第二十一話 白い天井
一面真っ白な世界の中。ミユキの目の前には、澄み切った青色の川が静かに音を立てて流れている。
そして。その向こう岸には、見知った一組の男女がこちらを見つめて立っていた。
二人を見て、ミユキは微かに目を見開く。
「……父さん。母さん」
ミユキの両親は五年前、故郷が〈天使〉の襲撃を受けた時に死んだ。自分と妹を逃がすために、時間稼ぎをすると言って。
一度死んだ人間が帰ってくることは決してない。だから。もう二度と会えることはないと思っていたのに。
なのに。そんな両親が、目と鼻の先にいる。
「……久しぶり。父さん、母さん」
無垢な笑顔を浮かべながら、ミユキは近づきたいという衝動のままに一歩、前に踏み出す。
足首まで浸かった水は心地のいい冷たさで、ミユキの思考に残っていた“何か”を安寧に掻き消していく。幸福感が身体中を満たすのと同時に、ちくりと胸が痛んだ気がした。
もう一歩、足を前へと進ませる。
今度は、脛の辺りにまで川の水が流れ込んでくる。川の流れは思いのほか速くて、本能が明瞭なのに朦朧とした意識に一瞬の恐怖を与える。
そして。その一瞬の意識の覚醒の間に、ミユキは微かな違和感を覚えた。
――両親は、五年前に死んだ。
そして。一度死んだ人間が生き返ることは、決してない。失われた命は、現実世界に戻ってくることはない。
――なら。なぜ、今、おれの目の前には両親がいるんだ?
前に進みたい衝動を抑え、ミユキは霧のかかった思考を回し始める。
なぜ、両親が目の前にいるのか。
なぜ、自分はここにいるのか。
そう考え始めた途端、足元を流れる水流が猛烈な流れに変化した。
本能がもたらす恐怖が、一気に意識を覚醒させる。
瞬きをする度に川幅が広くなり、川の流れはどんどんと激しくなっていく。意識がはっきりしてきているはずなのに、意識はどんどんと遠ざかっていく。
まるで意味の分からない意識の中、大きな波がミユキを襲う。
そして。その中で、ミユキの視界は暗転した。
目が覚めて、一番最初に見えたのは知らない天井だった。
寝起き特有の朦朧とした意識の中、ミユキは周囲を見回す。
白い天井に、白いベッド。着ている服はいつもの軍服ではなくて、白いガウンが身体を覆っていて。少し首を傾けると、そこには白い医療機器がピッピッと定期的に音を鳴らしていた。視線をもう少し上へと上げてみると、自分の胸に続く点滴パックが吊り下げられているのが見える。
「……ここ、は」
自分でもびっくりするほどの掠れた声で、ミユキは呟く。
恐らく、ここは軍病院だろう。これだけの医療機器が並んでいるのだ、少なくとも前線にある野戦病院などではないはずだ。
重い身体を起こそうとして、上手く動かなくて失敗する。意識が明瞭になってくるにつれて、耳鳴りと頭痛がミユキの脳内に入り込んできた。
病室の前に、一人の影が通る。
「ヘルフェイン特務少尉! 目が覚めたんですね」
声に目を向けた先、そこにいたのは看護師の女性だ。安堵の表情を浮かべて近寄って来るのに、ミユキは精一杯の声を喉から出して問う。
「おれ……、なんで、ここに……」
「覚えてないんですか?」
と、看護師は点滴を付け替えながら不思議そうな顔をする。
「少尉、〈ルキフェル〉作戦中に意識障害を起こして気絶したんですよ。幸い、仲間が受け止めてくれたらしいので大事には至りませんでしたけど」
「……」
その言葉に、ミユキは黙って俯いてしまう。
……なんで。おれだけが。生き残って。
脳裏に甦ってくるのは、大切な人が光となって消えていく姿だ。生来のきれいな緑玉色は極彩色に変わり、その瞳には虚ろな光だけが湛えられていて。
その瞳の色が、焼き付いていて離れない。
頭痛と耳鳴りの中、ミユキの心には空虚な風だけが吹き抜ける。視界の端に映る蒼穹は、ミユキの心と対極の澄み切った青色をしていた。
「詳細は、私が話そう」
聞き慣れない男性の声に、ミユキは俯いていた顔をゆるりと上げる。意識こそ明瞭ではあるものの、目に入る視界の全てに現実感がない。
病室に入って来たのは、白衣を着た柔和そうな初老の男性だ。ベッドの脇にあった椅子に座ると、その男はにこりと微笑んでくる。
「君たちの担当医をしているヴァルター・マウザー中佐だ。念の為確認しておくが、君はミユキ・ヘルフェイン特務少尉で間違いないかな?」
ミユキがこくりと頷くと、マウザーは看護師へと目配せをする。察した看護師が部屋を退室したところで、ミユキは一番の疑問を口にした。
「……あの。〈ルキフェル〉作戦はどうなったんですか……?」
「……そうだな。では、まずは〈ルキフェル〉作戦の顛末についてから話そうか」
そう言って、マウザーは手元にあった資料を何枚かめくる。手を止めたページに目を落としながら、彼は事務的な口調で述べた。
