酷い過去が駆け巡る1
<第五幕 グラニータ>
『ご乗船の皆様、繰り返しご案内申し上げます。当船はただいま一部設備の不具合により、予定しておりました周回航路を離れ、最寄りの港へ帰港いたしております。航行は安全に行われておりますのでご安心くださいませ。また現在レストランにてオーケストラによる特別演奏中です。どうぞ優雅なひと時をお過ごしください。到着時刻や今後の行程につきましては、決まり次第改めてご案内いたします。重ねてのご案内となりますが、皆様に心地よい船旅をお楽しみいただけますよう引き続き努めてまいります』
海を切って進むクルーズ客船。
親に付いて行く雛のように、カモメが船と並行となって空を飛んでいる。
強風ではためくパラソルが忙しくても、私には何も気にならなかった。目だけは飛んでいるカモメを眺めていて、頭では、あと数一滴のしずくで溢れそうな心の器を心配している。
「グラニータ?」
ハッと私は振り返る。そこで一瞬、私は幻覚を見たけれど、髪が風によって目に張り付いて、擦ったりしている間に幻覚は現実と入れ替わってくれた。
「グラニータ? 気分はどう?」
「あ、うん。平気……」
私の心臓は大きく腫れたり萎んだりを繰り返して苦しかった。
この人……私の夫は、そんな私の体調を気にしてくれる。
「ごめんね、急に名前を呼んでしまって」
「……ううん。ありがとう」
優しい人だわ。
ここは強風に煽られるデッキだもの。ガラス戸をノックしてくれただろうけれど、外の私に聞こえるはずがない。
「寒くないかい? 中に入る?」
「大丈夫よ。涼しいから。あなたたちは中に戻っていて」
夫は小さなクッションに似た毛布の包みを抱えていた。私が身を寄せると、夫がかがんで毛布に隠れた中のものを見せてくれる。
小さな赤ん坊の顔。おしりを拭いてもらってスッキリしたのね。まん丸なほっぺに指を添わせると、大きな瞳をぎゅっと閉じて小さく震えた。
「寒いでしょう。あとで戻るから大丈夫」
私がそう夫に言って、二人はデッキを離れていった。夫がガラス戸の向こうからこちらに手を振ってくれている。私も手を振り返している。
一人きりになったらそっと自分の手の冷たさを再確認した。
凍えそうに冷たい指は赤ん坊にとって驚くものだっただろう。
「ごめんね……」
一滴。また心の器に溜まっていくようだ。
それからどれくらいカモメを見ていたのか。再びガラス戸が開いた時、それは夫の出入りじゃなくて他のお客だったよう。「レストランでの特別演奏が良かったね」との話をしている。
デッキに人がいるのは別に大丈夫。でも、ガラス戸を閉め忘れたことで、船内の音がデッキにも漏れ出た。
『アスタリカ国兵は……』
繰り返されるニュース報道。朝も昼も夕方も夜も深夜も。
勝ち続けるアスタリカはもれなく国内で英雄であると称賛され、どの街でもパレードが開かれていた。景気も良くなった。
私も嬉しい。この前の、カフェで集まった時までは……いや、もっと前だわ。
ドンドゥルマがたったひとつの特別なスプーンを手に入れる時までは、が正しい。
「待って! ドンドゥルマ!」
私が彼女の名前を呼んで、それでも止まってくれないからとドンドゥルマの赤いワンピースを掴んだ。
ドンドゥルマは嫌がりながらも降参し「何よ、グラニータ」と私を振り返った。
「それ、誰から貰ったの?」
もちろん指すのはドンドゥルマが手にしているスプーンだ。
「本当は誰から貰ったのよ?」
念を押して聞いた。
ドンドゥルマは歯を噛み締めて右の頬にえくぼを作った。彼女に気に入らないことがあると、いつもそうすることを私は知っている。
「……はぁ。何よ。あげないわよ?」
「そうじゃなくてちゃんと答えて」
「ちゃんとって何? リーデッヒが私にくれたの。それ以外のちゃんとした答えなんて無いわ」
そんなわけがない。
そして、そんなわけがない事をドンドゥルマだって分かっていると思っていた。
「ねえ、冷静になって。リーデッヒが誰かひとりに特別なことをするわけが無いじゃない!? ましてや私たちなんて貴族ですら無いただの女よ? 大スターのお目が叶うわけがないでしょう!?」
「うるさいわね!!」
ドンドゥルマが自分の衣服を取り上げた。掴み損ねた私はバランスを崩してよろけた。
「いい加減にしてよ!! あなたさっきから何なの? リーデッヒのことを知ったようなことばかり口にして。不愉快極まりないわ」
くるりと身をひるがえして行ってしまいそうになるドンドゥルマ。私は身を徹して彼女に飛び掛かったわ。背中から手を回してドンドゥルマの手の中に握られているスプーンをどうにか取り上げたいと粘った。
「こんなものがあるからいけないんでしょう!!」
「やめて! 痛い!!」
女同士のみにくい掴み合い。
ここではただ、私が躍起になってドンドゥルマを襲っている。そう、周りの淑女に見られて敬遠されても構わない。
「何なのよ!! 誰か!! 誰か!!」
ドンドゥルマの呼びかけに警備員が来た。もちろん警備員は私をドンドゥルマから引き離して、ドンドゥルマを保護した。
悲しくも、奇妙な色に光るあのスプーンを取り上げることは叶わなかった。
荒い息をするドンドゥルマは、乱れた髪をすぐに直して、スプーンも自身のバッグの中へ仕舞ってしまった。
こうすることで奪いようが無い。私の勝ちねとドンドゥルマは思ったかもしれないわ。
だからもう私に出来ることはひとつしか無かった。
「リーデッヒのことなら、あなたよりも私の方がよく知っているわ」
警備員に抑えられて身動きが出来なくても、言葉でドンドゥルマを煽ることは出来る。
大きく声を張り上げて、私は、周りの淑女にも十分に聞かせた。
「私……グラニータだけじゃない。ソルベもクルフィもファールーデも。それとここに居る全ての淑女の方が、あなたよりも何十倍、何百倍もリーデッヒのことを分かっている。無知なのはあなただけよ。あなただけは本当にリーデッヒのことを何も分かっていない。そのスプーンがどれだけ無価値で、あなたとリーデッヒとの『何もかも』を証明しないガラクタだってこと、無知なあなただけが気付けないのよ」
(((次話は来週月曜17時に投稿します
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