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箱。  作者: 塔石 純
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1話



男は、きっかり朝の六時半に家を出た。上京してから十年、男は二階建ての古いアパートに住んでいた。近くに最寄りの駅があり、時折電車の駆け抜ける音が響いた。

男は一定の速さで歩く。アパートの階段を降りて蕎麦屋の角を曲がると歩道に出る。そのまま真っ直ぐ進み、二つの交差点を過ぎると登校途中の中学生とちらほら出会す。男は人通りの少ない方の歩道に寄って歩く速度を緩めた。


そういえば、玄関の鍵は閉めただろうか。


出勤の道中、ふとそんな疑問が浮かぶ。右手に提げた鞄の中に鍵が放り込まれてあったなら、鍵を閉めたはず。ズボンの右ポケットに鍵があったなら、鍵を閉めていないはずだ。


男はそういう風にして鍵の閉め忘れを判断していた。そして、男は歩きながら鞄を左手に持ち替えてそっとポケットに右手を入れた。



(……ない)


ほっと胸を撫で下ろす。念の為に鞄の中を見てみると隅に鍵があるのが分かった。

きっと鍵は閉めただろう。無意識に鍵を閉めていたことになるが男はこれを経験するのは一度や二度ではない。毎度のこと男は鍵を閉めたか忘れるが、家に帰ればしっかり鍵が掛かかっているので、男は今回も大丈夫だろうと結論付けた。



最寄りの駅まではあと五分もかからない。いつも通り狭い歩道を歩いていると、目の前を歩く男女の中学生が噂話をしているのが耳に入った。


「何でも箱って知ってる?」


二、三台のバスやトラックが大きな音を立てて横切った。訊いたのは部活で焼けたのか、溌剌としていそうな褐色肌の女の子の方だった。


「何でも箱?」


尋ねられた背の高い男の子は欠伸をしながら眠そうな顔で返した。


「うん、都市伝説って聞いたんだけどその何でも箱っていうのは、頼んでもいないのに毎日運ばれてくるダンボール箱なんだって」


「ただのいらずらじゃん。」


「そう思うわよね。でもね、そのダンボール箱の中身はその届けられた人の欲しい物が入っているらしいの」


「ははっ、嘘くせぇー」


「ねえ、この話聞いてあんた夢膨らまないわけ?欲しい物が毎日届けられるなんて、私だったら長距離用のスパイクが沢山欲しいなぁ」


「お前は陸上一筋ですな。俺ならゲーム機とソフトをもらって全部売って金にするわ」


「馬鹿じゃない?お金が欲しいなら、お金を望めばいいじゃない」


「ちげーよ、遊び倒してから売るんだよ」


男の子の笑い声が聞こえてくる。その後も彼らは「で、それ誰から聞いたんだ?」や「お母さんが言ってた。お母さんが言ってたから多分本当のことだよ。でも、毎日来てたその何でも箱は突然来なくなって……」と会話しながら駅のホームに入って出勤途中の男とは違う路線の方へと行ってしまった。



都市伝説なんていう実のない話に男は特段興味が惹かれた訳ではないが、子どもの夢ある会話に幾らか自分の青春時代を思い出した。自分も、ああいう風に毎日が楽しかったのだろうなと。男は懐かしく、哀愁地味た気持ちを思い出した。


もし、自分に何でも箱が届くことがあったら。

一体自分にはどんな届け物が来るのだろうか。


男はあと数分で訪れる満員の地獄を待つ、束の間の時間でぼんやりと考えた。


それから男はあっ、と何か思い付いたかのようにしてから薄く微笑みを浮かべた。




「拳銃、とかだろうな」








「お前はぁほんとに役立ただなあ"!」


怒張声がオフィスに響いた。デスクに座った社員達がいきなりの怒声にビクッと肩を震わせて一斉に手を止めた。


「……すい、ません……」


「あのさ、すいませんじゃねえだろ!!申し訳ございませんだろお?」


「……申し訳ござません」


男は頭を床につけて土下座をした姿勢で謝罪をしていた。目の前の相手は男の上司、山口部長という男だった。緑のスーツを愛着し、薄くなったなけなしの髪を横に流している。鼻の横には小さなイボがあり、山口はそれをカリカリと撫でるのが癖だった。垂れた目で見下し、男に土下座を命令したのは他ならぬ、山口であった。



