冷めない熱
<第二幕 ドンドゥルマ>
ひらりと手を振って私はロビーを離れていく。
扉のところでグラニータの夫を見た。その見つめて来る視線に応えてあげても良いくらい気持ちが昂っていたけれど、残念ながら今は軽い遊びを楽しむような夜にしない。
なんたって私は手に入れた……。
この、輝きを。
幾月か過ぎ、あの時の熱は少しは冷めたよう。だけど興奮はずっと抑えきれないまま。
普通の日常に戻ったみたいで、その代り映えのない日々がどうもしっくり来ないの。だから私は自分で希望を探し出す必要があった。
今までなら電話が鳴るたびに走って出ていたけれど。それもなんだか違うような気がしていて。私は嫌々受話器を取ってから、連絡が遅れた理由になんでもない嘘をついたわ。
「……ええ……ええ。来週の休日……?」
相手の質問にわざわざカレンダーを見る必要はない。手元の手紙を取り上げただけで私の週末の予定は分かるもの。
名演目『エヴァーアイリス』の公演日……と、その公演中止の通知。ファンクラブ停止の諸々の言葉。
それに付け加えて、この手紙を見るたびにあの日の景色が目に浮かぶ。煌びやかな劇場とリーデッヒの格好良い活躍。それだけで良いのに……。あの女……。
私は手紙を握りしめた。受話器の向こうではなかなか話し出さない私に「愛しのドンドゥルマ?」と心配の声が。
「……はぁ。ごめんなさい。来週の休日は空いていないわ。当分は忙しいの。また予定が分かったら連絡をするから」
身勝手に電話を切った。
「……」
急に力が抜けて、しわくちゃになってしまった手紙を丁寧に伸ばした。
ついでにさらっと内容に目を通しておく。もう何度そうしたか分からないけど。よくよく読まなくても飛び込んで来るのは『主演を降りる』や『引退』の文字。ファンクラブの会報はこれが最後だとも書いてある。
「仕方ないわよ。世も世だもの」
独り言よ。だって理解しなくちゃ。
スターが人生のステージを変えるのに、これくらいの衝撃を生むのが普通じゃない。
ふと、その場の小箱が私を呼び寄せる。そっと蓋を取ると、この世の物とは思えないほど美しく虹色に光るスプーンが私を慰めた。
「はぁ」と溜め息が出てしまう。この輝きを見つめるだけで、艶っぽい曲線を撫でるだけで、私はすぐに満たされる。
たとえリーデッヒが劇場を降りようと、ファンクラブが終わろうと。私は自棄にならなかった。
この特別な輝き。
特別な私。
昂る思いはあの日からずっとそのままに。そして最近は、これが何かの使命のように思う時がある。テレビを付けたらより一層その使命感は強くなるようね。
『現地からニュースをお伝えします』
この重苦しい声が、どうかリーデッヒの悲劇を伝えませんように。ただそれだけを健気に祈って続きの言葉を聞いた。
『アスタリカ国会では、連日、南勢エルサ諸国への軍事進出をめぐる調整会議が行われ、判断と準備は着実に強化されています。陸軍による侵攻に向け、多くの国民が徴兵への志願を表明し、演劇界の著名人であるゲイン・リーデッヒ氏までも候補に名を連ねるなど大きな話題を呼んでいます。では街の声をお聞きください……』
懐かしの劇場前。リーデッヒを失った女たちが迷惑承知で居座っているみたい。印刷用紙で作ったプラカードを掲げて、カメラに映るよう押しかけている。
『リーデッヒ! あなたの居る場所は戦争の土地なんかじゃないわ!』
『帰ってきて私たちのリーデッヒ!』
叫び、時には泣き崩れる女たちも少し居る。多くは彼のために腹をくくって戦う意気込みなんでしょうけど。
『このように、徴兵志望の女性の姿もあります。ああっ、ちょっと!』
テレビは生放送だ。報道者は今、劇場前の女たちにマイクを取り上げられた。
『リーデッヒが戦うなら私たちも同じ場所で戦います! 同じ場所で死にます!』
『なんてことを! マイクを返しなさい! ……失礼しました。現場からは以上です』
大荒れしているわね。
これは放送事故だとして、美しい景色を案内する番組にすり替えられた。
静かになったところでグラスに水を入れ、氷も少し切り出して浮かせる。優雅な音楽に変わった途端、夏の感じ方もまるで変わるよう。さっきみたいに暑苦しく大声を張り上げるより、私は断然こっちの方が好きだわ。
カランと氷を鳴らし、水を飲んだら再びスプーンを眺めた。鉄じゃなく銀でもない輝きの中に私の出来ることが何か……ヒントがあるはずと探ってみるけれど。
「まあ、何も無いわよね」
そして一人でプフッと笑ってしまう。
「罪な男だわ。リーデッヒ。あなたのために戦場へ行って、一緒に死ぬとまで言っている愚か者がいるのよ? 馬鹿げているでしょう?」
スプーンは私の声に応えるように光った。
「ふふ。あなたもやっぱりそう思っているのね……」
はたと正気に戻り、もう一度スプーンをグルグル回して側面までよくよく見た。折れない程度に少し曲げてみようかと試みたけれど、やっぱりそんなことは出来ないと目を瞑る。
「盗聴器……なんて入れようも無いか」
こんなただのスプーンに小細工なんて出来るはずがない。これがリーデッヒとの通信機器だったらどんなに嬉しかったか。
馬鹿ね。夢の見過ぎだったわ。冷静になりましょう。
水を飲んで気分を変える。そのグラスに口を付けた時、なんだか私は自分のやるべきことが見えたような気がした。
水を飲むのを取りやめて急いで私は電話のところへ駆け寄った。
そうだ。リーデッヒもきっと望んでいることよ。馬鹿な女たちの愚かな発言を私が正してあげなくちゃいけないんだわ。
再び受話器を取って私はある知り合いのところへ電話をかける。
「……あ、繋がった。よかったわ正直賭けだったの」
話し相手は声で私だと分かったらしい。
「誰かに盗聴でもされたら」
真っ先にそんなことを言うから少し笑ってしまうじゃないの。
私は手元のスプーンの薄さを眺めながら答える。
「誰に聞かれたって構わないわ。それより教えなさい。リーデッヒの居場所を今すぐ」
彼を死なせはしない。
彼を守るのは私の使命なのよ。
そうだよ、と言ってくれるみたいに、スプーンがまたキラリと輝いている。
(((次話は来週月曜17時に投稿します
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