9.水面は満ちて瞳は揺れず <男> シャルル=イグナス・サンソン
広場は、静かだった。
太陽は、雲の奥で淡く滲んでいた。
しかし、陽気は、靴底からゆっくりと上がってくる。
手のひらのような形をしたプラタナスの葉は、風もないのにわずかに揺れて、少し古い木が擦れるような小さな音を立てた。
広場の端に立ち、空を見上げる。
ただ、光が静かに街を包んでいくのを、感じていたかった。
まだ、人の少ない広場は、落ち着く。
静けさは、呼吸に近い。
しかし、どこか、胸の奥が、落ち着かなかった。
理由は、分かっている。
アンヌを想っていたからだ。
そう考えている自分に気づくと、少し笑いたくなる。
特に、何かを期待しているわけではない。
そう思おうとするほどに、白く泡立つ胸のさざ波を止められなくなる。
石畳に落ちたプラタナスの葉の小ささに気を取られたその時、小さな足音が聞こえた。
ゆっくりと確実に歩く、控えめな音だった。
顔を上げる。
姿が見えた瞬間、雲間から日が差した。
ただ、彼女がそこにいるというだけで、空気の色が鮮やかになった。
石畳の足音が、ほんの少し大きくなる。
自然に、背筋を正した。
もしかすると、緊張しているのかもしれない。
彼女が、前に立った。
軽く頭を下げる。
「お待ちになりました?」
彼女の声を聞いた瞬間、胸の奥が、わずかにほどけた。
「いえ、今来たところです。」
空気に溶けるよう、静かに返す。
アンヌの目が・・・その視線が自分の腕に飛び、一瞬、言葉が止まった。
その指先に、わずかな力が入っているのが、分かった。
自分から動き、彼女の手を取った。
とても素直に。
手を伸ばした。
ゆっくりと。
大切なものを受け取るときのように、指先に力を入れすぎないよう意識しながら。
腕の重みを確かめる。
「川のほうを、歩きませんか。」
自然に言葉が出た。
「嬉しいです。」
その声は、思ったより静かだった。
彼女が、少し安心したように見えた。
表情を見ると、胸の奥が、さらに静かに温かくなる。
「一緒に・・・」
声が、少し震えた。
「ええ。」
彼女が、小さく頷いたのが見えた。
腕に絡む手の温度が、嬉しかった。
この女性と・・・アンヌと歩ける時間が、大切だと思った。
陽光が、リーパの街を柔らかく包んでいる。
この時間が、ゆっくりと続けばいい・・・
城壁の影が、石畳に落ちている。
商人たちの声、荷車の車輪が石をこする音、焼きたてのパンの匂い、遠く鳥の鳴き声。
いつの間にかそれらが、ゆっくりと混ざり合い、日常を告げるざわめきになっていた。
腕を組み、そのまま広場を横切った。
石畳の上を歩く靴の音が、雑踏に溶ける。
詩人は、古い恋歌を歌い、子どもたちは、遊びに夢中になり、年老いた女たちは、籠の野菜を数えながらその値の話をする。
二人の世界は、すでにそこから少し離れている。
城門へ続く道ではなく、川へ下る小道へ。
人通りは、少なくなり、喧騒は、背後に遠ざかる。
小道は、柔らかな土の道に。
石の硬い響きが消え、足音は、静かな沈黙に溶けていく。
川の水音が、かすかに耳をくすぐった。
沈黙は、気まずくなかった。
「怖くは、ありませんか?」
気づくと、そんな言葉が口から出ていた。
彼女が、顔を上げた。
「こわい・・・何が?」
少し考えた。
うまく言葉にできない。
「私と、こうして歩くことが・・・」
「あなたは、いつも遠くを見ているのかもしれません・・・でも、今は、ほらっ、私の隣に居ます。」
そう言って、彼女は、笑った。
腕に絡んだ手の力が、少し強くなった気がした。
歩く速度を、落とした。
アンヌと、まったく同じ歩幅になるように。
「ねぇ、もしも・・・」
小さな彼女の声。
「もしも?」
問い返した。
「やっぱり、何でもありません。」
アンヌは、少し笑った。
足が、止まった。
川の音が、周囲に残る。
「・・・もしも?」
2度目の問い返しに、彼女はしばらく黙り、やがて、口を開いた。
「もしも、あなたが旅に出るなら、私も一緒に行けますでしょうか?」
おそらく、最初の「もしも・・・」に続く言葉とは違っているであろう彼女の問いに、言葉が詰まった。
旅の道・・・荒れた街道、雨の野宿、盗賊、寒さ・・・
守れるのか。
そもそも自分に・・・自分の人生に、彼女を隣に連れて歩く資格があるのか。
それは、隣に、アンヌが、居る旅。
火を囲み、同じパンを分け、同じ方向へ歩き出す二人。
その未来を、想像した。
怖かった。
同時に、それを望んでいる自分に気づいた。
川の水が、静かに流れていた。
ゆっくりと息を吐いた。
「川は、流れ続けます。」
彼女は、黙って聞いている。
「水は・・・止まることがありません。でも、流れながら、同じ場所を目指して並んで進むことはできます。」
笑う彼女の顔を見た。
「それって、答えになってないですわ。それで、今日は、うちに泊まります?」
目が、少し潤んだ。
一度、言葉が止まる。
焦らせたくなかった。
「・・・世話に・・・なります。」
腕に絡む手のぬくもりを感じながら、小さくうなずいた。




