休暇の海と隣人
<第四幕 今年の夏は>
小さな暗号を送り終わり、そっと肩を降ろした。
ようやく終わったような気持ちでいるけれど、これが始まりだなんて思いたくはないわね。
椅子の背もたれに深く預け、窓の外に揺れる緑色の葉っぱを見やった。休息が必要だわ、と心の中で合点が付いた。
「また海兵との密会ですか?」
その場にいた男マネージャーが声を掛けて来た。ずいぶん昔に新人を卒業したはずなのに、レディーの秘め事に口出しする悪いマネージャーでいけない。
「私じゃないわ。向こうに私の知り合いを紹介してあげただけよ」
「へえ。ソルベさんが仲介をするなんて珍しいですね」
「そうね、ただの気まぐれ」
私は、ふうっ、と肩の力を抜いた。すると何も頼んでいなくても、そっと私の肩に手を乗せて疲れをほどこうとしてくれるマネージャー。
華奢なくせに指先の力は強くて、肩をもんでくれるのにはちょうど良いけれど、抑えるポイントが妙にズレていて、じれったいのよね。
彼が私からの指摘を待っているのは分かっている。でもね、何故かしら。今はそんな気分にはなれなくて……。
「やめて。私の心はリーデッヒだけ。知っているでしょう?」
私は自ら椅子から立ち上がり、マネージャーの手から逃れた。窓辺に立って、外に風が吹いているのをもっと眺めたかった。
「今日から休暇を取るから」
「えっ!? でも進行中のブティックが」
「ビリヤニに任せなさい。彼女、今すごく頑張っているところなの。応援してあげて。あなたになら出来るでしょう?」
マネージャーが私に引っ付いて来る前にクローゼットの方へ移動した。何日分かの衣服を取り出してソファーの上に丁寧に寝かせる。
ワンピースとコートと迷って、やっぱり気分を晴らせてくれるのは夏の海だと思ってワンピースにした。
いつの間にか、それらをマネージャーが急いで旅行バッグに詰め込んでいた。あまり手際が良いのは好印象ではないけれど……まあ、若者には若者の恋愛に勤しんでもらうべきだから良い機会じゃない。
「休暇はどちらに行かれるのですか?」
水着を丁寧に畳みながら聞いて来る。
私はインナーショーツを探しながら答える。
「ビリヤニがいくつか教えてくれたんだけど……今年は、西海岸ライタにある旧コテージに行こうと思っているわ」
「……またずいぶん的確な場所ですね」
「ええ。ちょっとね」
インナーショーツが見つからない……と、思ったら、すでにマネージャーがバッグの中に水着と一緒に入れてくれていた。
「もう。ひとこと言ってちょうだい」
「へ? 何がです?」
「……はぁ。分かっててとぼけるんだから」
困りものだわ。これだからビリヤニにあげるのが惜しくなるのよ。
海を眺めて過ごす。今年もありきたりな夏になると思っていた。
始業時間にも満たない朝の頃、私はひとりで海岸の旧コテージに到着した。
ベランダに身を出して、広い海の景色を見下ろした時だ。海風とは違う、鼻につく匂いが届いてきた。
まさかと思って探し出すまでもなく、段差違いの隣の敷地にひとりの女性が立っていた。
その女性は声を張り上げているわ。
「すごいわ! 海がこんなにも近いなんて!」
飛び跳ねて喜ぶ姿は、私には後ろ向きに見えていて。本人はまさか隣人に見降ろされているなんてことも知らないだろう。ましてやこの私になんて……。
ナッツを砕いたような香ばしく甘い匂い。それとオモチャみたいにフリルが多いドレス。熱カールが効き過ぎてほとんど絡まった髪。そんな特徴だけじゃ個人を判断したくはないけれど。今回は当てがピッタリあたったみたい。
私は頬杖をつきながら少し鼻で笑った。潮の音で彼女に届かないでしょうけど。
その浮かれた女性には付き人がいた。広い海の景色に感動する彼女の傍に寄り添い、絡まっている髪を優しく解いてあげる男性だ。
「気に入ったかい? クルフィ」
優しい声の持ち主でもあるらしい。
「ええ! とっても!」
もう聞き慣れてしまった名前と、それに答える女性……そう、彼女はクルフィ。古臭い木の皮みたいな異臭をあんなに振り撒くのはあの子ぐらいしか居ないわ。
部屋の中から世話役や現れる。私に電話を寄こしてきたと思ったら……ちょうど良かった。相手はマネージャーだった。
「お休み中のところをすみません。先ほど旦那様から伝言を預かりまして。今夜は用事が出来てそちらへ向かえないとのことで」
「あ、そう……分かったわ」
良いのよ。暇つぶしならたくさんあるから。
「ねえ、そこにビリヤニが居ない?」
「えっ」
「ちょっと代わってくれないかしら。お礼が言いたいの」
電話相手はすぐに代わった。まるですぐ隣に居たみたいにね。
「あ、代わりました……。ビリヤニです……」
「こんな朝早くにごめんなさいね。あなたが教えてくれたコテージがとっても良くてお礼が言いたかったの。本当にありがとう」
「あっ、いえ! 喜んでいただけて私も嬉しいです!」
私からの内容が分かると、ビリヤニの声は一層張りきったものになった。こっちの方が私の知るビリヤニだ。お仕事中の彼女という意味で。
「ソルベさん、クルフィには会えましたか?」
「ええ。あとで食事をしましょうと約束をしたわ」
「ああ、良かったです!」
ビリヤニはクルフィと昔から馴染みがあったらしい。私は彼女たちのそんな昔からの縁なんてあまり信用していなかったけれど。でも、これからは期待出来そうだわ。
「ちょっとしたサプライズを考えているの。クルフィには言わないでね」
「ええ! もちろんです! ソルベさんが恋の矢でとどめを打ってあげてください!」
「まあっ!」
あはは、と楽しい会話をした。
「あなたもね。じゃ、うちの悪いマネージャーによろしく」
それを言ってから電話を切る。
「……とどめ」
まったく、ビリヤニは面白いことを言うわ。
再びベランダに出てみてもクルフィの姿は見当たらない。屋内へ引っ込んだんだと思う。
さて。私もやるべきことをやらなくちゃ。書斎机に向かったら、新しい企画について色んなアイディアを並べている。
(((次話は来週月曜17時に投稿します
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