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終話.処刑~刃の落ちる時~ <男> シャルル=イグナス・サンソン

心が、感情のない霧の中に沈んでいた。


石畳は、夜露を吸い、わずかに差し込む光さえも、深く吸収していく。


処刑台の前に立ち、皮の手袋越しに柄を握りしめながら、大きく息を吐いた。


白い霧と、黒い感情が、胸を刺す。


こころの苛立ち・・・気持ちが荒ぶるのは、アンヌと1週間会うことができていないせいだけではない。


伝えたかった。


大好きだ。


あなたに出会えて、本当に幸せだ・・・と。


処刑台の周囲には、市民が、まばらに集まり始めていた。


セーニゥ川から吹き上げる風が、人々の服を揺らし、布の擦れるその音が、水面を揺らす波のように重なる。


目を閉じると、自然と、アンヌの顔が、浮かびあがった。


手を取って、しっかりと、心からの愛を伝えるべきだった。


心に残った赤と紫の炭火が、燃えている。


やがて、女が現れた。


人々は、処刑台の前に引きずり出された悪女を指さし、口々に叫ぶ。


あの女。


裏路地の運び子。


盗賊の連絡役。


兄とも父とも言える元司祭をたぶらかし、修道院の聖具を持って逃げた女。


リーパの街において、犯罪者の連絡係となった元司祭の手足。


女は、疑われず、彼らの間を飛び、手紙を・・・秘匿されたメモを受け渡した。


盗みの計画、密輸の時間、汚職の匂い、役人の巡回。


それらを、知らぬふりをして運ぶ。


中身を知れば、死ぬ。


生きるために運んだ紙が、今は、女を殺す罪状になっていた。


縄が引かれ、女は、処刑台へと足を進める。


罪人の視線は、遠くにあった。


足は、木の階段の前で、止まる。


処刑台の匂いが、罪人を足止めする。


古い木材の匂い。


雨と、血と信仰の匂いを吸い込んだ木が、みしみしと軋む。


処刑台の階段をのぼる白い足。


一歩、もう一歩。


軋む木の音は、不思議なほど広場に響き、そのたびに、時間がひび割れていく。


元司祭が捕まり、処刑された後も、女は、逃げなかった。


その知らせは、リーパの街中に響いたにもかかわらず・・・


罪人が、処刑台の頂きへ立つ。


死刑執行人と同じ高さに・・・


すべての視線が、集まった。


いまだ灰色の空に、ゆっくりと優雅に、好奇の視線を断ち切りながら、鳩が横切った。


空は、広い。


驚くほど、広い。


女は、その広さを、静かに見つめていた。


逃げることは、できた。


だが、女は、逃げなかった。


首が、細く白かった。


女の胸が、わずかに上下する。


長い道を歩み終えた旅人のような、静かな呼吸。


動きは、驚くほどゆっくりで、穏やかだった。


女は、どんな夜を、駆け抜けてきたのだろう。


どんな裏路地を抜け、どんな橋の下を渡り、どんな紙を運んだのだろう。


夕刻の橋のきらめきは、どううつったのだろう。


私の役目は、物語を知ることではない。


神意を、推し量ることでもない。


神の名のもとに、法を執行すること・・・


刃を、布で拭った。


冷たい鉄の感触が、布を通して掌と心に伝わる。


女が、膝をつかされる。


形式的な問いを発しようとして、足が震えた。


声が、出なかった。


罪人も、何も言わなかった。


法は、感情を必要としない。


それは、よく知っている。


振り上げた刃が、重かった。


その重さが空気を裂き、ザクリと音をさせて、複雑な感情を断ち切った。


鈍い感触、鮮やかな赤。


とろりとした赤粥色の香気が、広場いっぱいにただよう。


陽光色の髪にまとわりつくその香りを振りまきながら、女の首が、落ちた。


一瞬の香りが、女の影を、広く侘しい空に鮮やかに映し出した。


匂いが、空気に溶ける。


ふぅと、誰かが漏らした、ため息にも似た声。


人々の時間が、動き出す。


息をのんでいた群衆の真ん中に、歓声と悲鳴が、入り混じった。


刃を引き抜き、血を払い落とす。


仕事は、終わった。


静かで灰色の空が、変わらずに広がっていた。


世界の終わりを何度作ろうとも、この灰色の空が、変わることはない。


子供が、母親の服を掴む。


この美しく儚い世界は、再び動き出した。


胴体と離れて転がる首と、驚くほど深い安らぎに満ちた罪人の表情。


死は、音ではなく、沈黙だ。


骨が折れる音も、首が落ちて転がる音も、すべては一瞬。


残るのは、静けさ。


命が抜けたあとに残る、深い静寂の時間。


小刻みに震える足を騙しながら、処刑台の階段を、下りようとした。


思わず、声が漏れた。


永遠に続くこの瞬間の中、胸に刻まれて消えようとしない、罪人の名をつぶやくように呼んだ。


・・・アンヌ・ド・ブリュイ


愛しい人の耳に届くようささやいた声・・・漏らしたその声は、誰にも気づかれない。


革靴の裏に石畳を感じた時、風が、前髪を揺らした。


遠い先に見える広場の先・・・


路肩に、レモンが積まれているのが見えた。


白い手に、レモンを持った、栗色の髪をした女は・・・いない。


届いた、かすかな匂い。


目を閉じて、その女を想い続ける間、アマリージョ色の香りが、鼻の奥をくすぐり続けた。

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