2.彼の名を知る前に <女> アンヌ・ド・ブリュイ
あの日、私は、いつものように指定された本を探していただけだった。
特別な意味はなかったし、期待もしていなかった。
ただ、頭の中が少し騒がしくて、いつもの古書店の前にたたずんでいる時間が長かったというだけだ。
人通りの多い通りで、あの店の前だけは、不思議と静か。
ムーン=チャック通りのその書店は、扉の軋む音すら穏やかで、通りの喧騒から切り離されたような空気を持っていたのだ。
私は、その静けさが好きだった。
店先で立ち止まり、表から見える書棚に並べられた本の背表紙を眺めていた。
指定される本は、いつも外から見える場所にある。
視線を感じたのは、偶然だったと思う。
ふと顔を上げたとき、通りの向こうに立つ男性と目が合った。
じっと見つめられていた、というより、こちらを見ていることに気づいていなかった・・・そんな印象だった。
背の高い男性。
黒に近い外套。
整えられた身なり。
硬いのに、冷たくない。
感情を押し殺しているのに、無感情ではない。
姿勢がよく、どこか張りつめた空気を纏っている。
その緊張感が、なぜか気になった。
不思議と怖さは感じなかった。
そうして、すぐに視線を逸らした。
見知らぬ男性と目を合わせ続けるほど、私は大胆ではない。
礼儀でもあり、自己防衛でもある。
だが、心のどこかで、もう一度見てしまいそうな予感があった。
時間が、ほんの一瞬だけ伸びたように感じた。
気を取られてはいけない。
今は、やるべきことを成すべきだ。
そうは思うものの、心がいうことを聞かない。
胸の奥で、小さな波紋が広がっているのを感じた。
案の定、気が散った私は、手に取っていた本から走り書きの紙を落としてしまった。
指定された本に挟まれた走り書きは、人に知られぬように回収しなければならない。
近づいてくる男から、目が離せなかった。
声をかけられ、心臓が跳ねた。
驚きはしたが、恐怖はなかった。
「失礼。これを・・・」
低く抑えられた響き。
丁寧で、距離をわきまえた声。
逃げたいとは思わなかった。
何より紙を回収しなければならない。
それを受け取るとき、私は彼の手を見た。
大きく、節のはっきりした手。
力を秘めているはずなのに、乱暴さはなく、むしろ慎重だった。
その手が、刃を振り下ろすためにあるとは、私はまだ知らなかった。
自然と、名を名乗っていた。
理由は分からない。
ただ、この短い出会いを、無言のまま終わらせたくなかったのだと思う。
彼が名乗った瞬間、世界がわずかに傾き、胸の奥が冷えた。
『シャルル=イグナス・サンソン』
知らぬはずがない。
死をもたらす不吉な名前。
その名は、リーパでは避けて通れない。
恐怖と死とを背負った名前・・・
私は一歩、距離を取った。
それでも、目は逸らさなかった。
逃げることは、簡単だった。
でも、逃げてしまえば、彼が本物の死神になって追いかけて来る気がした。
想像していた処刑人の姿と、背が高く、節のはっきりした手を持つ男・・・
なぜだろう?
噂と、目の前の人物が、どうしても重ならない。
それは、いつもの夢の中で、私の首に鋭い刃を振り落とす男ではなかった。
処刑人とは、もっと粗暴で、もっと無神経で、もっと冷たい存在であるはずだった。
その事実が、私を混乱させ、同時に強く惹きつけた。
彼は、私を追い詰めることもしなかったし、何の詮索もしなかった。
ただ、そこに立って、落ちた紙を拾い上げただけ・・・
その静けさが、妙に誠実に感じられた。
別れたあと、私は長い間、歩きながら彼の背中を思い出していた。
心臓の鼓動が、いつもより少し速かった。
怖かったのか、惹かれていたのか、自分でも分からない。
何度か後をかえりみたが、彼が後ろを見ることはなかった。
残ったのは疑問だった。
人は、役目・・・その仕事だけで生きているのだろうか?と・・・




