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1.名を持たぬ瞬間 <男> シャルル=イグナス・サンソン

薄闇に包まれたリーパの町。


石壁に埋め込まれた小さな窓に、ほのかな灯りがともり、眠る街にそっと息を吹き込んだ。


シャルル=イグナス・サンソンが、夜明け前の祈りを欠かすことはない。


休日であろうと、公務のない朝であろうと、彼は、同じ時刻に起き、同じ順序で身支度を整え、同じ祈祷書を開く。


神の前に立つとき、人は等しく裸であるべきだ。


それは、サンソン家に代々伝わる言葉にされぬ掟であり、彼自身が、最も強く信じている規律だった。


リーパの死刑執行人、ムッシュ・ド・リーパ。


その称号は、人々の畏怖と嫌悪とを同時に呼び起こすものであり、シャルル=イグナスにとってそれは職名である以前に、神から課された役割でもあった。


仕事を終え、水をを浴びても、寝て・・・起きても、こびりついた血とその匂いは、消える気がしない。


罪人に血を要求する役目こそ、自分だが、裁くのは、神であり法である。


そう言い聞かせねば、鋭く重い刃を握る自分の手が震える日もあった。


その日、彼は、珍しく街へ出ることを決めた。


理由は単純で、心身の緊張が、限界に近づいていたからだ。


処刑の多い週の後は、決まって同じ兆候が現れる。


胸の奥に沈む重い鉛の感覚、針の落ちる小さな音にも過敏になる耳、そして神への祈りの言葉が舌に絡みついて離れなくなる感触。


医師は、彼に自然の中での散歩をすすめ、司祭は、教会で神を想えばよいと言った。


そうして、彼は、その両方に従う男だった。


市場の喧騒は、どこかが緩んでいて、子どもたちの笑い声が通りに溢れる。


どこからともなく風に混じる甘い匂いは、フルール・ド・サントルの焼き菓子のものであろう。


シャルル=イグナスは、外套の襟を立て、なるべく目立たぬよう歩いた。


彼の顔が、広く知られているというわけではない。


それでも、彼を知る者は道を空け、知らぬ者も無意識に距離を取る。


それが、常で何もないこと。


通りを満たす声の重なりは、いつものように形のない雑踏の靄となって漂っているはずであった。


だが、この日は、違った。


ムーン=チャック通りの一角、古書店の前。


彼は不意に足を止めた。


理由は、音でも匂いでもなかった。


視界の端に差し込んだのは、柔らかな光。


振り向いた瞬間、彼の時間が、わずかに遅れる。


立っていたのは、一人の女性。


質素だが丁寧に仕立てられたドレス、淡い色のショール、そして慎ましく結い上げた髪。


その佇まいは、街に溶け込みながら、周囲とは異なる静けさを纏っていた。


彼女の手は、一冊の本をかかえる。


細い指が表紙をなぞり、印象的な目が、その本をじっと見つめる。


胸が、ひどく強く脈打った。


恐怖でも嫌悪でもない。


ましてや、処刑台に立つときの、あの研ぎ澄まされた集中とも違う。


シャルル=イグナスは、その感覚に戸惑った。


名も知らぬ女性に向けて抱く感情など、彼の人生には不要なはずであった。


不要であるがゆえに、彼は、それを認めまいとした。


だが、目を逸らすことができなかった。


彼女が顔を上げ、視線が一瞬だけ交わった。


その瞬間、彼の内側で、長年凍りついていた何かが、微かに軋む音を立てた。


女は、シャルル=イグナスの視線に気づくと、ほんのわずかに驚いたように目を見開き、すぐに視線を伏せた。


その仕草は、礼儀正しく、そして慎重だった。


彼は、咄嗟に自分の立場を思い出す。


ムッシュ・ド・リーパとして知られるこの顔をした男が、見知らぬ女性の顔を凝視することなど、許されるわけがない。


彼は帽子に手をかけ、立ち去ろうとした。


揺るがぬ理性は、確かにそう命じていた。


だが、足が言うことを聞かない。


代わりに、彼女の足元に落ちた一枚の紙片が目に入った。


どうやら本の間に挟まれていた、走り書きが舞い落ちたようだ。


前の本の持ち主が挟んだものなのか、彼女のものであるのか・・・


それは、どうでもよいことであった。


彼は、反射的に数歩足を進めて、それを拾いあげると、彼女に声をかけていた。


「失礼。これを・・・」


声は、驚くほどに落ち着いていた。


彼自身が驚くほどに。


彼女は振り返り、紙片を見ると、ほっとしたように微笑んだ。


その微笑みは控えめで、しかし確かな温度を持っていた。


「ありがとうございます。大切な覚え書きでしたの。」


その声は柔らかく、耳に心地よい。


シャルル=イグナスは紙片を差し出しながら、彼女の指先がそれを受け取る瞬間を、息を止めて見つめた。


触れ合うことはなかった。


しかし、距離は、あまりに近かった。


名を名乗るべきか、去るべきか。


彼の中で、信仰と規律が激しくせめぎ合う。


彼女に近づくことは、祝福なのか、それとも試練なのか。


神に問いかけたが、答えは沈黙であった。


その沈黙を、彼は、赦しであると解釈した。


「アンヌ・ド・ブリュイと申します。」


彼女は、先に名乗った。


シャルル=イグナスは、一瞬だけ躊躇し、それから静かに名を告げた。


礼儀として、そしてこの短い出会いを、ただの偶然で終わらせぬために。


「シャルル=イグナス・サンソンです。」


その瞬間、彼女の表情がほんの僅かに変わった。


驚き、そして理解。


彼が誰であるかを、彼女は知っていた。


拒絶が来ると、彼は覚悟した。


多くの人がそうするように。


アンヌは、逃げなかった。


ただ少しだけ距離を取り、しかし、目は逸らさなかった。


「・・・存じております。」


その声には、恐怖よりも、思慮がにじんだ。


そのことが、彼の胸をさらに締めつけた。

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