見た目によらない旭さん
――思いもよらない出来事に、心が沸き立つ夜もある。
『見た目によらない旭さん』/未来屋 環
ちらりと隣を見ると、眉間に皺の寄った横顔が視界に入る。
私はひとつ息を吐いてから、口を開いた。
「――旭さん、怒ってます?」
「……え?」
彼がこちらに顔を向ける。
その眼差しの厳しさに一瞬気圧されそうになるが、負けずにぐっと見返した。
「まさか。逆に三鳥さんこそ迷惑だったんじゃ……いきなり俺なんかに付き合わされることになって」
「いえ、全然。どこかで飲んで帰ろうと思ってたので、逆にありがたいです」
そう返したものの、旭さんの眉間の皺は深まるばかりだ。
私のことが苦手なのだろうか、だとしたら申し訳なかったかな……いや、私は悪くない。
事の発端は同期の戎くんからのお願いだった。
今日は花金、ようやく決算業務が終わった我々経理部の空気はふわふわと浮ついている。
とはいえ、私は特段予定もないので定時になったら帰るだけだ。
悲しいかな彼氏もおらず趣味もこれといってない。
仕方ないので自宅最寄駅で一人飲みでもして帰ろう――そう思っていたところ、戎くんからチャットが届いた。
『三鳥、今夜空いてる?』
珍しい、何だろう。
空いてるよ、と返すと、すぐさま続きのメッセージが届いた。
『悪い! 今日先輩と飲みに行く予定が急遽残業になっちゃって、俺の代わりに飲みに行ってくれない?』
成る程、ドタキャンで先輩とお店に迷惑をかけるのは心苦しいだろう。
別にいいよ、と返すと、土下座と大泣きしているスタンプが届いた。
『マジありがとう! 旭さんに言っとくわ!!』
花金なのにドンマイ。
サムズアップのスタンプを返そうとしたところで――あれ、と気付いた。
……先輩って、旭さんのこと?
旭さんは私の3つ上の先輩だ。
戎くんと同じ営業部で私はあまり話したことがないけれど「あの人顔怖いよね」と先輩たちが噂しているのを聞いたことがある。
確かにいつも眉間に皺が寄っていて目力があり、フランクに話しかけられるような雰囲気ではない。
一方、同期会で戎くんがいつも「旭さんっていいひとなんだよなー」と話しているので、そんな悪いひとではないと思う。
話が合うかは不安だけど、代打だし気楽な気持ちで行ってみるか。
そう決意して教えられたお店『麒麟』に到着すると、旭さんが私を見てその鋭い目を驚く程見開いた。
「……え、三鳥さん?」
重々しく放たれたその声に、あ、私の名前知ってるんだ、と内心驚く。
どうやら戎くんは自分が来られないことを肝心の旭さんに伝えていなかったようだ。
私が事の経緯を説明すると、旭さんはその険しい表情のまま黙り込んだ。
――あれ、私来ちゃまずかった?
