イグナーツ先生4
「ワン! ワンワン!」
まるで抗議するようにクラウス様が吠えた。そして頭でグイグイと押して二人がつないでいた手をほどかせる。
フンフンと鼻息も荒く二人の邪魔をするクラウス様に、マルガレーテは内心くすりと笑ってしまった。
少なくともこの婚約者は、他の人とマルガレーテが仲良くするのは気に食わないらしい。
それがちょっと嬉しくて。
「イグナーツ先生。今は私の魔力が枯渇してしまっていますが、いつかは魔力を取り戻してクラウス様の呪いを解こうと思っています。私は何も知らずに死ぬところでした。それを救ってくださって、こうして身内として厚く面倒を見てくださる王妃様を裏切ることはできませんわ。そして私にこんなに懐いてくださっているクラウス様のことも」
そう言いながら、マルガレーテはクラウス様の頭を撫でた。
ふさふさとした毛が気持ちよく、そして久しぶりに撫でてもらったクラウス様が嬉しそうに目を閉じる様子が幸せだった。
尻尾が力一杯左右に振られている。
マルガレーテの手を堪能したあとにクラウス様は目を開けて、イグナーツ先生に向かって短く吠えた。
「バウ!」
それは、あたかもマルガレーテはお前にはやらんと言っているようで。
「おやおや、クラウス様もすっかり我らが姫にメロメロですね。その姫が、ご自分のために命を賭けようとしていることをどこまで理解していらっしゃるのか。人に戻って一番最初に理解するのが最悪の悲劇かもしれないのに」
「イグナーツ先生。私はそれでいいのですわ。この人を人に戻してあげられるのが今は私だけなのでしたら、私はクラウス様に出来るだけのことをして差し上げたいと思っています。だからこうして先生にもいろいろ教えていただいているのですわ」
マルガレーテがそう言うと、イグナーツ先生はちょっと悲しげな顔をして、ため息をついてから、
「わかりました。では、姫のお心のままに。ですが、私の提案はいつでも有効です。気持ちが変わられたら、いつでもおっしゃってください」
そう、ルトリアの言葉に戻して言ったのだった。
「ありがとうございます。私の意志を理解してくださって」
マルガレーテもそう答えて、この会話は終了した。
クラウス様が、マルガレーテの足下に陣取ったまま、ただイグナーツ先生をうさんくさげに見つめていた。
マルガレーテが自分の魔力を感知するようになってわかったのは、魔力が増えるのは思ったよりも遅いということだった。
よく寝てよく食べていても、じわじわとしか増えないみたいで。
たしかにこれではイグナーツ先生が言うようにたくさん魔力を持てるようになるには時間がかかりそうだとマルガレーテにも感じられた。
そして同時にわかったことがある。
あの、お気に入りの東屋にいると、ちょっとだけ魔力の増え方が大きくなる。
それは本当に少しだけだったのだけれど、それでも前から感じていた気持ちよさは、きっとこの魔力が増えるということと関係があるような気がしたのだった。
なのでマルガレーテはつとめて東屋に通うようになった。
ときにはそこでお茶をしたり読書をしたり。
離宮の図書館には本がたくさんあったので、そこから興味のある本を見つけては東屋に持って行って読むようになったマルガレーテだった。
もともと王族の療養のための場所なので、きっと静かに楽しめる本が充実しているのだろうと思う。
前にも思ったのだけれど、この離宮は静かに穏やかに暮らせるような工夫がたくさんあるところだった。それはけっして邪険に扱われるような人の住む場所としてではなく、最初は本当に大切な人がゆっくり過ごせるような場所として作られたのだろうと思うのだ。
たとえば、ときには騒音が出ることもあるだろう調理室や使用人の休憩室とは遠く離された、日当たりの良い主寝室。
建物とは不釣り合いなほどの本が詰め込まれた図書室や音楽室。
ゆったりとした休憩スペースが併設された温室や、日当たりと風の通りを計算された居心地の良いテラス。庭には散策するための小道があって、その小道も長短何通りものコースがあって、その全ての周りにはいつも色とりどりの花が咲いていたのだろう。
最初にこの離宮を建てた王様は、愛する王妃の回復を願って建てたという。
その王様の王妃様への愛情を、あちこちに感じられる建物なのだ。
近年は見る影もなく、全てが寂れてしまっていたそうだけれど。
王妃様がこの離宮に入ったころの様子を聞くと、どうやら長い間放置同然の扱いをされていたようだった。
設備は全て老朽化し、花も枯れ果てて、周りの森がぐんぐんと離宮の敷地を侵食していたらしい。
それを、王妃様とその実家のラングリー公爵家が全面改装して今の状況があるとハンナが悔しそうに言っていた。
そう、王宮は、そんな忘れ去られて寂れた所に第一王妃様を放り込んだのだ。
この離宮が寂れていたのは、いつの間にか「不吉な場所」と思われるようになったから。
最初の頃はこの離宮で、本当に王族が療養して、そして回復していったという記録はあるようだ。
でも近年はなぜか回復する人がいなくなり、それどころか次々と弱って死んでしまうので、いつしかこの離宮は死の床についた人の隔離施設という認識になっていったとのこと。
あそこに入ったら、二度と生きては出られない。
今ではすっかりそんな風に言われる場所になっているらしい。




