第十二話 〈断章Ⅱ〉忘れ難き感情
あの町に居たときの私には、『ユウキ』という人格はほとんど存在しなかった。
両親が共に軍人の家系に生まれた私は、いつも『お前は〈天使〉を滅ぼすために産まれてきたんだ』という言葉ばかりを贈られていた。
最古の記憶の時点で、私は既に軍人になるための勉強と訓練を行っていた。言葉を学び、人を動かすための精神を養い、戦闘に必要な体力と身体作りに明け暮れていた。
平穏を享受する幼馴染たちを傍目に、ユウキだけは世界の現状を知らされていた。町にいるどんな学生よりもその危機の重要性と残虐性を教え込まれ、無垢な子供であることは七歳の時点で既に否定されていた。
そんな家庭だったから、当然私のやりたいことは何一つ触れることは許されなかった。
『ピアノをやりたい』と言った時の記憶は、未だに脳裏に焼き付いている。
隣人の同い年の男の子――ミユキが弾いているのを同じ部屋で聞いて、自分もこんな綺麗な音を奏でたいと思って口に出したものだった、……と思う。
なにせ、両親に関係する記憶は、全てが曖昧な状態で保存されていて。詳しいことを思い出そうとしても、どうしてか思い出せないのだ。
けれど。そんなものは軍人になるのに必要ないと、一蹴されたのだけははっきりと覚えている。
その時に感じた感情は絶望や悲しみなどではなく、虚無と己の存在の喪失だった。
故郷のフィアスヴェルクは平穏そのものの町だったけれど、そこにユウキという一人の人間が存在できる場所はほとんどありはしなかった。少なくとも、自分の家の中には、私という存在は全く存在していなかったと思う。消えたいとも、死にたいとも何度も思ったこともあった。
けれど。それでも、ユウキは死や消失を選ぶことはしなかった。
故郷が、好きだったから。
幼馴染たちが好きだったから。アレンが、レツィーナが好きだったから。
『お前は、お前のままでいたらいいよ』と言ってくれたミユキのことが大好きだったから。
彼らの前でだけは、ユウキは自分のありのままでいられた。自己を主張し、時には誰かと衝突し、そして妥協点を探り出して和解する。そんな、なんでもないようなことがたまらなく尊くて、宝物だった。
だから。ユウキは、自ら人生を終わらせるようなことはしなかった。彼らを悲しませたくなかったから。辛い思いをさせたくなかったから。
そして。こんな平穏な世界で、彼らとずっと一緒に居たいと願った。思ってしまった。
それが、どんな危うい思考なのを散々両親に言われていたのにも関わらず。本当の危険性を理解もせずに。
事件が起きたのは、十一歳の時の、ある晴れた日の昼過ぎのことだった。
その日は、両親に連れられて行った前線視察を終えたあとで。数週間ぶりの故郷の町には蝉の声が鳴り響き、初夏を告げる生暖かい風が町を包む山脈と森の間を吹き抜ける。
そんな、毎年やってくる日常のひとつだった。
帰宅当日は休養日に指定されていたから、その日は久しぶりに訓練も勉強もなくて。そんなユウキは、ミユキに一緒に遊ぼうと声をかけた。
アレンとレツィーナたちは、定期的な健康診断でその日は遊べなくて。彼の妹も同級生と遊びに行くとのことだったから、その日は本当に久しぶりに二人だけで遊ぶ予定になっていた。
それが、全ての元凶だった。
前後の記憶は、ユウキ自身もあまり覚えていない。恐らく、いつもと同じように会話をして、触れ合っていたのだと思う。
だが。そんな当たり前の日常は、自分という存在が希薄だったユウキの中の〈天使〉を覚醒させるのに十分な要素だった。
それから先の記憶はない。精神侵入で表出した〈天使〉によって自我を奪われていたから、その時に発した言葉と行動は、ユウキの記憶に蓄積されることはなかったのだ。
けれど。その行動原理は、ユウキ自身が心の奥底に持っていたものだった。彼と一緒に居たい、離れたくない。その想いが極端化し、〈天使〉の持つ同化衝動と統合された末の、自己の〈天使〉化。
次にユウキの記憶にあるのは、自分の右目に木の棒が突き刺さっていたことだ。
激しい痛みに視界が滲み、右の視界が消失していた。激痛に立っていられなくなってその場に頽れ、痛みの中でユウキは泣き叫んでいた。
けれど。心の中に存るもう一人の自分は、事態を冷静に把握していた。
身体に残る同化衝動と、左目にちらつく不快な極光。脳内に響くどこか心地のいい“音”に、自制の効かない左腕。
そして。なにより。ミユキの右腕にまとわりついた、白色を僅かに含んだ返り血。それらは、あるひとつの事態を明確に示していた。
……私は。今、〈天使〉になりかけていたんだ。
それ以外の可能性がなかった。
でないと、あんなに優しいミユキがこんなことをするはずがないのだから。
痛みから逃げたい〈天使〉と冷静な自分がせめぎあい、右目に刺さった木の棒を掴んだままユウキは動けない。