一瞬後悔したものの来てしまったものは仕方がない。
私は開き直って彼の隣に座り、そして――冒頭に戻る。
さて、この空気感をどうしたものか。
そう逡巡している内に「お待たせしました」と救いの声が響いた。
「こちら、生ビールとお通しです」
ことりとカウンターの上に置かれたのは、薄いグラスに並々と注がれた金色のビールだ。
7:3の黄金比率を堅持したその液体は、細かい泡を立ち昇らせながら穏やかな店内できらきらと輝いている。
併せて、シンプルなデザインの三連皿がその隣を彩った。
左から順に、いかの塩辛、みょうがとわかめの酢の物、茹でそら豆が並べられている。
呑み助心を刺激するお通しの数々に、私のテンションがじわりと上がった。
「わ、おいしそう」
思わず声が洩れ、おっとと口を押さえる。
下手にはしゃぐと怒られるのでは……そう思いながらちろりと横目で隣を見ると、旭さんは変わらぬ表情のままこちらにグラスを掲げていた。
「――乾杯」
「あ、はい。乾杯」
慌ててグラスを合わせると、ちんと澄んだ音が鳴る。
それが開始の合図だった。
待ちに待ったビールをぐいっと傾けると、口の中がすっと澄み渡ったあとで爽やかな苦みが喉を走っていく。
この一杯のためにすべてのリーマンが頑張っているのだと割と本気で感じる瞬間だ。
「はーっ、最高……!」
一口目をおいしく味わい再度隣を見たその時、私は言葉を喪った。
旭さんは未だにぐびぐびとビールを流し込んでいる。
その驚くべきスピードに私は目を奪われた。
ほんの気持ち程度の泡を残して、旭さんがグラスをカウンターに置く。
眉間に皺が寄っているのは相変わらずだが、その表情にはどこか爽快感があった。
そんな彼に私は小さく拍手を送る。
「すごい、いい飲みっぷりですね」
「――え?」
旭さんがじろりとこちらを見て、そして我に返ったように「あっ」と声を上げた。
「すまない……つい喉が渇いてしまって」
「いえいえ、次どうします?」
「もう一杯ビールをもらうよ」
店員さんを呼ぼうとしたところで「はい、ビールですね」と背後から声がかかる。
そこにはにこやかな表情の男性が立っていた。
佇まいからして店長さんだろうか。
「いつもありがとうございます。今日は初めましてのお客さまですね」
「あ、はい。おじゃましてます」
「……ちょっと急に連れが来られなくなって」
旭さんがもごもごと口籠る。
どうやらこのお店は旭さんと戎くんの行きつけのようだ。
すると、店長さんが私に穏やかな視線を向けた。
「差し支えなければいつも通りおまかせでお出ししますが、何か苦手なものはございますか?」
「三鳥さん、もしあれば遠慮なく」
「大丈夫です、私何でも食べますので」
店長さんが笑顔で頷き去って行くのと入れ替わりで、女性の店員さんが旭さんのビールを運んでくる。
旭さんが空になったグラスと交換している間に、私はお通しに手を伸ばした。
まずは爽やかに酢の物から。
しゃくしゃくとしたみょうがにきゅうり、そしてむちむちしたわかめの食感が楽しい。
すっきりした口に今度はいかの塩辛を一口。
その濃厚さにも拘わらず後味がすっと軽いのは、上に載った千切りの柚子のお蔭だろう。
ラスト、つやつやと輝く茹でそら豆の皮を剥くとぷりっとした実がその顔を出す。
噛めばほくりと瑞々しい春の香りがした。
「……三鳥さんは、飲み会によく行くの?」
「えっと、会社では最低限という感じですね。部会と同期会くらいで……プライベートで一人飲みはたまに」
「一人飲み……」
ぽつりと呟く旭さん、眉間の皺が心なしか薄くなった気がする。
寂しい女だと同情されただろうか。
アラサーにもなると結婚したり子どもができたりする友だちも多く、これまでと付き合い方が変わってくる。
無理に合わせたりするよりも、私は一人で気ままに過ごすのが好きだからそれでいい。
そんなことを思っていると、旭さんが言葉を続けた。
「俺も好きなんだ、一人で飲むの」
「え、そうなんですか?」
こくりと頷く旭さん。
まさか共感してくれるとは。
「知らない店にふらりと入るのは一人の方が気楽で。誰かと一緒だと、その店がハズレだった時に気まずいというか」
へぇ、見た目によらず、意外と繊細。
そんなことを話している間に二人ともグラスが空になった。
「次どうする?」
「私ハイボールにします。旭さんは?」
「俺は焼酎かな。二階堂の水割りで」
「はい、すぐご用意します。お先におつまみ置いちゃいますね」
