第二十九話 情報の中
『ユウキ・アレスシルト大尉の反応は、〈熾天使〉の核の中を示している』
「……やっぱりか」
ラプラスの告げた事実に、ミユキは目を細めながら奥歯をぎりと噛み締める。
〈天使〉に同化された人間の情報――すなわち魂は、光の粒子となったのちに〈天使〉の核へと集積される。それは三十年あまりの戦争の中で何度も検証と議論が重ねられ、そしてほとんど確定的となった事実だ。
だから、ユウキの存在場所が〈天使〉の中なのだろうとは予想はしていた。けれど。まさかよりにもよって〈熾天使〉の中とは。考えうる中では最悪に近い状況だった。
どこか苦悶に満ちた脳内の“音"を聞きながら、ミユキは考える。このまま〈熾天使〉を攻撃すべきなのかを。
〈熾天使〉の動きがこれ程緩慢なのは、恐らく中にいるユウキが何らかの行動を起こしているからだろう。最強格の〈天使〉たる〈熾天使〉が遠距離攻撃の手段を持っていないとは思えないし、第一、脳内に響く不快な“音"が前回に会った時よりも明らかに弱いのだ。ストレートに考えれば、このまま〈熾天使〉を撃破すべきなのだろう。
けれど。
ユウキが〈熾天使〉との同化状態にある以上、〈熾天使〉への攻撃はそのままユウキにも伝播する。奴への攻撃は、ユウキを傷つけることと同義なのだ。
それに。なにより。〈熾天使〉の核を破壊してしまえば、そこに集積されていた情報はバラバラになってしまう。それはつまり、『ユウキの情報を奪還する』ということが不可能になるということだ。
目の前にユウキがいながら、彼女を見殺しにするどころかこの手で殺すことになる。
そんなことは、したくない。
短く深呼吸をして。ミユキは決意の灯った瞳で〈熾天使〉を見据える。
「ラプラス、精神接続から防護プロテクトを外してくれ」
『……やるのか』
「助けるには、今しかない」
『ちょ、ちょっと待ってよ。ミユキ、あんた何するつもりなの?』
困惑したレツィーナの声が聞こえてくる。彼らには救出計画の内容を伝えていなかったのだ、無理もないだろう。
「〈熾天使〉と一時的に同化して、ユウキと一緒に帰ってくる。それだけだ」
『は、はぁ? あんた、何言ってんの?』
やはり、帰ってくるのは再度の困惑の声。『そんなこと出来んのか?』というアレンの問いに、ラプラスははっきりと答える。
『可能だ』
そして、ラプラスはミユキがこれからやろうとしている事の説明を始める。
『まず前提として、〈D-TOS〉が魔導の発動を可能としているのは深層意識野の一時的な改変によるものだ。そして、深層意識野は、〈天使〉も含めた全ての生物の根源にある』
つまり。人間と〈天使〉は、深層意識野という同じ土俵で戦っているのだ。ここを介さない限り魔導は決して発動できないし、〈天使〉たちも攻撃できない。
『奴らの精神侵入も、この深層意識野を通じて無差別に逆流を試みてるに過ぎない。……だが。これはつまり、奴らの侵入経路を辿れば〈天使〉の中に――核に入り込むことができるということだ』
「だから、一度同化されて〈熾天使〉の中に入る。入りさえすれば、ユウキの情報を奪還することはできるはずだ」
『……帰りは』
『それについても心配はいらない。数秒間の同化ならミユキの意識は取り戻せるし、奴に完全に同化することもない。ユウキの情報についても――』
『手立てはあるんだな?』
先読みでアレンは問うてくる。真剣そのものの声音で。
『……ああ。確実に』
対するラプラスははっきりと断言した。しばらくの間沈黙が空いて。アレンとレツィーナはぽつりと呟く。
『……絶対に帰ってこいよ、ミユキ』
『私たちに嫌な後始末させないでよね』
二人の言葉に、こくりと頷いて。
「行ってくる」とだけ言うと、ミユキは〈熾天使〉へと再度肉薄を開始した。
【精神保護プロテクトを解除。精神侵入を確認】
脳内に無機質な機械音声が通る。一瞬の微かな開放感ののち、ミユキの脳内には〈熾天使〉の発する不快な“音"が響き渡る。
本能的に拒否したくなるのを理性で律し、ラプラスという命綱だけを頼りに“音"が持つ歓喜と安堵を受け入れる。
漂白されていく視界とともに、ミユキの意識はふわりと途切れた。
†
光の化身たる〈天使〉の中は、一面暗闇の世界だった。
どこに目を向けても、視界に入るのは真っ暗な世界に幻視のように揺らめく『誰か』の情報と記憶の残滓だ。今まで〈天使〉に同化された人たちが残した、彼らがこの世界に存在したという僅かな情報の欠片たち。
幼い少年少女もいれば、年老いた老人もいる。けれど、大半は誰かを守るために戦って散っていった軍人たちのものだ。彼らの情報はその殆どが喪われてしまっていて。どんな人だったのかは何も分からない。分かるのは『いた』ということだけだ。
そして『いた』という情報そのものも、〈天使〉の中では時間とともに消えていってしまう。後には何も残らない。
暗闇と情報の海の中をミユキは進む。ユウキのいる座標は、こちらに来る直前にラプラスが〈D-TOS〉で送ってくれた。その情報に沿って右、左、上と進んで行って――
消えかけの身体で目を瞑るユウキに出会った。
光の粒子と化した身体は、既に下半身が消滅していて。閉じた双眸は、わずかに痛みがあることを示している。
……やっぱり。感覚は〈熾天使〉と同化されていたんだ。
「ユウキ」
はっきりとした口調で名前を呼ぶ。彼女との思い出が脳裏を駆け巡り、ミユキの心の中に熱いものを形成する。
彼女の左眼の傷、互いにすれ違って怖かった心。わかり合えた時の安堵と喜び。再び心から笑い会えた日々。
辛かったけれど、それでも生きていて良かったと思えた日々。そこには、ミユキだけじゃなくてユウキもいなくちゃいけない。
うっすらとユウキが目を開ける。左右で色味の違う、綺麗なみどり色の瞳。
「……ミユ、キ?」
とても苦しげな、何かに耐えているような小さな小さな声だった。そんな彼女の瞳を真正面から見つめて、ミユキは短く、
「お前を迎えにきた」
とだけ伝える。そして手を差し伸べて、一言。
「帰ろう。みんなのところに」
それ以外に言葉は必要ないと思った。今はユウキと共にここを出る。それだけで十分だ。
少しの静止の時間ののち、ユウキは繊細な動きでミユキの手を取る。光の粒子の中には、確かに彼女が『そこにいる』という暖かな感覚があった。
ユウキの手をしっかりと握って、上方に急加速。薄れゆく意識と安堵感の中で、ミユキは今一度心の中で叫ぶ。
――みんなで、帰ると。
意識が漂白されるその瞬間。ユウキは視界の端に一人の幼い少女の姿を見る。
ミユキと同じ濡羽色の黒髪をハーフアップで纏め、にこやかに微笑む双眸は優しい緋色を湛えている。
その少女のことを、ユウキは知っていた。記憶の底に眠っていた、聞き覚えのある声と姿。遠くに消えゆく少女の名前は。
――キルシェ・ヘルフェイン




