3.一目ぼれという罪 <男> シャルル=イグナス・サンソン
沈黙は短く、濃密だった。
通りの喧騒が遠のいたかのように、二人の間に静かな空間が生まれていることを感じた。
シャルル=イグナスは、その沈黙を破る言葉を探した。
同時に、これ以上関わるべきではないという声も、彼の内で強く響いていた。
雲間から顔を出した日の光が、胸をグサリと刺し、思わず目を瞬く。
そうして目を開けた瞬間、女・・・アンヌの視線と彼の視線がぶつかった。
右と左の耳が、熱くなっていく音が聞こえた。
・・・一目ぼれ?
そんな言葉は、軽薄なものだ。
理性を欠いた感情の暴走だ。
しかし、今この瞬間、自分がその只中にいた。
アンヌの眼差しに、彼を裁く色がなかった。
下世話な好奇心も、あからさまな嫌悪も、過剰な同情もない。
ただ、一人の人間として向けられる視線。
その事実が、彼を深く揺さぶった。
彼が処刑台の上で受ける視線でもなく、街ですれ違う人から受けるそれでもない。
あの場所では、彼は、役割でしかなかった。
仕事・・・その職務が、イコール人格であった。
だが、今この時、彼は、シャルル=イグナスという一人の男であることを思い知らされる。
「休日に本を?」
彼は、ようやく言葉を見つけた。
あまりに平凡で、意味がない言葉。
しかし、彼にとって大きな一歩。
アンヌは、小さく頷いた。
「ええ。考えを整理したくて。静かな時間が・・・いえ、本が好きなんです」
その答えに、彼は、なぜか救われた気がした。
彼女の言葉は、彼の魂と自然を静かに結びつけ、断罪や赦免と無縁の世界が、ここにあることを確信させた。
その手の中にある本がただよわせる、乾いたインクの匂いが、自身が体にまとう血を・・・死の臭いを薄めてくれるような気がした。
彼女の柔らかな横顔を雲間からの日が優しく照らし、髪は、栗色に輝き、光を受けて透ける睫毛の影が頬に落ちる。
日差しに思わず手をかざした彼女は、それをじっと見られていたことに気づき、わずかにはにかむように微笑んで彼に問い返した。。
「あなたも、本を?」
「ええ、少し。静かなものを私も好みます。」
自分の口から出た言葉に、彼は内心驚いた。
静謐・・・静かなもの。
今まで隠していた自分が求めているそれを、初めて人に認めた気がした。
「静けさは、心を映す鏡ですから。」
彼女のその言葉は、彼の胸の奥に落ちた。
処刑前の喧騒・・・それは、群衆のざわめきであり、血への期待である。
その後に訪れる断末魔。
それらの中で、彼は無表情で、無関心であろうと努めた。
だが、心は、決して静かではなかった。
本は・・・いや、彼女の存在は、騒音を遠ざける。
会話は、思いのほかに長く続いた。
書店の前に立ち、ぎこちなく言葉を交わし続ける。
好きな作家、読書の時間、目の前のプラタナスの枝にとまった小鳥のさえずり。
だが、彼女は、自分の素性を告げなかった。
問えば、この穏やかな空気が壊れるのではないかという恐れがあった。
しかし、同時に、それを知らねば・・・もう一度会うすべを得ねば、この場を立ち去ってはならぬと心が告げていた。
葛藤は、胸の内で静かに渦巻いた。
しかし、別れの時は、あっけなく訪れる。
彼女には、用事があるであろうし、彼もまた、これ以上、この場に留まる理由を見つけられなかった。
形式的な挨拶を交わし、それぞれの方向へ歩き出す。
その数歩の間に、彼の胸には、はっきりとした自覚が、芽生えていた。
これは過ちかもしれないし、おそらく過ちであろう。
同時に、彼の人生で初めて、その仕事と神の存在以外のものに、強く心を引き付けられた瞬間であった。
彼は、振り返らなかった。
振り返ってしまえば、今のこの気持ちが・・・すべてが嘘になってしまう気がした。
だが、心は、今も彼女の後ろ姿を追っていた。
信心深く、自らを厳しく律してきた男が、休日にはじめて犯した、たった一度の最も静かで、最も深い罪。
それが、シャルル=イグナス・サンソンの一目ぼれであった。