「〈ルキフェル〉作戦についてだが、さしあたり作戦そのものは成功したというのが軍司令部の見解だ。ラヴェトラーナの〈ドーム〉は消失し、そこに突如として発生した〈熾天使〉も周囲の生命体をあらかた同化してから行方をくらました。現在、ラヴェトラーナには次の作戦に備えた前進基地が建設されている」
「……次の作戦?」
ミユキの問いに、マウザーは頷く。
「ああ、そうだよ。今回の作戦で、ライン連邦は航空戦力の五割と魔導士部隊の約七割を喪失した。このまま防御に徹していては押し負けると判断した司令部は、残存戦力を総動員して北極点基地を強襲、敵の中枢機能を撃滅する計画を既に決定している」
……どうやら、ミユキが意識を失っている間に事態はより最悪の方向へと傾いてしまっていたらしい。
〈天使〉は基本的に空中から侵攻してくるため、この戦争を継続するためには空軍および魔導士部隊が必須となる。だが。今のライン連邦には、大量の航空機を短時間で生産する能力はない。また、それらを操縦する操縦士および魔導士の育成に関しても、最低二年は必要とされているのだ。
しかし。それらの戦力の大半を失ったライン連邦には、彼らが成熟するのを待つ時間すらも残されていない。
「……それで。こちらが本題になるのだけれど。これから話すのは、君の身体についての話だ」
そう言うと、マウザーは資料を一番最初のページに戻して目を合わせてくる。
「まず、今日は何月何日なのか。分かるかな?」
「えっと…………。作戦日が六月二二だったので、だいたい二五日とかですか?」
ミユキの答えに、マウザーは緩く首を横に振る。
「今日は七月六日。……つまり、君は丸々二週間を昏睡状態にあったんだ」
「そ、そんなに……!?」
全く思いもよらない日付だった。まさか、三日どころかその四倍近くも、おれはずっと眠っていたのか。
驚愕を胸に抱えつつも、ミユキはひとまず状況を飲み込む。ここで止まってしまっては、自分が今どんな状況下にいるのかも分からない。一旦心の整理がついたのを見計らって、マウザーは続けた。
「昏睡の主な原因としては、〈D-TOS〉の過剰使用による脳への過負荷と、〈天使〉の同化による身体機能の低下の相乗作用だろうと判断している。もちろん、心身の負荷も原因の一つだ」
瞬間、脳裏に甦るのはユウキの消えゆく姿だ。ひどく現実感のない金色の光を、ミユキは一瞬幻視する。
「肉体部分における同化は解消されたけど、まだ君の体細胞が完全に回復されたわけではない。……こんなふうにね」
そう言って、マウザーは手鏡をミユキへと手渡す。それに自分の顔を映し出して――息が詰まった。
「……っ!?」
そこに映っていたのは、色素の薄いオレンジ色の双眸だった。
ミユキの瞳は、生まれてこの方ずっと真っ赤色だ。少なくとも、こんな色だったことは一度もない。
恐怖と驚愕を半々に、ミユキはマウザーへと視線を向ける。彼は安心させるような微笑を向けてくる。
「まぁ、これは〈天使〉因子の共鳴によるものだから、しっかり治療を受けてればあと一週間で完治する。安心したまえ」
「……因子?」
聞き慣れない言葉だ。思わず、反芻してしまう。
「君たちの高い〈D-TOS〉同調率は、〈天使〉因子による量子もつれ状態の高い維持率および深層意識への高浸透率に起因しているものだ。……つまり。君たちは高い〈D-TOS〉同調率と精神侵入への対抗力を得る代わりに、精神防護が破られた際の同化速度が加速してしまうというデメリットがあるんだよ」
立て続けの情報に、ミユキはもう驚くことすらもできない。まさか、おれの身体の中には〈天使〉の一部が入っているとでもいうのだろうか。
「……もしかして、自分の中に〈天使〉因子が入っているのを知らなかったのかい?」
無言で固まるミユキの言動を肯定だと受け取ったらしい。マウザーは苦笑を滲ませる。
「そう怖がる必要はないよ。〈天使〉因子は〈天使〉の一部とはいえ、その性質は極めて安定している。精神侵入を感知した際の共鳴現象以外は、むしろ私たちに多大な恩恵を与えてくれる情報なのだからね」
それに。と、彼は言葉を続ける。
「君たちの住んでいた町の子供は、全員が大なり小なり〈天使〉因子を遺伝子に埋め込まれている。君一人がそうだった訳じゃないから、安心したまえ」
……言葉が出なかった。
じゃあ。自分たちの中に〈天使〉因子がなければ、ユウキは――キルシェでさえも助かっていたのかもしれないのか?
そんな疑問が、ミユキの心に湧き上がってくる。
「……と、話が逸れたね。君の治療についてだけど、これから一週間は同化対抗薬の注射を一日一回受けてもらう。また、明日からはリハビリも実施する予定だ。辛いとは思うが、頑張ってくれ」
「……はい」
励ますような笑みを向けて来るのに、ミユキは心に渦巻く疑問をぶつけられなかった。




