13.美しい世界 <女> アンヌ・ド・ブリュイ
いつか、その日が来ることを、知っていた。
痛みのない美しい世界・・・
胸の奥で、かすかに炉の炭が、赤く残っている気がした。
息をするたびに、炭は、少しずつ冷えていく。
赤さを失い、深い深い黒色へと、姿を変える。
痛みのない美しい世界へ旅に出る準備は、かなり前にできているつもりだった。
「ちょっと、待ってくださいね。」
彼の外套を、ハンガーにかけた。
乾いた藁の上で、火打石を打つ。
火花が、藁に落ちた。
炭を一本加え、灰を、そっと横に寄せる。
炭が、赤く息を吹き返し、鍋の底を温めはじめた。
スープをかき混ぜながら、ちらりと背後を見る。
椅子に腰を下ろした彼は、静かすぎるほど静か。
テーブルの下からのぞく指は、祈りの姿勢を思い出すかのように、自然と組まれては、ほどけることを繰り返す。
木の匙で、鍋底を、そっとなぞる。
焦げつかないように、静かに、丁寧に。
彼の影が、火を受け、壁で揺れていた。
ぐつぐつと、鍋が、小さな鳴き声をあげる。
蓋を、開いた。
レモンを添えた椀に、スープをよそい、パンとともに、彼の前に置く。
彼が、匙を手に取った。
心臓が、小さく跳ねた。
スープは、湯気とともに、口元へ。
「うまい。」
思わず、口からこぼれ落ちたような言葉。
「すごく・・・うまい。」
繰り返した。
いつも言葉を、整える人だ。
温かいですね・・・甘いですね・・・おいしいですね・・・
きれいに整った美しい言葉。
どこかで、誰かが聞いていても、恥ずかしくない・・・よそ行きの言葉。
でも、今は、短くて、飾り気がなくて、胸の奥から、そのままごろりと転がり出てきた言葉。
「そんなに褒めても、何も出ないですよ。」
言葉を返しながら、笑ってしまった。
残り火が、ぱちりと弾けた。
光が揺れて、空気が、とろりと動く。
今の一言は・・・小さな不思議。
今日、夜の魔法で、確かに起きた小さな不思議。
彼は、もう一度、匙を口へ運び、何もなかったようにスープを飲む。
視線を皿に落とし、木の匙で自分のスープをかき混ぜた。
きのこと豆の匂いが、やわらかく立ちのぼり、顔を包んだ。
湯気の向こうの小さな祝福。
何でもない夜だけれど、きっと、残る。
・・・今夜のことは、火が覚えていてくれる。
誰にも、言わない。
誰にも、見えない。
けれども、絶対に忘れない。
灰になっても、きっと・・・
幸せだった・・・
そう思ったところで、目の前の火が、ふっと消えた。
胸の中で揺れていた、赤い炉の火が、遠くへ退いてしまった。
さっきまでそこにあったはずの、湯気も、私の手を両手で包む彼も、どこにもない。
代わりにあるのは、冷たい空気と、固い・・・物言わぬ木の椅子。
腕にこすれる縄が、固かった。
彼の腕の感触も、温もりも、指先に、残っていなかった。
胸の奥に、ぽっかりと空いた場所。
さっきまで、そこに火があったような気がした。
けれど、あの夜の、きのこと豆の匂いは、どこにもなかった。
ただ・・・薄く冷たい空気が、肺を冷やす。
聞こえていたはずの声も、もうない。
「うまい」と言った、あの短い声も・・・
ゆっくりと、目を伏せる。
炉の炭は、冷たく、深く、白く・・・黒い色をしていた。
さっきまで、そこにいたはずなのに。
一緒にスープを飲んでいたはずなのに・・・
父とも、兄とも思っていたあの人が、突然、この世界から居なくなった。
知らせは、空から落ちてきたような衝撃だった。
あの人が、死んだ・・・




