壱・虹色の季節に ①
夏々 茉野は、ジュッと袖が焦げる音で薄目を開けた。焦げ臭い匂いが鼻孔をくすぐり、茉野の意識をそばだてた。
火事………………、いいや、まさか。昨夜、厨房の火の元は確実に消したし、戸締りもした。侵入者による放火はまずない。
火事の可能性が否定されると、茉野は再び深くまぶたを閉ざして寝返りを打った。風は清い。光は澄み切り、外は静かだ。いつも通りの平和な朝。ならば、もう少しこの安眠を貪らせて……。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」
誰かが叫んでいると茉野はまどろみの中で考えた。床が左右に大きく揺れて、まるで揺り籠に抱かれているよう。母の腕の中の温かさを思い出し、思わず笑みが溢れた。
パラパラパラッと天井から粉が落ち、茉野の頬をくすぐった。
何…………?季節外れの雪、なの……??だとすると、今年初めての雪かしら。
「ぎゃああいあああああああああああぁぁぁぁぁぁあろァァァァアアーーっっっ!!!!!」
鼓膜を切り裂くような絶叫に、茉野は顔をしかめた。指を耳栓代わりにして耳の中にねじ入れ、再び眠りに落ちようと寝返りを打った。その時。
いや、いいや。待て待て。火事?揺り籠?雪?‥‥…絶叫?
茉野は寝台から飛び起きた。睡魔はとっくに飛び去っていた。
「ちょっと!?何があったの!!どういうこと!?」
茉野の声は悲鳴を上げて震える天井や床の音にかき消された。首を横に振りながら、茉野はうんざりとして天井を見上げた。天井から落ちてくるのは美しい雪ではなく、どぶねずみ色の埃だ。
小窓から溶け込んだ優しい朝日に照らされ、飴色に光る床が灰色に染まっていく様子に茉野は顔を痙攣らせた。自室の床を掃除するのはだーれ?もちろん、茉野だ。
束の間でも現実から逃れようと茉野は床から視線を引き剥がし、代わりに鏡に向けた。夜着の袖を払い、身支度を整えるために鏡台に腰掛けようとした、次の瞬間。
「アツっ!」
袖に触れた瞬間、茉野はあり得ないほどの熱さに指を引っ込めた。袖がいきなり鉄のように熱くなるなんて。ない、よね。ないない。あるはずない。
それでも何となく嫌な予感がして茉野は恐る、恐る、袖をつまんで覗き込んだ。そして、驚きのあまり口をあんぐりと開けたまま、閉じられなくなった。
「はあっ!?嘘でしょっっ!?燃えてるッッ」
滑らかな乳白色の夜着の袖には、ポッカリと黒い穴が口を開けていた。
そう、茉野の夜着は無惨にも火で炙られたかのように茶色に焦げていたのだった。
「えっ、嘘嘘嘘。何で?どうして?どうやって燃えたのよ……。キ、キャァァァァァアアッッ!!」
茉野の喉の奥から先程の絶叫にも負けない悲鳴がほとばしった。茉野が凝視する先にあるのは……、なんと火がついた寝台だった。棚の大きさの部屋にかろうじて詰め込んだ寝台は今、木の本体ごと丸こげになろうとしているのだった。
原因は?簡単だ。家屋の震えに耐えきれなくなった燭台が茉野の寝台に倒れたのである。
「水水水水水水」
血走った目で水を探し、茉野は洗顔に使う予定だった水瓶を奪うなり、その中身をぶちまけた。
まだまだ足りない。このままでは部屋ごと燃える。
茉野は汲んでおいた飲み水、石鹸水、果汁水、化粧水など手当たり次第に水分を含んだ物全てを寝台に投げた。
火が燃え尽きる頃には茉野は頭から爪先まで全身汗だくで、寝台はというとカリカリに焼けた石炭の塊になっていた。あともう少し気付くのが遅ければ、と茉野は考えて身震いした。鳥の丸焼けの様になって焼殺されていただろう。あと、もう少し遅ければ…………。
『先生?如何されましたか?」
扉の奥から同じ見習い侍女の声がし、茉野はハッと我に返った。穏やかで優しい声。妃に仕えるに相応しい人材となる様に、茉野が日頃から礼儀、器量、言葉遣いの共々を鍛え上げてきた自慢の見習い達である。その頭ともあろうこの夏々茉野が手本としてみっともない姿を晒せようか、いいやありえぬ。これは茉野の恥だ。先生としての威厳の終わりだ。
こほん、と一つ咳払いをして茉野は先生としての声を作り、扉の奥にいる侍女に応じた。
「いいえ、大丈夫よ。すぐに向かうわね。」
『ごゆっくりなさって下さいまし。』
あぁ、紡ぎ出す言葉もしっかりと美しいわ。「先生」の様子に気配る姿もさすがよね。
どんな時でも落ち着いて。侍女の誇りを忘れては駄目よ。
自身が伝え守ってきた教訓を胸にとめ、茉野はようやく唇に微笑を繕い直すとと着替えに取りかかった。
いやはや、氷枕は気持ちいいものですな………。