1、沙比とハムスターと霧隠れ Ⅲ
「実はね、この館にはもう一匹、生き物が住んでるの」
洋館はまさにどこかの映画で見たような、古びた大豪邸といった趣でした。
玄関に入ってすぐに吹き抜けの巨大なホールと大階段が現れ、そこを中心にして数え切れないほどの部屋が屋敷中に広がっています。部屋はどこも大量の家具が置かれていて、その上内装がとても似ている上、隠し通路や不意に訪れる階段もあり、まるで迷路のようでした。
沙比とハムスターは丁度、螺旋の大階段を上がり切ったところでした。
「足が速くて、獰猛で、それなのに、しなやかなその身体は足音一つ立てずに動くことができるの。ナイフよりも鋭い牙、肉を容易く切り裂く爪が、灯火をゆらゆらと……」
もし小さい頃にこんな屋敷に住めていたら、さぞ楽しかったろうな。
部屋から部屋へ渡り歩いていた沙比は思わずそう思いました。
ハムスターの話など聞いていませんでした。
「チーターよ」
ハムスターが振り向いて前歯を光らせます。
「は? 何が?」
「宮川沙比、キミ、聞いてなかったの?」
その通り。
どんな反応を期待していたのでしょう、ハムスターは不満そうに鼻を鳴らしました。
「まあ、いいや。どうでもいいことだし」
ハムスターに案内された館は、八階までありました。
他に人らしき姿は見当たりません。
どの部屋にも淡いオレンジの灯りが点り、埃一つない床を照らしています。電気ではなく、炎でした。ロウソクのような弱い火ではなく、城の中にいるわけでもないのに、天井近くに下げられた松明で赤々と波打っています。
キッチンとダイニングには溢れるほどの料理が盛られていました。いったいこんな無人の屋敷で誰が食べるというんでしょう。幽霊でないことを祈るばかりです。
壁には様々な絵が飾られていましたが、その中で一つだけ、沙比の気になったものがありました。
兄妹でしょうか、沙比よりずっと幼く見えます。他の絵は、絵画の知識に疎い沙比でもどこかで見たことがあるようなものばかりでしたけれど、その絵は有名な画家が描いたというものではないようです。
育ちがいいと一目でわかるその二人は穏やかに笑っていて、喜びと悲しみが同居したような、不思議な表情をしていました。
「宮川沙比、このゲームにルールなんてないんだ。ルールはないけど、事実がある。まずは一つ」
もう一つ、沙比の気になったことがありました。
なぜか、どの部屋にもチェス盤が置かれていたのです。材質は木造、ガラス、大理石と様々で、大小も様々、そして置かれた場所は丁度灯りの真下にあたります。白と黒に分かれているはずの駒は、どれも罅割れ、欠けていて、黒ずんでいました。そのせいで、どれ一つとして同じものはないようです。その、形は全部違った駒が、黒という一色で統一されているのが、奇妙で、関心を惹きました。
沙比は何気なく、手近にあったガラス製のポーンをひとつ、手に取り、じっと見つめました。
大きめのジャムのビンくらいのサイズで、重量もばっちり、振れば凶器になりそうです。沙比はチェスに馴染みがありませんでしたが、それでも駒がこれほど大きいことに驚くほどでした。
それを見つめていると、ふと気づいたことがありました。
あれ? 私このポーン、どこかで見たことがあったっけ?
「私はね、チーターから逃げてるの」
吸い込まれるように駒を見ていた沙比は、ハムスターの低い声で我に返りました。
ハムスターの姿は松明の明かりに揺らめいていて、その影は大きく、小さく形を変えています。
このハムスターが怪力なのはすでに承知の通り。
この小動物でさえ、おそらく沙比では手も足も出ないことでしょう。
「チーターは私を探してる。宮川沙比、チーターがキミを見つけてどうするのかは、私は知らん。歩く人形と思うかもしれないし、気まぐれで喉元に食らいついてくるかもしれない」
つまりチーターから逃げないといけないということか。沙比はそう解釈しました。
ルールではなく、ただそうする必要があると。
「二つ、私はキミを食い殺す」
「は?」
なぜだか急に脅されました。
これは滅多にお目にかかれないシチュエーションです。ハムスターに食い殺すと脅されるなんて、アリスもびっくりでしょう。
「もちろん、何もなしに殺したりなんかしないよ。単に人間を殺したいだけならそこら辺を漁ればいい話だし。だからね、十秒」
十秒以内に脱出できなければ殺すと。馬鹿かこいつ。ここ八階なのに。
沙比がそう冷めた視線を送ると、ハムスターは悔しそうに首を振りながら、ゆっくりと部屋の中を歩き出しました。
「私ね、怒鳴り声が嫌いなんだ。あの大人たちの、いたいけな子どもたちを叱る怒鳴り声がなによりも嫌いなの。それがあんまりにも嫌いすぎるんで、とうとう大きな声がどれも嫌いになっちゃった」
一歩一歩、ハムスターは実感を踏みしめて話しているようです。
「ひどい話だよ。大声で歌いたい時もあるでしょ。大声で泣いて笑いたい時もあるでしょ。大声で叫んだりするのが何より生きがいって子もいる。そんな子らは大概狼なんだよ。それなのに、クズな大人のせいでそんな狼たちと長く居れなくなっちゃった。だから十秒なの」
