1、沙比とハムスターと霧隠れ Ⅴ
えっと、ここどこだっけ……。
そういえば私、変な夢を見ていたような……。
ぼやけた視界には、茶色い何かが映っています。焦点が合い、それが倒れた椅子だとわかってくると、だんだん意識がはっきりしてきました。
遅れて鈍い痛みがやって来きます。だいぶ強くぶつかったらしい、沙比はおでこを摩ると、腫れ上がってこぶになっていました。
まあ、夢じゃないか。
こぶを摩りながら沙比は立ち上がりました。
窓ガラスも、椅子も、床も、傷一つありません。そのままでは、ただ椅子が倒れただけにしか見えませんでした。
一体何があったんだろう。
頭痛に顔をしかめながら、横になった椅子を持ち上げました。ずっしりと腕に伝わる質量。これでガラスが割れないはずはありません。
もう一度。今度は、慎重に、でも、できる限りの力で。
綺麗な放物線を描きながら椅子は窓ガラスにぶつかりました。やはりガラスはぴくりとも動かず、椅子も壊れることなく沙比と反対側へ落下し、そのまま動かなくなりました。
沙比は横たわる椅子をぼうっと見つめました。
そして石壁のように直立するガラス窓。
沙比は椅子を乱暴に掴み、手当たり次第にそこら中の壁や窓に向けて振り回しました。
けれどいくらやっても、椅子も、木造の壁も、ガラスの窓も、折れることもなければ、凹むことも割れることもありません。
だんだんとやり場のない無力が沙比を支配し始めました。理不尽な壁に突き当たったやり切れなさ。空気を掴もうとするときに感じる無力。それに抗うことができない自分に対する、焦りと、怒りと、失望と。
その力に流されるまま、沙比はがむしゃらにガラスを叩きました。
それはまるで、鉄の壁を叩いている気分でした。何度も何度も握り拳を振り上げました。皮膚が裂けて温かい血がとくんと流れ出しても叩き続けました。
窓を思い切り蹴り飛ばして、沙比だけが弾き飛ばされました。尻から勢いよく落ち、全身を鞭で打ったような衝撃が襲ってきました。
しかし、ガラス窓はそよ風にでも吹かれたように変わらずそこにありました。
もう自分でも訳が分からなくなり、沙比は傍に落ちていたものを力任せに殴りつけました。あのポーンです。もはや白黒判別のつかないポーン。
沙比の手に激痛が走りました。
手の平には、鋭いガラスが刺さっていました。見ると、チェスの駒は、粉々に砕けていました。
窓には傷一つありませんでした。
窓の外は、霧に覆われて真っ白でした。