これを抜いたら痛みからは逃れられるかもしれない。けれど、その先にあるのは出血多量による失血死だ。一人孤独に終わってしまう死だ。それだけは、絶対に御免だった。
何故なら。私は、まだ、自分の人生を歩んでいないのだから。
激痛の中、ユウキは力を振り絞って目の前の少年を見上げる。
「ミ……ユキ…………。た……すけ……」
彼に言ったところで、恐慌状態に陥っている彼にできることはなにもない。せいぜい、大人を呼んでくるぐらいだろう。
分かってはいたけれど。言わずには居られなかった。
その後、ミユキは私を置いてその場から駆け出していってしまって。
彼の背中を見たのを最後に、ユウキの意識は再び途切れた。
†
次に目を覚ましたユウキが目にしたのは、見知らぬ白色の天井だった。
どこに目を向けても、あるのは白色の機械と、廊下とこちらを仕切る窓だけで。耳に入ってくる音は、周囲の機械たちが奏でる低い駆動音と心電図の示す音だけだった。
事態が呑み込めないながらも、ユウキはとりあえず上半身を起こす。そこで、自分の胸部に点滴が繋がっているのに初めて気がついた。
チューブの伸びる方向へと視線を向けると、そこには栄養点滴だということを示す文字が書いた袋がぶら下がっていて。
……どうやら。思いのほか長い間を昏睡状態でいたらしい。
こんこんと扉の方から音がして、ユウキは視線をそちらへと振り向ける。はい、と返すと、入ってきたのは柔和そうな一人の白衣の男だった。
「君の治療を担当したヴァルター・マウザーだ。……そこの椅子、座ってもいいかな?」
「……どうぞ」
警戒を緩めないユウキに、彼は微笑を浮かべながらゆったりとした口調で告げる。
「察しのいい君は、もう既に気付いてると思うけど。君は昏睡状態に陥っていたんだ。そして。君が失神してから、現在は一ヶ月近くが経過している」
「……でしょうね」
すっかり筋肉のなくなった自分の腕をさすって、ユウキは呟く。あれから、一ヶ月。自分はそれほどの時間を無駄にしてしまった。
「それと。君にはもう少し、伝えなければならないことがあってね」
「……?」
言われて、ユウキはちらりと彼に視線を振り向ける。
そして。その言葉を皮切りに。彼は、ユウキが昏睡状態に陥っていた間のことを語ってくれた。
フィアスヴェルクが、〈智天使〉の率いる〈天使〉の襲撃を受けて壊滅したこと。
町にいた人はほとんど助からなくて、迎撃に出たユウキの両親もそこで戦死したこと。
そして。最終的にその〈智天使〉は、核攻撃によって撃滅されたこと。
それらを、白衣の男は極めて事務的に語ってくれた。
恐らくは、ユウキに余計な不安や悲しみを背負わせないように。感情を刺激するものを極力排除した言葉遣いだった。
一連の流れを聞いてから、ユウキはしばらくの間沈黙を保っていた。
……というより。自分の脳内で感情を整理するので精一杯だった。
故郷が、なくなった。
生存者も、ほとんどいない。
それはつまり、幼馴染たちの死を意味している。
私が守りたかったものは。大切な人たちは。みんな、いなくなってしまった。
そんな簡単なことが、当時のユウキにはどうしても理解できなかった。
自分が昏睡状態に陥っている間に、何もかもがなくなってしまったということが、どうしても信じられなかった。
ベッドの上で俯いて固まっているユウキに、ヴァルターは一枚の写真を手渡してくる。酷くボロボロで、今にも破れそうな紙質のものを。
「核攻撃後の地域調査で見つかった、唯一のものだ。……君には、必要なものだろう?」
その写真は、ユウキが自室にしまっていた幼馴染たちとの写真だった。ミユキの母親が撮ったものを、こっそりコピーして譲ってもらった、唯一の友だちとの写真。
「……はい」
やっとのことで絞り出した声は、今にも消え入りそうな小さなものだった。
けれど。ユウキの胸中には、一つの感情が沸き起こっていた。
故郷は守れなかった。大切な幼馴染たちも、みんな死んでしまった。
唯一残っているのは、一年前にみんなと撮ったこのぼろぼろな写真だけ。
もしかしたら、もう私の生きる意味はないのかもしれない。私を私でいさせてくれた人も、町も失ってしまった私には、何も残っていないのかもしれない。
なら。せめて。
こんな悲しい思いをする人が、もう二度と現れないように。誰かのために命を使おう。
そんな決意が、ユウキの中では静かに燃え上がっていた。
確固たる意思の灯った隻眼の緑玉が、ヴァルターへと振り向けられる。
ぼろぼろの写真を大切に両手で握り締めて、ユウキは訊ねた。
「私は、どのぐらいのリハビリをすればいいんですか」
軍人となって、自分のような存在がもう二度と現れないようにする。
それが、ユウキが人生で初めて行った自分の意思による選択だった。
そして。その年の冬。ユウキは上級士官学校を首席で合格した。