ハムスターは沙比へ向き直ると、黒い瞳に一層濃い影を落としました。
「宮川沙比、キミが十秒大きな声を出し続けたその時は、私はキミを食い殺す。何をする暇も、何を感じる間も与えずに、一瞬で喉を噛み切るから」
このハムスターはきっと冗談を言わない。
短い付き合いですが、それくらいは沙比にもわかっていました。
「音はいいわけ? 大きな音は。例えば、楽器とか」
「楽器と人の声が同じに聞こえるの?」
「まあ、そういうこともあるかなって」
「残念ながら私にそんな才能、ない。とにかく、人の大きな声が駄目なの。声と音。言葉からして区別があるでしょ。ともかく、声よ、声」
つまり、声でなければ、どんな大きな音でもいいわけです。
こういうことはあらかじめしっかり確認するのに限りますからね。世間は騙すことばかり考えますから。
「この二つ目はね、逆に言えば、キミが死にたくなった時、いつでも楽に死なせてあげるってことだよ、宮川沙比」
ルールと事実。なんと線引きの難しいものでしょう。いや、ある意味簡単です。守る前提が、あるか、ないか。
「そして最後、この館を出られたその時は、キミの望みが叶う」
きっぱりと断言されました。
そして事実とまできましたか、沙比でさえわかってないことなのに。
「ねえ、チーターっていうけど、そんなの居なかったじゃない。部屋は全部見て回ったんでしょ?」
「そりゃあ、そうでしょ。チーターから逃げてるのに。見つかるわけにはいかないでしょ?」
そうは言っても、さっぱり隠れているようには見えませんが。
むしろ見つけてくださいと言わんばかりに、堂々としゃべりながら歩いています。いいんでしょうか。
「それならもうちょっと用心してもいいはずでしょ」
「そう? 用心したところで見つかる時は見つかるし、見つからない時は見つからないもんよ。事故や災害と一緒」
「それでも、何かしら準備しとくもんじゃないの? その、可能性を減らすために」
ハムスターはあからさまに眉を顰めました。なんとも表情豊かなハムスターです。
「キミも大分飼い慣らされてしまったと見えるねえ、宮川沙比」
ため息を盛大に吐いて、ハムスターは首を振りました。
このハムスター、表情豊かなだけでなく、言いたいことは隠さずに直接、沙比にぶつけてきます。なんならあの親戚たちや級友たちよりもずっと表情豊かに思えました。人前では微笑みばかりで、仮面の裏側では、陰口ばかりの生身の人間よりも。
「可能性を減らすなんて言葉は、あの豚たちの言葉でしょう? 準備? 準備がなによ。勉強、大学受験、就職、全部準備でしょ、可能性を減らすための。その準備した先になにが待ってるって? 安定した生活? 幸せな生活? ふん、嘘ね。ただみんな怖いだけじゃない。生きることに真剣に向き合わず、外れることばっかり怖がって。可能性を減らすっていうなら、その減らされた可能性は夢の可能性とか、豊かな創造力の可能性とか、生きる可能性よ。キミはそんなのにうんざりしてたはずじゃなかったの?」
「…………うん」
「なら、同じところまで墜ちてどうするの? どうしたの、賢い狼さん。キミはわかっていたはずでしょ? 大学受験、大企業への就職っていう大きな物語はもう滅んでいるって、よく知っているでしょ? 向こう十年、二十年の間にその準備はすべて無に帰るって、キミは親戚や友達から学んだんでしょう? 違う? だからここへ来たんでしょう?」
確かに。
これには、沙比も頷かないわけにはいかないのでした。
「なら構わないじゃない。チーターは現れる時に現れる。堂々としていればいい」
ハムスターの姿を、灯火が陽炎のように揺らめかせ、踊らせます。ふと、そのまま揺らいで、どこかへ消えてしまいそうな気がしました。
沙比は急に不安になって声をかけました。
「ねえ、あんた、チーターに見つかったらどうなるの?」
「さあ?」
「さあ、って……」
「きっと食われるんじゃない?」
「……そう」
「宮川沙比、死は素晴らしいものよ。それを忘れちゃ、いけない」
そう言ってハムスターは部屋を出ようとしました。
「ねえ、あんた名前は?」
「昔は私にも名付け親っていうのが勝手につけた名前があったんだけど、それはもう捨てちゃった。だから好きに呼んだらいいよ」
ハムスターは振り返ることなく答えると、そのまま隣の部屋へと消えていきました。その後ろ姿が、少し淋しそうに見えました。
沙比が一人残されると、もう物音一つしなくなりました。
さて。とりあえず……。この館から出るか。
…………そんなの簡単でしょ。
沙比は手近にあった重厚感のある椅子を大きく振り上げて、力いっぱい窓にぶつけました。窓に向かって椅子を投げつけるのは格別の爽快感がありました。自転車で急坂を思いっきり駆けていくような心地よさ、それを味わえたはずです、
椅子が窓に跳ね返って沙比の頭に強打しなければ。
鉛をひどくぶつけられたような衝撃を受けて、そのまま沙比は、しばらく気を失いました。