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1、沙比とハムスターと霧隠れ Ⅶ

「なんで私、こんなところにいるんだろ」


 沙比は思わずそう呟いていました。


 もうどれだけ時間が経ったのかもわかりません。


 一時間かもしれないし、十分かもしれない。すでに一日経ったってこともあり得ます。


 その間に、様々な光景が泡のように浮かんでは消えていきました。


 学校の下らない生活、親戚の息苦しい会合、楽しくももう戻らない過去、生まれたての真っ白な記憶。


 身を捩らすことは敵わず、指先さえほとんど動かせません。額のこぶも、手の平の傷も時折、思い出したように疼きました。暑苦しくて汗にまみれ、拭くこともできない、その気持ちの悪いこと、悪いこと。


 外から物音はしませんでした。沙比の心臓の音が聞こえるだけです。


 変化のない世界は気が狂いそうになりました。人間、なかなか無には耐えられないのでしょう。


 それでもかつての生活よりはましだと思う辺り、沙比はハムスターの言う、狼なのでしょう。


 ここにはあの生活にはなかった何かがありました。あのハムスターのせいでしょうか。


 あのハムスターも今頃、こうやって身を隠しているんでしょうか。


 そう沙比が考えていると、不意に、気配が湧きました。ゆらりと、湯気のように漂ってきたのです。


 変わらず外に音はありません。


 沙比は自分の鼓動が早まるのを感じました。


 チーター。


 チーターがこの辺りを探っているようでした。ゆっくりと、鋭敏な嗅覚を使って、物音一つ立てずに。どうやら、このタンスの周りを回っているらしい……。


 沙比はかすかな音一つ出ないように細心の注意を払い、ポケットに手を伸ばして駒を握りしめました。


 漏れ出そうになる息を押し殺そうとするのに反して、鼓動に従い、息が荒くなっていきます。深呼吸、深呼吸……そう言い聞かせるのが精一杯。


 獣はまだこの周りを回っています。どうやら向こうも気づいている様子でした。


 その気配が突として消えました。


 瞬間、真っ暗な視界が揺れました。地震かとも思いましたが、そんなわけはありません。どうやら、チーターはタンスごと倒すつもりのようでした。始めは小刻みだったのが、だんだん横に大きくなっていきます。


 狭い引き出しの中で沙比の身体のあちこちがぶつかり、次第に外の灯りが入り始めました。このままじっとしていても、引き出しごと投げ出されるのは時間の問題でしょう。


 意を決して上の段に指をかけ、引き出しごと自分の身体を引っ張り出しました。それと同時にもう一方の手で投げられるだけ、真上に駒を放り投げます。


 チーターは天板に乗って、身体全体でタンスを揺らしているようでした。黄色に斑の巨体が、放り投げた駒の隙間から僅かに見えました。


 沙比はすぐさま起き上がって部屋の出口へ向かって飛びました。剣と盾は遠いと判断。背後で駒の砕ける音が響き渡ります。


 廊下に出てから大階段は三歩の距離。その階段まで行かずにすぐに手摺りを飛び越えました。宙に残された長い髪が一房断ち切られ、一寸前に沙比のいた場所を、巨獣が列車のように凄まじい圧力を残して通り抜けました。


 沙比は、二階から六メートルの距離を垂直落下。ハンマーを打ち付けたような激痛が足裏全体を占めました。ひびくらいは、入っているかもしれません。


 ちらりと二階を視界に収めると、獲物を捕り損ねたチーターはそのまま正面の部屋に頭から突っ込んだようです。けれどそんなのは気休めにもならないでしょう。


 ハムスターに案内された時は地下室なんてありませんでした。でも探さないわけにも、いきません。


 とりあえず、すぐ近くのダイニングへと駆け込みます。ちょっとは沙比の臭いを紛らせることができるかもしれませんから。


 沙比は椅子を何脚か組み立て、扉の前に即席のバリケードを作りました。


 間髪入れずに扉を衝撃が襲い、激しく揺るがしました。もう来たのでしょう。チーターは何度か体当たりをして、諦めたのか衝撃はやみました。流石鉄壁の扉。この扉も他の階の家具と同じく、いくら壊そうとしてもぴくりともしないのでしょう。もちろん、のんびりしている暇などありません。


