120話『ターニングポイントⅠ』
その後、ギナーラは自らを失い暴走した。エリスはそんな状況を飲み込めず、受け入れられないまま座りこんでしまっていた。
「愚かだ」
そんなギナーラなど、魔卿公にとってなんの脅威にも成り得ない。片手で軽く弾き飛ばされた。
その時、後方で床か何かが崩落する轟音が響いた。
「全く……暴れすぎだな」
見ると、そこにいたはずの龍種が姿を消している。それに、裏切り者の3人も同様に姿が見えない。
「あいつは、何をしているんだ」
魔卿塔最上階 南部――
「ユフ、まだ動けるわね」
「……もちろんです、姉様……」
どれだけ倒しても数を減らさない魔獣に、その姉妹は苦戦を強いられていた。2人の魔力、体力は共に限界が近いようだ。中央で起こった事など、気にかけている暇すら無かった。
1人、小さいのがどこかに消えているが……大した問題では無いな。
「晩餐の支度を始めようか」
***
魔卿塔9階――
「お前、こんな事してて良いのかよ」
「私は、歯車の一端に過ぎないよ。与えられた任務を、ただ遂行するだけさ」
床が崩落し、1つ下の階層へ落ちたロンとカテラ。それから八番主は、例の龍種を探していた。
「こっちにもいないわ。魔力すら残ってないなんて」
周囲を捜索していたカテラも、その魔力の欠片すら見つけられなかったらしい。
優秀な魔術師であるカテラですら見つけられないのなら、もうお手上げだ。ロンはそう考えた。
「ねぇ、どこに行くんだい? 」
「あ? どこって……」
八番主にそう後ろから声をかけられたロンは、お前は何を言っているんだとその方を振り返った。
「……? 」
八番主のその手には、何が起こったのか検討もつかない。そんな表情をしたカテラの首がぶら下がっていた。唇の間から、微かに漏れた息が彼女の最後の言葉だった。
ロンはしばらくの間、全ての思考が停止したかのように動けなかった。
「お前! 何を……どうして……! 」
言葉にならないそんな言葉を、ロンは力のあまり叫んだ。八番主は不気味な笑みを浮かべたまま、持っていた首を非情にも投げ捨てた。
「何を言ってるんだい? 私は、私の任務を遂行したまでさ。裏切り者の粛清をね」
ロンは悪寒に全身を襲われ、吐き気がした。深紅の血液が滴り落ちる音が、鼻を刺すその不快な匂いがロンを激昂させた。
何故だ、こいつは……あのメイド達を連れて来たんじゃないのか?こいつの思考が読めない……!
「お前だけは、死んでも俺がぶっ殺す! 」
「はははっ! 何を言っているんだ君は……もう既に、死んでいるのに」
八番主の言う言葉の意味が、ロンには微塵たりとも理解出来なかった。それを処理し、理解する為の物が無かった為かもしれない。
とにかく、既に勝負は決していた。ロンが気づく暇すら与えずに。
「さて、これから私は……いや、この私が新たな神になる」
歩き出した八番主の後ろで、既にロンの首は体についていなかった。
***
魔卿塔最上階南部――
2人の少女は魔獣の大群に囲まれ、万事休すである。
淡い青色をした長い髪の毛を、後ろで1つにまとめていた少女も血を流しすぎたらしい。
仕方ないか、身体中噛み傷だらけだ。
綺麗な緑色の髪の毛をしていたこちらの少女も、今やその美しさは見る影もない。
自分のものか魔獣のものか、とにかく血にまみれてしまっている。よく見れば、腹に一撃喰らわされたようだな。こちらの方が重症だ。
そんな光景を見てもなお、魔卿公は何も思わないのだろう。隠されたその素顔は、笑っているのだろうか。
「ユフ……あなただけでも、逃げなさい」
「何を言うのですか! ……ユフは、死ぬ時も姉様と一緒です」
「不謹慎なこと、言うんじゃないわよ」
ヨダレを垂らす魔獣の1匹が、ついに痺れを切らして飛びかかってきた。
2人の少女は目を閉じ、強く抱き合った。
「……聖鐘響! 」
その時、久々に聞くとても頼もしい声が、聖なる鐘の音と共に2人の耳に飛び込んだ。
忘れ去りたい記憶、とても幸せな記憶、そのどちらも思い出させるその声色と匂い。
「来るのが、遅すぎますよ……」
そんな2人を、素早く動き回る複数の影が危機一髪、さらい去った。
「御二方の回収、完了いたしました」
「ありがとう。治療も頼んだからね」
「御意」
手早く指示を出す女と……魔杖を構える、レイニィ・ヨル=ワインデッド。
「……ハハッ。久しいなぁ」
俺の目に映るこの惨事は何だ。
奥の方で魔獣と戦っているのは、王都奪還組か……? あっちは何とかなったのか。
とすると、あの軍勢がエキドナの配下……モナトスナ軍というわけか。
それにギレーヌとエリス……? その近くで倒れているのは、なんだバエルか。
ってバエル? ……エリスとギラーナさん!?
