10.レモンが奏でる音 <男> シャルル=イグナス・サンソン
夕暮れは、燃える炭のような赤と、紫の境目を曖昧にしながら、ゆっくりと幕を下ろそうとしていた。
腕を組み、彼女の隣を歩いた。
家々の窓から漏れる小さな灯りが、暗くなった石畳に金色の斑点を落としている。
ひとつ奥まった通りはさらに暗く、静かだった。
人声は、まばらで、あたりに漂う匂いが、夜の空気に溶ける。
焼いた肉の匂い、煮た玉ねぎの匂い、香ばしいパンの匂い。
混ざり合った香りが、腹を刺激した。
そこで、自分が、空腹であることに気づいた。
「どうぞ・・・」
その上に、鉄の金具がついた古い木の扉。
アンヌは、慣れた手つきで、それを押し開けた。
一瞬のためらいと小さな興奮・・・それから中へ。
木のテーブルと椅子。
壁際には、飾り気のない棚。
鍋がかけられる鉄が、小さな炉の上に渡されている。
部屋を見渡しながら、妙な違和感を覚えた。
炉の鍋。
テーブルの上の木の皿。
パンを包んだ布。
そして、ただよう匂い。
「ちょっと、待ってくださいね。」
椅子に腰かけると、彼女は、私の外套をハンガーにかけた。
テーブルには、当然のように皿が、2組並んでいる。
胸の奥で、何かが、静かに動くのを感じた。
まるで、誰かが、ここに座ることが、決まっていたかのような位置。
炉の炭に、火がつけられ、鍋が温められる。
彼女は、最初から、私がここに来ることを知っていた。
来る前提で、それを用意していた。
炉の火が、ぱちりと小さく音を立てた。
大きな木の匙で、鍋の中身をぐるりとゆっくり混ぜるアンヌ。
その背を・・・その様子を、見つめる。
妙に、落ち着かない気持ちだった。
白い湯気の形が、こちらからもはっきり見えるようになった時、アンヌが、炭に水をかけた。
燃える炭の赤色と、紫の境目を隠すように、鍋が持ち上げられ、木の板の上に置かれた。
蓋が開いた。
スープの表面が、ゆっくりと揺れる。
野菜ときのこ、それに刻まれた肉。
木の匙で静かにかき混ぜられ、底に沈んでいた具材が浮かび上がる。
部屋の空気に、食欲を誘う匂いが広がった。
頬が、熱くなった。
嬉しいのか、照れているのか、自分でも、分からない。
布に包まれた塊が、テーブルに置かれた。
開かれた布から現れたのは、丸いパン。
ナイフによって割られたそれは、目の前の木皿の上に置かれた。
スープが、皿に盛られる。
「ごめんなさい。もう少しだけ・・・待ってくださいね。」
木桶のような入れ物に手を突っ込み、彼女が取り出したのは、黄色い果物。
「・・・レモン?」
黄色いそれを持つ彼女の手は、白かった。
「レモンを添えないと、このスープは、完成しないの。」
小さな果物ナイフ。
彼女のきれいな手が、サクリッとレモンを切った。
アマリージョ色の香気が、部屋いっぱいにただよう。
その数滴の香りが、彼女の影を、壁いっぱいに鮮やかに映し出した。
「冷えないうちに、召し上がってくださいね。」
陽光色の髪にまとわりつくその香りを振りまきながら、彼女が言った。
はっと、彼女から目を離し、匙を手に取った。
輪切りのレモンが添えられたスープを、一口すくう。
湯気が、顔に当たった。
肉と刻んだ野菜が、ゆっくり揺れている。
「うまい。」
「うれしいっ。」
彼女は笑った。
「すごく・・・うまい。」
繰り返した。
「そんなに褒めても、何も出ないですよ。」
いたずらっ子ぽい口調で、彼女が返す。
「いや、本当に・・・豆の甘さが、スープにちゃんと出ているのが・・・うまいっ。」
アンヌが、少し驚いたような顔をした。
「つぶしてこしてあるので、豆の形は、残っていないはずなのに・・・豆の味が、分かりますの?」
「料理は、それほど詳しくないけれども、味くらいならば・・・」
気がつけば、器の底が見え始めていた。
先ほど感じた空腹感は、ない。
片づけは、手伝わせてもらえなかった。
アンヌの白い指が、皿とともに美しく舞う。
朝、あの手で豆を洗い、野菜を刻み、鍋を混ぜたのだろうか。
来るかもしれない、あるいは、来ないかもしれないと思いながら・・・
彼女が、器を一つ拭き終え、棚の上に戻す。
スープの温かさが、まだ胸の奥に残っている気がした。
炉に残った赤と紫の炭火が、ほんの少しだけ燃えている。
鍋を片付けるアンヌを眺める間ずっと、アマリージョ色の香りが、鼻の奥をくすぐり続けた。