ナイスタイミングで登場した店長が、順番にカウンターの上を飾り立てていく。
「こちら左上から時計回りに、茄子の焼き浸し、新玉ねぎと菜の花のペペロンチーノ、月見鶏つくね、しらたきの山椒炊きです」
「おぉ……!」
途端にカウンターの上が賑やかになり、私は思わず目を輝かせた。
強面の旭さんの口角ですら僅かに上がっている。
おいしいものの力恐るべしだ。
私たちはすっきりしたお酒と共に目の前の食事を平らげていく。
茄子の焼き浸しはポン酢でさっぱりとろりとしつつ、ほのかにふわりとごま油の風味が香った。
新玉ねぎと菜の花のペペロンチーノは、しゃくしゃくぴりりが後を引いて止まらない。
鶏つくねはそのままでもタレとの相性が抜群だが、卵黄をまぶすと更にお酒が進む。
そして一番ハマったのがしらたきの山椒炊きで、優しいだしの味に実山椒がアクセントとなってついついおかわりをお願いしてしまった。
「すごい、どれもおいしいです! 旭さん、こんなに素敵なお店をご存知とはさすがですね」
「……気に入ってもらえたなら良かった」
いつの間にか二人で日本酒を酌み交わしている。
お酒が進むにつれて、旭さんの口の滑りも良くなってきたようだ。
「今日、三鳥さんが来た時何事かと思った。戎の奴に何も聞いてなかったから」
めひかりの唐揚げ、ほくほくヘルシーでおいしい。
「ですよね。私も最初旭さんと一緒って聞いてなかったのでびっくりしましたよ」
ごま豆腐の揚げ出し、もっちり甘くておいしい。
「そりゃそうだ、俺が相手じゃ話しづらいよな。悪かった」
エリンギとえのきの酒蒸し、じゅわりと沁みてておいしい。
「いえ、逆に意外な一面を知れて良かったです。久々に楽しい飲み会というか」
「……え」
「……え?」
丁寧に漬けられた春キャベツのお漬物をぱりぱりと頂きながら旭さんの顔を見る。
気付けば眉間の皺は一本もなくなっていて、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……うん、俺も楽しかった」
――見た目によらず、意外と素直。
赤だしのお味噌汁がほんわりと胃を温めてくれて、私は満足のため息を吐いた。
***
週明け、昼休みに廊下を歩いていたら「おーい、三鳥!」と声をかけられる。
振り返るとそこには旭さんと戎くんが立っていた。
「いやー、三鳥先週末はありがとな。お蔭で仕事なんとかなったわ」
戎くんが明るい表情で言う。
隣の旭さんは日常モードで怖い顔――のはずだけど、先週末飲み交わしたからか私の目には普通の表情に見えた。
「こちらこそすごくおいしいお店教えてもらっちゃったし、すごく楽しかったよ」
「あ、『すごく楽しかった』? なら良かった」
戎くんがちらりと旭さんを見て微笑む。
しかし、旭さんはそれに気付かずまっすぐに私を見ていた。
「旭さん、金曜日はありがとうございました」
「あ、あぁ……」
「お、電話だ。もしもーし?」
戎くんが慌ただしく走っていき、あとには旭さんと私だけが残される。
「――あの、三鳥さん」
「? はい」
「この前の店、気に入ったようであれば……他にも三鳥さんに合いそうな店があるんだが」
「えっ、行きたいです」
「……わかった、また連絡する」
そのまま足早に立ち去る旭さんは、お酒を飲んだわけでもないのに耳が赤かった。
――見た目によらず、意外と純情。
私はくすりと一人微笑み、自席に戻る。
次回の飲み会はいつだろう。
久々に心がうきうきして、足取りが軽くなった。
「あれ、三鳥さんどうしたの? 顔赤いよ」
「……えっ、そうですか? カレーうどん食べたからかなぁ」
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
本作は『酒』というテーマで書いた作品です。
とにかくお酒とおいしいものを書こう! というコンセプトですので、難しいことは一切考えずつらつら書かせて頂きました。
たまにはこういうのもいいかな、なんて(´ω`*)
作中で出てくるしらたきの山椒炊きは最近お店で頂いてヒットだったおつまみナンバーワンです。
そして登場人物やお店の名前は推して知るべし……ですが、一番私が好きなのはサッ○ロ黒ラベル。
そんなにお酒強くないですが、やっぱりお店で飲むビールはおいしいなぁと思います。
以上、お忙しい中あとがきまでお読み頂きまして、ありがとうございました。