私は愚かだった
浜辺に出て、海に浮かぶ夕日を眺めている二人。その背中の影を私は見守るばかりだった。
女性はクルフィで、男性の方がジャルジーラさん。二人がどんな会話をしているのかは私には聞こえない。
ただ静かにうねる波の落ち着きが、今の二人の雰囲気を映したものだとしたら。この私にとって、これほど面白くないものはないわね。
「……ばあや?」
「はい。何でしょう。ソルベ奥様」
私ひとりで感傷に浸っている美しい夕時。そのつもりなのに、こうも簡単に返事が帰ってくるなんて、うちの世話係は私の背後でこそこそと何をしているのよ。
じっと睨んでみるけれど、ばあやの細い目と視界が合っているのか合っていないのか。
「奥様? どうかなさいましたか?」
「いいえ。……夫の帰りがいつだったかと思って」
「明後日の午後です」
「ああ、午後ね……」
先延ばし、先延ばし。待てども合流出来ない夫に、私が嫌気をさしたのはもう随分と昔の事だわ。
「ねえ、ばあや。あなたは私たち夫婦の仲介人でしょ? あの人になんとか言ってよ」
すると、ばあやは体を小さくした。
「老人の出しゃばるところではございませんゆえ……」
「はぁ。なによそれ」
十分出しゃばりな老人が、主人の頼みに腰を引くなんて。
苛立っていたら、外の海辺から何か笑い声がこちらに届いて来た。チラッと見やると、婚前である若い二人が手を取り合ってダンスを踊っている。
人の気も知らないで……なんて思うのは野暮ったらしい。
海に溶けるような夕日が切ないわ。ジャルジーラさんがもっと悪い人間で、クルフィを地獄の果てへと突き落とすくらいだったら良いものを……。
「他人の幸せって、羨ましいわね」
私はボソッと呟いた。揺れないカーテンに半分身を隠しながら、少しぐらい妬みをこぼしてもバチは当たらないはずよ。
風の入らない窓を閉めてしまおうか。
だけどその音で彼女たちの時間を止めてしまっては悪い。
「ばあや。お腹が空いたからリビングに降りましょう。あと、この窓は換気しているから開けたままにしておいて」
「かしこまりました。奥様」
階段を降りている最中、私が急いでいるのだと途中で気付いた。まさか本当に空腹でどうにかなりそうなわけじゃない。少し浮き足立っていたの。
「何か良いことがありましたか?」
「ばあや。黙りなさい」
いつもの夏。夫と過ごす時間はだいたい重ならないのが常だけど。
いつもと違う夏。初々しい二人の時間に水なんて差すものじゃないわ。
しかも……誰かに愛人を取られたからといって報復するなんてもっての外。私自身の魅力が負けたことを惜しみなさい。
ふと、エントランスの前を通る時、床に赤いものが落ちているのが見える。それがバラの花びらだと分かったけれど拾わずに通り過ぎた。
夫からバラの花束を貰ったことは無いし、ジャルジーラさんからの贈り物は嬉しくも無い。
オフィスに残ったマネージャ-からお詫びの花束だったとしても同じこと。私は満たされない。
そう、私が欲しかったのは、たったひとつのスプーンだったのよ。
クルフィが持っていたあのスプーンは、ジャルジーラさんが手作りしたプレゼントだったと言うから。私はクルフィに何の恨みもぶつけることは無いわ。
どういう経緯か、次にドンドゥルマの手に渡っていても、私が彼女を恨む必要はない。
だとしたら私に呪いをかけたのは誰? 誰に対しての怒りなの? 悲しみなの?
テーブルに夜食が出された。スパークリングワインと少しのチーズやハム。それから、口直しのアイスクリームを先に出してもらっている。
熱くなるばっかりの頭を冷やすために、そのアイスクリームを口に含んだ。濃いミルクの深い味わいが広がっていき、決して私の好みの味では無かった。
だけど味わうほどに、クルフィとドンドゥルマのことばかり浮かんで止まない。
「……壊してやろうと思ったのよ。どっちもね。なのに呆れる。本気で人のことを恨めない自分のことに呆れている」
アイスクリームスプーンに向かって言い聞かせてみた……。
「ばあや」
部屋の端で私のひとりごとも聞いていただろう。
「一番早い汽車のチケットを取ってくれない?」
「はい? どこかへ旅行に行かれるのですか?」
「違うわ。首都に帰ってひたすら働くことにする。その方がいろんな意味で楽なの」
夏季休暇に働くことが楽だなんておかしな話。これを理解してもらうために、夫にはどう手紙を書くべきかしら? 『私もあなたを見習います』って?
「ふふっ」
休暇中も仕事をしていたというのに、戻って仕事を始めるとなると少し嬉しい気持ちになる。マネージャーとビリヤニの顔も拝んでやらないとね。
そうと決まれば明日は早い。
……それから数日後、クルフィから連絡が来た。まさか彼女と連絡を取る手段なんて無かったと思ったけれど。ジャルジーラさんから言伝を貰って。
クルフィが私にとあるカフェに来て欲しいとのこと。用件がジャルジーラさんを巡ってのことなら願い下げだった。けれども二人はこちらに戻ってくる前にお別れをしたのだとか。
「ドンドゥルマ……さんという人の話で……」
ジャルジーラさんからの話はそこからは記憶が曖昧。気付いたらもう私はカフェの席に座っていて、二人きりの再会かと思ったら、ファールーデ、グラニータも揃っていた。ドンドゥルマは遅れていた。
私は彼女たちのことを忘れるはずだと思っていた。顔を合わせるまでは。
ここで私が思い出した事は、彼女たちとの女の権威を賭けた維持張り合いの事じゃ無い。煌めく舞台で出会って鼻の高さを競った事を懐かしむのじゃ無い。
すっかり酔いしれてしまったドンドゥルマ。彼女に夢を見させたのは誰だったかしら。
夏季休暇に入る前、私は小さな暗号を送り終わり、そっと肩を降ろしたのを思い出した。大きな事を成し遂げた気持ちでいたけど、まだ何もかもが始まったばかりだと自分を激励したことも思い出した。
ドンドゥルマが知り合いの海兵の話をするたび、私はその海兵のことを知っていた。
ドンドゥルマが繰り出す海兵から聞いた話を、私は彼女が話し出す前から知っていた。
愚かだったわ。
こんな愚かな人間が、私だけだったらいいけど……。
(((次話は来週月曜17時に投稿します
Threads → kusakabe_natsuho
Instagram → kusakabe_natsuho




