めるのは、人の本能であった。
本日の罪人は、元修道司祭。
修道院の内部で特別に高い地位を持たないただの司祭であった男。
彼は、修道院の聖具を持ち出し、それを売却しただけでなく、犯罪組織とつながりを持ち、リーパの街において犯罪者の連絡係として顔役となっていた。
吐息が、宙に溶ける。
今日、私の刃は、一人の男の首を断つ。
ただの司祭だった男。
「ただ」・・・普通の・・・その平凡さが、いかに危うい均衡の上にあるものか・・・
神に仕えながら、神の家の宝を盗み出し、盗人の市場で売り払った。
聖杯、燭台、古い銀の聖遺物箱。
祈りの場にあるべき聖具を、金貨へと変えたのだ。
その後、街の犯罪組織と手を結び、裏路地の影で暗躍する者たちの連絡係となった。
聖職者の衣を脱ぎ捨て、裏切り者としての道を選んだ男。
太陽が東の空から移動する頃に、牢から連れ出された男が運ばれてきた。
鎖のたてる冷たい金属音が、群衆のざわめきを破る。
男は、やつれ、頬はこけ、しかし、目だけは妙に澄んでいた。
視線が、刹那に私を射抜く。
恨みか、諦めか、救いを求める祈りか。
その意味を読み取ろうとせず、感情を消した。
塔の影が、長く伸びる。
教会の鐘が鳴った。
神は、今も、彼を見ているのであろうか。
胸中に、たわいもない疑問が浮かぶ。
軽く首を振り、それを振り払う。
私の役目は、神意を推し量ることではない。
神の名のもとに法を執行すること・・・それだけだ。
時間を追うごとに群衆が増え、ざわめきの波が広がる。
気を紛らわすために大きな声をあげる者、子どもを肩車する父親、興奮で目を輝かせる若者。
人々の視線は、処刑台へと注がれる。
階段を上り、刃を布で拭った。
冷たい鉄の感触が、布を通して掌と心に伝わる。
男は、膝をつかされ、縄で縛られる。
かつては、同じ格好で神に祈りを捧げたであろう。
手の震えは、寒さか恐怖か・・・それとも神への祈りか。
一歩近づき、彼の耳元で、形式的な問いを発した。
「言い残すことはあるか。」
男は、唇を震わせ、小さく笑う。
「神は、応えない。沈黙したままだ。」
罪人は、短く答えた。
その言葉は、すぅっと霧の中に溶けた。
目を閉じ、短く息を整える。
刃を振り下ろす瞬間まで、人は、常に揺れる。
その揺れを断ち切るのもまた、私の務めだ。
男が、どうして聖具を盗み、闇に身を落としたのか。
修道院の聖具室から消えた銀の燭台が現れた時、街は騒然となった。
信仰の象徴が金貨と交換される現実。
人々の怒りは激しく、冷酷だった。
やがて、男が裏社会の連絡役として暗躍していると判明した。
かつての聖職者の顔を隠し、情報を運ぶ。
祈りの言葉を知る者は、人の懺悔も知る。
彼は、修道院に並ぶ教会に祈りに訪れた人々のそれをも・・・金貨へと変えたのだ。
男の顔は、静かだ。
処刑台の上で、群衆を見渡す。
罵声が飛び、石が投げられる。
手を上げ、それを制する。
秩序は・・・法は、守られねばならない。
混沌は、さらなる罪を生む。
制止を無視して投げられた石が、こつんと男の足元に転がった。
「私は、盗んだ。」
罪人が、突如、声を張る。
「だが、神は、救わなかった。」
修道院の内部事情など、外の者には分からない。
貧困、嫉妬、野心・・・
聖なる壁の内側にも、弱さは、巣食うであろう。
胸の奥が、重くなるのを感じた。
彼が苦しみ、助けを求めて拒まれたのだとしたら・・・
それでも、盗みと裏切りは、正当化されない。
法は、感情によって揺らがぬためにある。
霧が、晴れ始めた。
処刑台が、霧を裂いた陽光に照らされ、朱色に染まる。
それは、以前に流れた血の記憶。
刃の重みは、男の罪の重みか、私の迷いか。
男の首筋には、汗の粒が光る。
罪人が、目を閉じ、小さく祈りの言葉を呟いた。
神は沈黙していると言った男が、なお祈る・・・
その矛盾が、私の胸に刺さる。
修道院より一緒に逃げた女は、彼が捕らえられた時点で、既に行方知れず。
曖昧なまま、影のように消えた存在。
男は、彼女を守ろうと罪を犯したのか、あるいは、彼女に溺れたのか。
彼は、女について何も語らなかった。
真相は、彼の胸にのみ残り、血と共に処刑台の上へと落ちるだろう。
男は、空を見上げた。
神を求めているのか、それとも女の姿を思い描いているのか。
彼の唇が、動く。
「どうか、生きてくれ。」
その言葉は、神に向けたものではなかった。
最後の小さな祈りは、もはや自分のためのものではなかったのだろう。
男の目の前に、見えぬ女の影が立つ気がする。
彼を、破滅へ導いた存在。
あるいは、彼を人間らしくした存在。
もし、彼女が、彼を利用しただけなら、愚か者だ。
もし、本当に愛し合っていたなら、もっと愚かだ。
法は、感情を必要としない。
男の肩が、震えた。
呼吸を止める。
空気を裂く音。
瞬間、衝撃が、軽く腕に伝わる。
鈍い感触、鮮やかな赤。
血の匂いが、空気に溶けた。
群衆が一斉に息を呑み、歓声と悲鳴が入り混じる。
刃を引き抜き、血を払い落とす。
仕事は、終わった。
だが、胸の奥に残る重さは、消えない。
地に広がる赤は、光の中で黒く沈む。
男の顔は、静か。
苦悶よりも、解放に近い。
それを見て、奇妙な安堵を覚えた。
少なくとも、彼の苦しみは・・・その生は、終わったのだ。
だが、私の役目は、続く。
ひとつの処刑が終わっても、街から罪は消えない。
布で拭きとりながら、自らの手を見つめる。
血に濡れた手。
それは法の象徴か、それとも単なる暴力か。
広場の石畳に血が滴り、細い溝を伝って流れる。
鐘の音が響いた。
日常が戻る。
石造りの街は、何事もなかったかのように動き出す。
胸には、重い影が残る。
消えた女は、今どこにいるのか。
遠い村か、別の街か。
それとも、既にこの世にいないのか。
彼女は、この鐘の音を聞いただろうか。
空を見上げた。
青空が広がり、雲がゆっくりと流れていく。
神は、沈黙している。
石畳を踏みしめて歩き出す。
革靴の音が、規則正しく響く。
城壁の門を抜ける風が、血の匂いを薄めていく。
私は、リーパの死刑執行人・・・ムッシュ・ド・リーパ。
法の刃であり、街の影。
刃の重みは、深く腕に残る。
リーパの街は、静寂を取り戻し、鐘の余韻が、長く宙に漂う。