他の社員らは、心の中で等しくこう思った。


(……また始まった)


男が山口に怒鳴られるのは日常だった。昨日、一昨日、一昨昨日。男は来る日も来る日も山口に頭を下げ続けていた。


始めはただ運が悪かった。山口が男が用意した取引先との会議で用いる資料に不備を出したまま使ってしまったのがきっかけだった。男はその資料を準備し、山口部長に誤字脱字、不備の確認をお願いしたが山口はその紙束をデスクの脇に置き、「後でやっておくよ」と爪切りをしながら目も合わせず答えていた。


その後も山口はデスク脇に置いた資料を見ることはなかった。男もそれには気付いていたため、確認の旨を再度山口に伝えるも、


「ああ、もう見たよ。まあ大方大丈夫なんじゃない?」


「えっ……。あの、本当に全てご覧になりました……?」


「ああ?だから、もう見たって。いちいちそういうのイイから、だからはいこれちゃんと印刷しといて」


男はそのまま手付かずの資料を返されてしまった。当惑し、山口の顔を見ると何故か不機嫌そうな顔がそこにはあった。面倒くさがって資料に目を通すことを怠っていたことがバレそうになったためだろうか、山口は顔のイボを撫でながら「さっさと自分のデスクに戻れ!」、とぶっきらぼうに男に告げた。


男は言い返そうになる言葉を飲み込み、失礼しますと掠れるように山口に伝えて自分のデスクに戻った。



そして、会議当日。何の修正もされていない資料を人数分配り、話し合いは始まった。しかし、会議がしばらく進んで資料の頁を捲ったときに男が恐れていたことが起こった。


取引先の女性が眉を顰めて、こちらが用意した資料の不備に指摘をし出したのだ。指摘された箇所は幾つもあった。

女性は信じられないといった表情をし、慌てる山口部長を前に、「これ、確認していませんよね?このような失態を犯す御社とは、およそ信頼に足る取引はできませんね」と言い放ちそのまま会議は打ち切りになってしまった。


その後山口は男に責任をなすり付けた。怒鳴り散らす山口部長の言い分に腹が立つこともあったが、男は確かに自分が最後までちゃんと確認・修正していればこんな事にはならなかったと自分の非を認めた。男は我慢して頭を下げ続けた。


それからだった。男はその日を境に山口に謝罪する日々が始まった。小さなミスから男の部下のミス、会社全体のミスや山口自身のミスを全て男にぶつけた。何かしらの理由をつけては山口は腹いせか、あるいは見せしめかも分からないが決まって他の社員の前でがなりたてた。


男は何も言わずその怒声を一身に引き受けた。最初の頃は、男も暴論にも程があると我慢ならず反論した。しかし、その後の男の扱いが熾烈になるだけだった。男は次第に黙り込んでいった。毎日それが続けば最早、反論する気力も無くなっていた。男はそうした日々の中、黙ってその場をやり過ごした方が賢明なのだと分かった。わざわざ一矢を報いる必要なんてない、そんなのは体力を無駄にするだけだ。


男は閉口し、日が経つにつれて会社の中で孤立していった。誰も怒鳴られ続ける男と仲良くしたいと思う人間はいない。むしろ、男のせいで仕事の集中が途切れることを鬱陶しく感じる人が多く、誰もが男のことを疎んだ。



(……今日は怒鳴るのが早いな)


出勤して早々山口部長に呼びつけられ、恒例の見せしめが始まり、男はひんやりと冷たい床に額を付けながらそう思った。



俺は、何でこんな奴のために頭を下げているのだろうか。



頭を垂れ、視界に山口がいなくなる度に男は考える。毎朝背広(スーツ)に袖を通し、鏡の前でネクタイを結び、磨かれた革靴を履き、満員電車に呑まれながらも欠かさず出勤をする。残業なんて当たり前で、他の社員に疎まれながらも自らの仕事に心血を注ぐ。にもかかわらず、男の努力は誰の目にも留まらない。