 ダイニングは、数十人は入れるだろうという広さで、真ん中に置かれた大テーブルには和洋に関係がないどころか、中華、インド、韓国、タイといった諸アジア料理から、見たことのないような料理まで、何でもごちゃ混ぜに詰め込まれていました。


 なぜかダイニングにまでチェス盤が置かれていて、一応、持てるだけ駒を回収しておきました。武器としてはこの上なく心許なかったのですが、ないよりはましでしょう。


 ダイニングに地下室らしいところはなく、キッチンも同じでした。きっと今頃、ハンターは獲物を捕らえるために静かな足取りでこの近くへ忍び寄っているはずです。沙比はキッチンから包丁を一本持ち出して、隣の部屋の敷居をくぐろうとしました。


 ハムスターに案内された時、隣には確か……。


 そうです、確か大きな歯車があったのです。木造の大きすぎる歯車。ずっと回り続けていて、あれは何だろうと思っていました。


 今思えば、あれは水車の裏側ではないでしょうか。なんで今まで忘れていたのでしょう。沙比は水車からやって来たのです。


 沙比がそこまで考え、敷居をくぐった先は果たしてその歯車がありました。


 そこで沙比の足が止まりました。そこにいたのです、猛獣が。歯車がある反対側の壁には、奇妙な機械が複雑に立ち並んでいて、その隙間を縫うように音もなく歩いていました。


 沙比は引き返すか一瞬ためらって、立ち止まりました。


 今なら、まだ向こうは気づいていません。


 沙比は右手に収まっている包丁をじっと見つめ、強く握りしめました。


 深呼吸して、大きく振りかぶり、無防備に背中をさらすチーター向けて投げつけました。


 包丁は回転しながら吸い込まれるように猛獣目がけて飛んでいき、そして、そのまま体の中へ消えました。


 刺さったのではなく、消えたのです。


 驚きに目を見張る沙比の前で、包丁はチーターの体を通り抜けていきました。そのまま壁に当たって、欠けることも、猛獣を傷つけることもなく床に落ちました。


 無傷の猛獣は、ゆっくりと沙比の方へ体を向けました。


 生きているように揺らめく炎に照らされて、鋭い牙が赤く輝きます。


 沙比が片手にいっぱいの駒を投げて屈むのと、チーターが床を蹴って跳躍するのは同時でした。


 散弾のようにチェスの駒は広がり、いくつかは逸れ、いくつかは矢のごとく飛びかかるチーターに直撃しました。


 幸いその一つが目に当たり、猛獣は呻いて、僅かに進路を逸れました。


 逸れた駒はほとんど床や壁に当たって砕けたのですが、しかし、一つだけ、天井近くの松明に当たったものがありました。


 松明はその衝撃で揺れ、炎が一瞬消えました。炎はそのまま燃え続けていましたが、屈んだ勢いで転がるように歯車の前へ移動した沙比は、その一瞬を見逃しませんでした。


 沙比は歯車に手を置いてじっと見つめました。来るときはハムスター小屋のあの回し車を見つめていたらいつの間にかこの世界にいたのです。それなら、帰る時も同じに違いありません。


