記憶
鼻を擽る甘い花の香りを纏う彼女は幼馴染であり、初恋の人だった。
幼い頃の想いだとしても、本当に彼女が好きだった。
もう、離れたくはない。
このままずっと彼女を抱きしめていたい。
前王家の実弟、大公家の末娘だった。
前王家が退いた後も、その才覚は確かなもので、宰相としての地位にあり、現王家に次ぐ国の実力者たる家柄の姫君だ。
その姫が、この島にいるのは何故だ。
記憶が確かならば、彼女に最後に会ったのは10年も前の事。
面影はあるが、彼女であると確信できているのは何故だ。
何故今の今まで彼女の事を忘れていただ。
こんなにも愛しいと思う彼女を!
「アリア。」
彼女が好きだった。
好きで好きで仕方なくて周りの大人たちに咎められても…会いに行った。
それなのに……。
大切な存在だったのに俺はどうして彼女を忘れていたんだろう。
どうして今になって彼女を思い出したんだろう。
どうして彼女はこの島にいるのだろう。
どうして彼女は最初から言ってはくれなかったんだろう。
どうして………。
解らない事だらけだ。
『なぜ魔女の島に行かなければならないのか?』
危険な旅へでる祖父と父に同じ問いをかけた。
返ってきた言葉は一つだった。
『お前にもわかる時がくる。』
二人ともそう言ったのだ。
祖父と父は何を目的にこの島を目指したのだ?
「…………。」
分からない事がたくさんあるけれど、一つだけ確かな物がある。
俺と彼女は運命の糸で結ばれているのだという事。
誰にも断ち切れない確かな絆。
その糸に導かれ、この島に来た。
彼女を取り戻す為に。
彼女は言った。
いずれは魔女になるのだと。
それは多分俺が失態を犯した時。
俺が失敗すれば、彼女は魔女になり、二度と会う事は叶わなくなる。
そう確信した。
そんな事になってたまるか!
彼女は…必ず取り戻す。
何を犠牲にしたとしても。
彼女の長い睫毛が微かに揺れた。
ゆっくりと瞼が開いて……俺を見る。
色素の薄い茶色の瞳。
俺を捕らえて離さない、離したくもない君の瞳。
俺を見て。
俺だけを見て。
「アリア。」
それが彼女の名。
かつては隣にいる事すらも、咎められた身分の差。
彼女は王弟の姫君で。
俺は末席の人間で。
出会う事すら奇跡に近い存在で。
そんな俺と彼女の出会いは、俺が7歳で、彼女が、6歳の時。
俺が彼女に想いを告げ、あの石を手渡したのは俺が13歳の時。
そして彼女はそれを受け取ってくれた。
まだ幼いと言える未熟な恋。
他人が聞けば、笑い飛ばすかもしれない。
だけど、本当に好きだった。
少なくとも俺にとっては本物の恋だった。
その想いは数年の時を超えて一気に湧き上がり、俺の心を占拠する。
抑えきれないほどの想いは…、彼女の全てを欲して、その身を掻き抱いたのは…、本能が溜め込んできた彼女への愛しさが、一気に湧き出したが故だろう。
好きで、好きで。
愛しくて、愛しくて……たまらない。
強い眼差しで彼女を見つめる。
もう離さないよ。
もう二度と君を忘れたりするものか!
たとえ魔女に、いや、神に逆らう行為だとしても、俺は君を手離したりしない。
「…………。」
「シリウス様?」
ただ見つめるだけの俺を不思議そうな目で覗き込む彼女。
「会いたかった。」
それは確かな思い。
誰が何と言おうとそれだけは変わらない。
外は日が陰りはじめ、室内を薄闇が侵食していく。
闇が深まれば深まる程に彼女は淡く輝きを見せる。
その彼女の肢体を抱き込んだ。
二度と離すまいと誓いながら。