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Killing me softly  作者: 鞠坂小鞠
Killing me softly
5/9

《5》嘘と約束

 袖口から覗く自分の腕に視線を向けると、その先の床が透けて見える。暗がりの中にあってもそうと分かる程度には、僕のそれは、空気に溶けて消えかけている。

 ベッドに横たわりながら、僕はマヤの頭を胸元に抱え込み、彼女の視界を遮り続けていた。


『アカル、おねがい』

『まやのそばにいて』


 透けた己の指から視線を外す。くらくらと頭が揺れる。

 マヤは帰りたくないという。自分がいた世界に戻ったら、今度こそ親に殺されてしまう、と。


 小さな子供がそれほどの恐怖を抱く、肥大化した悪意の塊。そんなものが牙を剥いて襲いかかってくる、それが向こう側の常だとでも。

 悪意が溢れ返る世へマヤを返さねばならないなら、確かに、いっそマヤを攫ってはしまえないかと思う。例えば、誰も僕らを知らない場所へ。


 だが、僕は間もなく消える。明日までだって保ちそうにないこの身は、マヤを置いて、綺麗さっぱり消えてなくなる。

 せめて最後に消えるのが、この人を抱き締める腕であってくれないだろうか。そのような願いがどこまで叶えられるものか、そもそも誰に願うべきなのか、それさえも僕にはもう分からない。

 すべての思考を掻き消すように、金糸の髪にそっと唇を寄せる。


「アカルは……しんでしまうの?」

「……ううん。そんなこと、ないよ。」


 嘘、嘘、嘘。全部が嘘だ。

 場違いにも、つい笑いそうになる。


 実際、相手がマヤでなかったなら、死までは至らなかったのかもしれない。

 僕らの命を脅かすのは、誰かと触れ合うことではない。誰かに心を奪われることであり、その相手を愛したい、愛してほしいと願ってしまうことだ。それこそが僕らに死を連れてくる。

 それは、こちら側の人間同士ではまず起こり得ない感情。可能性があるのは、向こうの人間と深く接する機会のある僕らのような者だけだ。触れ合うという行為に心が伴った瞬間、僕らの命は根底から崩れて消える。


 僕がいなくなったら、マヤはまた傷ついてしまうだろう。

 新しいその傷は、僕がいなくなった後、誰が癒すことになるのか。同じ役割を担う他の誰かに任されるのかもしれないが、マヤが僕以外の誰かに心を開く、それすらも耐えがたい気がならない。


 蝋燭の細い炎は、いつしか尽きていた。窓から差し込んでくる薄い月明かりだけが光源となった室内では、マヤの髪の色ももう光り輝いては見えない。

 透けた指を金糸に(くぐ)しながら思う。触れた指の先から、僕の心の内がすべてマヤに伝わってくれればいい。それでいて、消えゆく僕の思いなど、なにひとつマヤの中には残らないでほしいとも。

 矛盾した僕の思考をふたつとも読み取ったかのごとく、僕の胸元に顔を沈めたマヤが、静かに口を開いた。


「……アカル」

「ん?」

「おぼえてる? まやが、ここにきて、はじめてしゃべったときのこと」

「……覚えてるよ。」


 懐かしい記憶が蘇る。

 マヤが初めて僕と口を利いてくれた日。僕が想像のみで作り上げた飴玉を、泣きながら口に運ぶマヤの顔。感覚の鈍くなった自分の唇が、控えめな弧を描く。


「あの日、アカル、あめを作ってくれたでしょう。あのいちごのあめ、ママがまやにくれた、おかしなの。いっかいだけ」


 ふふ、と笑うマヤの声が、気を抜くとすぐに聞こえなくなりそうで、僕は必死に耳をそばだてる。


「ママ、わらってた。『ほら』って、まやにあめ、わたしてくれた。あの日、アカルにもらったあめ、今までたべたおかしの中で、いちばんおいしかった」


 ――ママがくれたあめと、同じくらい。


 ……この子を、この寂しさごとここに残して、僕は消えていかなければならないのか。

 ぎりぎりと歯噛みしそうになったそのとき、霞みきった頭に、ある考えがふと思い浮かんだ。


 回避できる方法はないか。

 なんとかマヤと一緒にあり続ける方法は。この世の規範の網目をくぐり抜ける方法は――そう、例えば。


 朦朧としていた頭が、なぜか急に鮮明に開けていく。霧が晴れたように、はっきりと意識が巡る。

 この世から消えかけているはずの心身が、再構築でもされているのではと訝しくなってくるほど。むしろ、元々よりもさらに賢くなったのではと思うほどに。


 覚悟の必要はなかった。どのみち崩れかけた命だ、失敗など恐れる気にもなれない。

 この先に訪れる未来を回避するためなら、なんだってできる気がした。捻じ曲げてはいけないものを捻じ曲げてしまおうとも、構いはしない。構ってはいられない。


「……マヤ。」


 声を絞り出す。

 この身が消えることは、もう避けられない。だが。


「僕のこと、どうか忘れないでいて。そうしてくれたら、」


 長い髪に潜した己の指が、完全に透き通って見える。

 ちりちりと焼け焦げるように巡る思考の、最後の最後に、残ったものは。


「いつか、必ず迎えにいくよ。」


 伝え終えた途端、ぱきんとなにかが割れる音がした。マヤにも聞こえたかどうかは分からない。

 この距離でさえ伝わるかどうか疑わしいくらいに細くなった僕の声を、それでもなんとか耳に捉えたらしいマヤが、アカル、と僕を呼んだことしか、僕には分からなかった。

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