人生なんて糞ッタレだ。


いつしかそう心の中で呟くようになっていた。山口の言葉が徐々に聞こえなくなった。視界も暗く、頭の中も呆然としてくる。


耳には目蓋がない、と誰かが言った。否応なしに山口の言葉に強姦されると、何故だか鼓膜が潰れ始める。もう、山口の言葉は聞こえない。耳に響くのは、心臓の鼓動だけだった。ドクンと、脈打つのがよく聞こえる。指先が冷たくなり、焼けるような熱さが胸に宿る。


拳銃。


手にすっぽりと嵌るような黒くどっしりとするグリップを握ってその銃口をあいつに向けたい。



男の無気力な精神に浮かぶ殺意だけが、猛々しく燃え上がっていた。





男は電車に身体を揺られながら、車窓から過ぎ行く夜の眺めを茫然と見つめていた。吊革を指先に引っ掛け、交互に片足に重心を置きながら立ち尽くし眠気を誘わないようにしていた。


ガタん、ゴトん。


「お前の代わりなんて、いくらでもいるんだよっ」


朝、山口が最後に吐き捨てるかのように言った言葉が反芻された。馬耳東風の如く、山口が顔を真っ赤にして喚く言葉の数々を聞き流してやり過ごそうとしたが、妙に頭に残ってしまった。


(……どうでもいいか。)


そんな言葉はもう余り過ぎるぐらい頂戴している。一々気に揉む必要なんてない。


男は自分の心を説き伏せるように静めた。周りをみれば自分のようにサラリーマンをやってるおっさんがずらずらといた。己だけ辛いと嘆こうが、他の人は難なく明日を過ごしている。


つまりは、意味はないのだ。


会社に行きたくない、頑張りたくない、馬鹿にされたくない。そんなことを願っても明日は変わらない。会社に飛行機が突っ込んで欲しいなんて、以ての外。


無意味な妄想。


男にはどうすることもできない。ただ、毎日を繰り返すだけ。


電車が止まり、駅のホームに足を着けて歩き出す。ぞろぞろと改札に向かう人々に歩みを狭められながら自宅へと向かう。自分を待ってくれる人はいないが、一番気が落ち着ける場所は家だけだった。


改札を出て今朝と同じ道を辿る。男は心做しか体を重そうにしながら固いアスファルトを踏み歩く。夜空は雲で覆われていて煌びやかな星々は覗けない。今にも雨が降ってきそうな空だった。


人の疎らな電柱の下を歩く速度を少し早めて行く。男は自宅が近付いて来た為か鞄の中を開き、奥に追いやられた鍵を取り出して掌で握りしめた。あまり時間をかけずに玄関を開きたい性質だった。


蕎麦屋の角を曲がり、アパートの階段を上がっていく。二階の一番端の部屋が男の住んでいる場所だった。照明がないため薄暗く見え辛いが、十年も同じ場所に住んでいるので明かりが無くとも男は平気だった。


男は自分の部屋の前まで来ると、玄関扉の横に何かが置かれているのに気づいた。


「なんだ、これ」


宛先や名前も書かれていない大きなダンボール箱。持ち上げてみると案外軽く感じられ、上下に振ってみると何かがぶつかる音がした。


「お袋からの郵便か?」


男はとりあえずダンボール箱を脇に挟み、扉の鍵を開けて中へと入っていった。


ダンボール箱をテーブルに置き照明をつけて手洗いをする。六畳半の隅にある箪笥に上着をかけて、ネクタイを外した。


そしてようやく持ってきたダンボール箱を調べてみるが何の情報も載っていなかった。男は何の考えもなしにダンボール箱を自分の物だと認識して持ってきてしまったが、もしかしたら隣の住人の物ではないかと考えた。


「いや、ウチんじゃないよ」


男はすぐさま隣の住人に尋ねたが、返ってきたのは否定の言葉だった。男は「分かりました、夜分遅くにありがとうございます」とだけ伝えて自分の部屋へと戻ってきた。



(……じゃあ、誰のものなんだよ)


深まる疑念。やはり、開けてみるしかないか。


恐る恐る男はテーブルに置いたダンボール箱を開封した。折り畳まれてガムテープで接着された部分をハサミで切り、中身を覗くとそこにはブレンディのスティク珈琲の詰め合わせがあった。


「あー。今朝切らしたばかりだったか」


台所の戸棚を見てみると、いつも飲んでいる珈琲が切れているのが分かった。なんと言う偶然だろうか。


そこでまた疑念が深まった。宛先のない郵便物などない。だから、お袋や誰かからの配達ではないということだ。


そして、隣人の物でもない。自分の部屋の前に置かれていた、謎のダンボール箱。


(……っ!!)


