壱・虹色の季節に ②
既に気を取られて足元を見ていなかったことが災いした。
衣服を収納している棚に近づこうとした矢先、床に散乱していた布一枚に足をすくわれ、茉野は大きく体の均衡を崩した。
「あっ」
奇声と共に前のめりに倒れ込む。衝撃と共に打ち付けた膝がじんじんと痛み、涙が滲んだ。
「もう、最悪………。」
踏んづけた布を見た途端、茉野は今度こそ本当に泣きそうになった。
不運にも踏んづけた布は、昨夜徹夜して縫い上げた刺繍布だった。布には色鮮やかな牡丹や薔薇、戯れる蝶々など緻密な模様が高級な生糸で施されている。それらは妃殿下の衣装や私室の垂れ幕などに美しさを凝らして配置されるのだった。
「なんでよ、」
一針一針心を込めた刺繍がぐしゃりと潰れている。手で伸ばしても伸ばしても刻み込まれた皺が消えることはない。せっかくの刺繍は、不運な事故で台無しになっていた。
「………もう嫌」
茉野は布を両手で握りしめ、力なく床に額を預けた。ひんやりとした冷たさが伝わってくる。
いつまでそうしたままだっただろう。
大きな怒鳴り声が聞こえた時も、まだ茉野は床にうつ伏せになったままだった。
『ねぇっ、もう、いい加減でてってよ!!じゃないと、夏々茉野が戻ってきたら怖い!自分の身が怖い!まだ寝てるうちにでてって!寝てる鬼は起こさないでっ!!!』
あの声は………。奴だ。奴の声だ。
見習い侍女として茉野の指導下に入った途端、態度がでかく、神経は図太く、叫んでばかりいててあろうことか先生である茉野を呼び捨てにする。その馴れ馴れしさには頭を抱えていた
『お願いします。虹花さん、お静かになさって下さい!ご迷惑になりますわ。』
泉明虹花。隙あらば仕事から逃げて怠けようとする厄介者。仲間の侍女の声に耳を貸そうともしない。我が道を突っ走るとんだ曲者。疫病神だ。
『だぃじょーぶ!迷惑ならもういっぱいかけたし?今更一個や二個問題ないよ!!心配無用、心配無用。』
なーにが一個や二個は大丈夫だ。なにが心配無用だ。お前のせいで、こっちは………ッ!
怒りのまま茉野は立ち上がった。自分の服装も見た目も頭の中からぶっ飛んでいた。
あいつを一度しばかないと気が済まん………!
戸口の壁に掛けていたほうきを握り締め、茉野は大きく息を吸い込んだ。
そして、扉を蹴り飛ばす。
「コォラァァァァアア!!!誰が怒るだと!?この大馬鹿者がぁっ!!」
回廊に面した中庭から見上げる空は青かった。茉野は鼻息を荒くすると、爽快な空を目一杯に留め、空に向かってほうきを突き上げた。
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「さぁ、あともうひと頑張りですからね。」
優しい朝の日差しの中で侍女達は洗濯に勤しんでいた。地面に並べられたいくつもの桶には水が張られ、すっきりと黒髪を布でまとめた侍女の姿が一様に映し出されている。
「はいっ!」
皆励ましの声に頷き合い、再び指を冷たい水に浸した時だった。
『きゃっ、先生!??』 『落ち着きましょ、一旦落ち着いて!』
普段は静寂に包まれている廊下が何やら騒々しく、揉めているようで時折大きな怒鳴り声も混じって聞こえる。慌てふためく足音は止まることなく、部屋に戻るよう指示する声も重なって、回廊は異常な空気に包まれていた。
「…何かあったのかしら」
中庭に取り残された侍女は不安げに視線を交わし、洗い物をする手を止めた。耳をそば立てて、中の音に集中する。
「今度はしばく!絶対にしばく!!」
すぐ耳元でかな切り声がして、侍女達は恐怖で飛び上がった。地響きと共に黒髪を振り乱し、茶色に煤けた夜着をめちゃくちゃにふみながら突進してくる山姥の姿がある。
桶を放り出して逃げようとする心を叱責し、侍女達は足に力を込めて立ち尽くしていた。
そして、その山姥の顔に焦点を合わせた途端、一斉に目を向いた。
「「先生っ!!??」」
酷い姿を晒してほうきを振りかざす女は、おしとやかで、落ち着いていて、上品で美人で冷静で素敵な女性と尊敬して止まない先生だったからだ。
埃を巻き上げて回廊の奥に消えていく様子を侍女達は呆然と見送り、困惑の視線を交わした。