センドニル・ブロロックス
彼女は悩んでいた。
最近、四歳になる翔哉の様子がおかしい。
「悩みでもあるの?」
と聞いても、そんなのないと笑うだけである。
しかし、笑顔の下に暗い影があるように思えてならない。
夫に相談しても、気のせいだと笑われてしまう。
お母さん仲間に話したいのだが、それもできない。下手なことを言って噂が広まり、翔哉が仲間外れにでもなったら元も子もない。
どうすることもできず、彼女は不安を抱えたまま数日を過ごした。
秋晴れの心地好い日曜の昼下がり。洗濯物をたたみながら、彼女は息子の様子を伺っていた。
彼女の心配をよそに、翔哉はテーブルにクレヨンをひろげて懸命にお絵かきをしている。
後ろから覗きこむと、画用紙には黒く歪んだ人型が描かれていた。
「何かいてるの?」
翔哉は手も止めず無邪気な声で答えた。
「SendnilBrolocs」
「え?」
「SendnilBrolocsだよ」
初めて聞く単語だった。
翔哉の見るテレビ番組はいつもチェックしている。翔哉の好きな怪獣も、ヒーローも、全て知っている。
その中に“SendnilBrolocs”という名前のキャラクターはいない。
「それは何なの?」
「SendnilBrolocsだよ」
「だからセンドニル……ブロロックス? それは何? お母さんにも教えて」
「SendnilBrolocsはSendnilBrolocsにならなきゃわからいよ」
「それになるとわかるの? 翔くんはその……センドニルブロロックスになったの?」
「お母さんにはわかんないよ。だってSendnilBrolocsじゃないもん」
「それになると、どうなっちゃうの?」
「SendnilBrolocsがわかるようになるんだよ。SendnilBrolocsにならなきゃ、SendnilBrolocsはわからないんだよ」
そうなんだ――と彼女は無関心を装ったが、心の中は焦りに身を焼いていた。
彼女の朧気な不安が、確固たる形をもって表出した瞬間だった。
“SendnilBrolocs”
やはり気のせいじゃなかった。翔哉がおかしくなった原因はそれだ。
彼女がタンスに下着類を仕舞っている間も、翔はお絵かきを続けていた。
その夜。彼女は慣れないパソコン作業に没頭していた。何度検索しても『センドニルブロロックス』にヒットするページはなかった。
彼女は苛立ち、パソコンを平手で叩いた。
「おいおい、どうした」
振り向くと、呆れ顔の夫がこちらを見ていた。
「ねえ、センドニルブロロックスって知ってる?」
「お前何言ってんだ」
「だから、センドニルブロロックスよ。翔がそう言ってたの」
「大丈夫か? 最近疲れてんじゃないか」
夫は育児に対し、いつも無頓着である。表面的なことしか見えていない。翔哉の笑顔の裏にある影にも気付いていない。
そんな頼りない夫に言ってもしょうがない。
もういいわよ、と彼女は電源も落とさず部屋を出た。
寝室には息子の可愛らしい寝顔があった。
しかし、心の中では苦しんでいるはずだ。
――私が守ってあげるから
彼女は覚悟にも似た強い感情を胸に据えた。
翔哉のお絵かき帳には、何ページにもわたって黒き人影が描かれていた。
息子を苦しめる怪物の正体が何なのか。それがわからぬことには手の打ちようがなかった。名前こそ知れたものの、本質が見えてこない。
“SendnilBrolocsにならなきゃ、SendnilBrolocsはわからない”
翔哉が何を伝えたかったのか。言葉の真意が汲み取れないことにもどかしさを感じた。
保育園のお迎えの際、たんぽぽ組の先生にそれとなく聞いてみた。
「何か変わったこととか、ありませんでしたか」
「いいえ、いい子でしたよ。翔くん今日はお絵かきしたんだもんね」
「センドニル……」
「はい?」
「それってセンドニルブロロックスじゃないですか」
「え? 何ですか」
「いえ、いいんです」
彼女は翔哉の手をひき、逃げるように門をくぐった。
――先生にも言えないことなんだ
――私が、私が守らなくちゃ
彼女の我が子への愛情は使命感へと形を変えていた。
父兄会の集まりでも、彼女の脳内はひとつの単語で一杯だった。
“SendnilBrolocs”
もちろん自ら口にだすことはできない。単なる我が子の妄想だとしたら、翔哉が白い目で見られてしまう。
他のお母さん達の
「最近ウチの息子ったら――」
という台詞に食い入るように耳を傾けたが、単なる子供への愚痴ばかり。とうとう例の単語は話題に上がらなかった。
気が付けば、彼女は一言も会話に参加していなかった。
翔哉は彼女と二人きりの時以外、例の話はしていないらしい。
誰にも話せないほどの深い悩みを抱える我が子が、不憫でならない。それでも自分にだけは、話してくれた。
“SendnilBrolocs”
もはや翔哉の問題ではなく、親子の問題。彼女自身の問題へと転嫁していた。
買い物中も、家事の間も、その単語ばかり気になっていた。
“SendnilBrolocs”
翔哉でさえ、名前以外のことは教えてくれない。
だからといって、彼女には翔哉を責めることはできない。
――あの子は私以上に苦しんでいるはずだ
――私が何とかしなければ
――私が守ってあげなければ
彼女の心労はピークに達していた。
*
「それで、翔哉くんはその妄想にとり憑かれている、と」
医師はカルテを覗きながら、上目で彼女の表情を伺った。
「はい。私がどうにかしなきゃいけないんです」
頬が痩け疲れきった顔つきに反し、彼女の眼はギラギラと高揚していた。
「えー翔哉くんにも別室でお話を伺いましたが、そのー何ですか。センド……」
「SendnilBrolocsです」
「ええ。そのセンドニルブロロックス何てものは知らないと言っています」
「私にしか言えないんです。翔の悩みはそれほど深いんです」
「いや、ですがお母さん。翔哉くんには然したる異常、というか、変わった所は見られないんですよ」
「母親の私が言ってるんですよ! あの子は今も苦しんでいるんです。医者のあなたにわからなくても、私にはわかります。あの子は、翔はSendnilBrolocsにとり憑かれて――」
医師は豹変した彼女をみながら
――こりゃ母親の方に問題があるな
と、声に出さず呟いた。
*
数日後のある日曜日。近所の公園には友達と楽しそうに遊ぶ翔哉の姿があった。
背後から大人達の世間話が聞こえてくる。
「翔哉くんとこのお母さんて、精神科に入院されたらしいわよ」
「知ってる。あの人、前からちょっとおかしかったもの」
「保育園でも噂になってるわよ」
「やーねぇ。翔哉くんが可哀想だわ」
「しっ。あんまり大きな声出しちゃダメよ」
「でも……翔哉くんは強い子ね。泣き言ひとついわず、明るく振る舞ってるんだから」
大人達の会話を尻目に、翔哉達の無邪気な笑い声は公園中に溢れていた。
「なあ翔哉。SendnilBrolocs、成功したみたいだな」
「ああ。大人なんてちょろいもんだよ」