ひとつの気付き。そういえば、今朝朝練に向かう中学生達がダンボール箱の都市伝説について話していたか。


「確か、何でも箱」


この謎のダンボール箱が噂される”何でも箱”とやらだったら。


理性では、そんな都合のいいことは起きないと分かっていても内心ではもしかしたら、という期待感があった。


(……はっ。ばかばかしい、風呂入って寝るとするか。)


男は急にダンボール箱に興味を無くし、そのまま服を脱いでシャワーを浴びた。



ちょうど、雨が降り始める頃だった。




翌日、男はいつものように朝の六時半に家を出た。

結局、男は届けられたインスタントコーヒーを飲むことはなかった。買いに行くのが省けて助かるな、と思ったものの誰が送ってきたものか分からない以上不気味で手をつけられなかった。


男は半信半疑だった。都市伝説を安易に信じるのは些か早計だ。もしかしたら、あのダンボール箱は自分をつけ狙うストーカーの仕業かも知れない。ひょっとすると、ストーカーなる者が家の合鍵を所持し、コーヒーが無くなったことを発見、要らぬお世話にもインスタントコーヒーを置いていった線もあるのか……。


男にストーカーはいない。実際、謎のダンボール箱が届けられることは今のいままで一度もなかったことだった。


男の妄想はしばらく続く。もし誰かの悪戯(イタズラ)で行き過ぎたゲテモノが出始めたら速攻警察に連絡しよう。


男はあらゆる可能性を考えながら出勤する。


その足取りは、いつもよりどこか軽そうに見えるのだった。





夜。男の予想は当たった。雨滴がこぼれる傘を握りしめて男は佇んでいた。


「今日もか……」


二階へと続く階段を上り、廊下の最奥の部屋の前に置かれたダンボール箱。


男は考えていた。もしかしたら、今日もダンボール箱があるかもしれない、と。会社にいる間は頭から離れていたが、自宅に近付くにつれて謎のダンボール箱のことを考えていた。



男は宛先や名前、一切の情報が載ってないことを確認して昨日のように自分の部屋へと持って行く。しかし、男はあまりの重量に持ち上げるのが困難になるが、何とか家の中まで移動させた。


部屋の照明を付けて、すぐそのままダンボール箱を開封し出す。


「……これは」


男がダンボール箱から取りだしたものは、札束だった。

男の目には、ダンボール箱に敷きつめられた札束が映っていた。男は巨万の富に目が眩みかけた。


男の手が震え出す。手に持つ札束の帯封を外し、一枚一枚数え始めた。天井の蛍光灯に金蚊(かなぶん)が何回もぶつかる音だけが部屋に響いていた。


「ひゃ、百万っ……」


きっちり百万円がそこにはある。それもまだダンボール箱に敷き詰められた百万円束が。



男は歓喜した。大金を手にし、涙が零れるほど悦に浸った。六畳半の部屋の真ん中で、年末ジャンボでも当たったかのようなものだった。


そして、男はダンボール箱を見遣る。

これは、誰かの悪戯なんかじゃない。これは、何でも箱。

そうだ、誰がこんな大金を一晩で用意出来よう。巷で有名な都市伝説、そうに違いない。


昨日のインスタントコーヒーとの差に未だ理解が追いつかなかった。


男はダンボール箱に入っていた札束をテーブルの上に出し始めた。


いつしか男の目には光が戻っていた。無気力な精神に子どものような底抜けの明るさが舞い戻っていた。男はいまや、かつての男のそれとは異なっていた。


ただ会社に行って、帰ってくるだけの日々。部長に蔑まされ、社員達に疎まれる何の楽しみもない糞みたいな日常。


そこに、一筋の月明かりが差した。自分だけの月光がひっそりと白く輝いている。暗雲を退け、自分にだけ照らされた澄み切った青い光。


降りしきる外の雨は、既に止んでいた。

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