 歯車の歯一枚一枚を確認するように眺めました。


 特に何も起こる様子は、ない。


 目を瞑って、それからゆっくり開いてみます。


 やはり特に何も起こる様子は、ない。


 やっぱり裏側じゃ駄目なのか……。


 そう思った瞬間、沙比はさっと身体を伏せました。沙比の頭を掠めるように猛獣の身体が通り過ぎ、そのまま歯車にぶつかりました。


 沙比は慌てて距離を取ろうとして全身で床を蹴りました。


 そしてチェス盤につまずいて派手に転びました。起き上がりかけて、代わりにチェス盤を拾い上げ、盾のように真上にかざしました。そこに間髪入れず猛獣が飛び乗りました。


 身を捩らしてチーターから離れようとするのですが、如何せん、重すぎました。


 すぐ目の前に猛獣の牙と爪がありました。ナイフよりも鋭い牙、肉を容易く切り裂く爪。誰かの声が蘇ります。


 猛獣の頭ごしに、その牙と爪を照らす松明が視界に入りました。丁度真上でした。


 灯りに気を取られていた沙比の柔らかい頬から首元にかけて、深く、紙でも裂くように容易く、獣の銀色の爪が切り裂きました。


 赤く濁った液体が宙に飛び散ります。細かい血管の一本一本が痛みに耐えきれず絶叫を上げていました。沙比がまるで経験したことのない痛みでした。学校のジャングルジムから落ちて腕を骨折した時も、これほど痛くはなかったはずです。皮膚の内側から無数の針を突き刺されているような痛みでした。


 痛みに滲む視界の中、沙比は歯を食いしばりながら、手元にあった最も大きい駒を力いっぱい投げつけました。


 チーターは顔だけをさっと引き、駒を避けました。もちろん、沙比の狙いはそれではありません。岩石のような重と積を持つ駒は狙い違わず松明に命中し、炎はそのまま猛獣の上へ落ちていきます。


 チーターは苦痛の叫びを上げながら、のたうち回りました。松明はチーターの身体から落ちるとチェス盤を燃やし始めました。沙比は慌てて火から逃げようとしましたが、チーターの重みにのしかかられていた足が思うように動きません。そのままがむしゃらに這って距離をとろうとしました。


 体中、いたるところが痛みに支配されていました。


 額のこぶは腫れ上がり、右手に巻いた黒い包帯は血に塗れています。足は二重の鈍痛で動かずに、頬からは止めどなく血が溢れています。


 沙比は自分の血で水たまりができた床の上を這い進みました。意識が朦朧として、前後さえ定かではありませんでした。


 ぼやける視界に、散乱したチェスの駒が這う行く手を阻むのが見えました。沙比は一つを掴んでどかそうとしました。今の沙比にはそれさえも一苦労でした。


 ええ、最後の綱は切れたのです。そもそも冷静に考えれば、水車は館の脱出に関係がないではありませんか。ハムスターはこの館からと言ったのです。この世界からではない。それでも水車は望みの綱でした。地下室なんて都合のいいものはないのでしょう。


 どうすればいいのか皆目見当がつかなくなった沙比は、無理して這うことが馬鹿らしくなっていました。それにこの出血では、長くはないでしょう。


 沙比は、動かしかけた手を止め、駒を見つめました。どかしたところで、もう意味はないと思いました。どうやらそれは、クイーン、らしい。まだ視界がぼやけ、よく見えません。


 けれどふと、あることに気づいて、目を凝らしました。定まった視界はどんどん明瞭になっていきます。確かに、間違いない。その駒は、かつて親友だった聡子の姿そのものでした。


 それで沙比はすべてを理解したのでした。どうしてかとっても可笑しくて、それでいてとっても悲しくて、大声で笑い、泣きたい気分になりました。けれどもそれは沙比の為すべきことを、すべて為した、その後のこと。


 チーターは激しく床や壁に身体をぶつけて火を消すのに必死でした。


 おそらく、あの程度に死にはしないでしょう。


 けれど今は時間稼ぎができればそれで十分でした。


 為さねばならないことはわかったのです。


 足が僅かに軽くなっていました。結果的に、ほんの少しだけ足を休めたことになり、それが幸いしたのでしょう。痛みはありましたが、しっかりと動く。


 血で足跡を残しながら、足を引きずって沙比は往くべき道を歩いて行きました。

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