相打ち……? 状況が全く掴めない。
長らく俺と離れていたエリスは、遠目に見てもあの時とは比べ物にならない程、とても大きくなっていた。
もう、あの時の泣いてばかりのエリスはいないんだ。そう思える。
「本当に、頑張ったんだな……」
感傷に浸るのも良いが、これ以上は後にしよう。
「先生! あいつ逃げるわよ! 」
天衣の大声で初めて魔卿公と思われる人物が、転移魔法陣を構築している事に気がついた。
この全く使えない魔力感知め!
「逃がすか! 強制解除」
その魔法陣を対象にして、強制解除を発動したが不発した。
その間に魔法陣は完成し、魔卿公は転移してしまった。
「先生、追うわよ! 」
天衣のその言葉が、頭に響いた。どうして、こんなに嫌な感じがするんだろう。
分からない、分からないけど……とにかく追うべきでは無いと、もう1人の自分が必死に訴えているような気がした。
突如、チリーンと鈴の鳴る音が響き渡った……気がした。
すぐ近くにいるはずの天衣には、何も聞こえていないようだった。
「紛うことなき、汝の使命は……」
そして、そんな声が頭に流れ込んできた。
***
気がつくと、辺りは真っ白だった。何も無い、空白の世界。
ふと、この空間がいつもあの祭神が、出てくる所だと分かった。どうにも、頭が上手く回らない。
再び、チリーンと小さな鈴の音がしたと思えば、目の前に祭神……鬼頭祭神高亜君の姿があった。
「やぁ、いつぶりだろうね」
いつぶり……そうだな、いつぶりだろう。
「レイニィ……いや、春瀬蒼弥くんと呼ぼうか」
春瀬、蒼弥……? なぜ、俺は……レイニィだ……いや、春瀬蒼弥だったか?
「記憶が混濁しているようだね。まぁ、無理もない」
その時、初めて自分の体を見た。どうにも、違和感があったからだ。
「これは……どういうことだ」
ようやく気がついた。
俺は、春瀬蒼弥だった。生前の体、もちろん魔力の巡りは感じられない。それが違和感の原因のようだ。
「うん。君は、春瀬蒼弥」
祭神は大きく頷き、右手で顎をさすった。
「一つ、君に忠告だ。奴を追うな」
祭神は、両手を少し広げて、そう言った。
意味が分からない。
「追えば、君は必ず後悔する」
「後悔……? 」
祭神は腕を組み、考える仕草を見せた。
「そう、後悔だ。取り返しのつかないね」
「と言っても、行かなくても後悔するけどね」
少しの間を置いて、祭神は呟くようにそう言った。
なら、行った方がいいんじゃないか。
魔卿公を仕留めるには、今が絶好のチャンス……だと思う。
「君は大きな誤解をしている。今が、本当にそのチャンスなのか? よく考えると良い」
祭神のその言葉を最後に、俺の意識は遠のいていった。




