知っている匂い
クルフィは海を見るのが初めてらしい。このコテージに来てから幾度も、喜んだ明るい声を響かせて私のところまで届けて来た。
彼女を特定しにやって来たのは私の方だけど。何だかずっと私はため息を吐いている。それから部屋の中にも戻ってしまうわ。せっかくの綺麗な海なのに、窓越しに眺めているのじゃオフィスとまるで変わらないわね。
「ソルベ奥様」
しわがれた声で背後から呼ばれる。でもこれは日常の一部で特に驚かない。
「ばあや。いつも勝手に人の部屋に入って来ないで」
世話好きのばあやは、雇い主に対する失礼を正さないでそこに突っ立っていた。
「旦那様の到着が明後日の午後になるとのことで、先ほどお電話が来ました」
「ああ、そう……。仕方が無いわ。あっちは仕事が掻き入れ時だもの。明後日というのもどうだか微妙だし……。伝えたいのがそれだけなら早く消えて」
「あと、荷物がまだ駅で検査待ちをしておりまして。明日の昼には到着するのだそうで」
「……分かったわ。出来る限り急かしてちょうだい」
「はい」
ばあやはお辞儀もしないで出て行った。
これで静かになると思ったら、またクルフィが外に出ていて、甲高い声で何やら言っている……。
海に入って遊び呆けるなんてことはない。私は環境を避暑地に移したとしても、自分の事業をまとめる必要があったから。
静かな場所で文章に目を通し、荷物が遅れても使えるように別荘のタイプライターを打っている。案の定、後に届く予定だった荷物全てが予定の汽車に積まれなかったんだそう。ばあやが話した「午後に届く」というのも嘘ばっかりなんだから。
まったく行政は表向きに一流を気取っているけれど、民間がそのサビを舐めさせられるのよね……。中身がすっからかんじゃ意味がないじゃないの。
「って、あっ……。もう!」
一文字誤った。知らないスペルが出来上がってしまう。
私は犯人を見るみたいに窓の外を睨んだ。綺麗な海があるだけで、今日はクルフィの声もしないのに。
「……遊び惚けて良い身分ね」
「ソルベ奥様」
急に背中側から呼ばれて、この時は肩を震わせてくれる。振り返るとばあやだ。
「もう何よ! お化けみたいに急に現れないで」
「奥様にお客様がいらっしゃっています」
「は? お客様? そんなものは適当にあしらって。私は忙しいの。分かるでしょ?」
修正インクの蓋を開けながら言った。ばあやは、わかったと了解して部屋を出て行った。
「……」
出て行ったのは良いけれど。そのお客様という相手が誰なのかは聞いておくべきだった。
私は急いであの老人を追う。引きずるような歩幅ですぐに捕まえられるかと思ったら、もうすでに階段を降りていてエントランスに向かう途中だった。
私は手すりから身を乗り出し、ばあやを引き止めた。
「ねえ待って。お客様って誰のこと?」
聞くと、ばあやはどんな色にも表情を変えずに答えた。
「ジャルジーラ様です」
「……そう」
私は特に嬉しくならないで早足に階段を降りている。
「じゃあ出るわ」
ばあやの代わりに私が扉を開けて顔を出すことにした。そこにいた男性は事業に関わる職人のひとりだから。でも私には、ある事にすぐ気付いた。
「どうぞ入って」
「し、失礼します」
ジャルジーラさんがとても腕の良い細工職人であることは知っている。貝殻で作ったアクセサリーの扱い方も、ひとつひとつに込めた想いを語るのも真剣なのだと分かっていた。
仕事としての相性は申し分ないけれど。
私が気になるのはもっと別のところよ。
「ねえ、失礼ですけれど。ジャルジーラさんはご結婚はされていらっしゃるの?
「え?」
「ただの世間話よ。ジャルジーラさんは創作をするにあたって愛情を持っているようだから。もしかして身近にそんな関係の女性がいらっしゃるのじゃないかしらと思って。お話ししたくないのなら結構ですわ」
私は話しながらグラスに氷を敷き詰め、ソーダ水の瓶を開けている。
ジャルジーラさんは日当たりのいい席に。自作のアクセサリーを眺めながら私を待っている状況だ。
それが、もじもじと両膝をさすっているのだから女性がいることは見て取れる。
「……実は。この夏、結婚予定の彼女を連れて来まして」
「あら。結婚予定の?」
「ええ、まあ。自分事でお恥ずかしいのですが、今夜にでも結婚の申し込みをしようと思っていますが……」
ジャルジーラさんのソーダ水が用意できた。
飲み物を渡して、私も隣の席に腰かけた。彼の衣服か肌かが擦れたら、私の苦手な匂いがさっきからぷんぷん香ってくる。
香ばしいナッツのようでもあり、甘いバニラのような香り。こんな香水は私の事業でも扱ったことがない。
ジャルジーラさんの様子から見るに、結婚を決めてはいるけれど何か踏み込めないようね。彼の意気地なしのせいなのか、それとも他に理由でもあるのかしら。クルフィの素性については私も何も知らないわ。
「良い景色ですものね、この海」
私が窓をみやり、彼も窓を見た。
開けっ放しの大きな窓枠には、切り取った海が広がっている。
だけど残念ながら空模様は雨だった。
「しばらくここにいらっしゃるのでしょう? だとしたら、申し込みは今夜が最善では無いんじゃない?」
ジャルジーラさんのよく日焼けした腕。その先の落ち着かない手に、そっと私のこの手を乗せてあげるわ。
あら、これもあの悪いマネージャーのせいなんだから。私の休暇に付き合ってくれなかった浮気者の若男のせいよ。
「是非、他の作品も見せに来て下さるかしら。今度はうちではなくギャラリーを用意しますから」
それから。
「彼女さんによろしく伝えてね」
(((次話は来週月曜17時に投稿します
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