1、沙比とハムスターと霧隠れ Ⅰ
法事というものがあります。
ざっくりとした説明では、死者の年忌に営む仏事、ということになります。
つまり、亡くなった方の親族が、亡くなった日や年から数えて、ある決まった年月を経て集まり、その方を偲んで仏事を行うという営みなわけですが、核家族化が進み、仏事からも隔たることの多い現代では、親類が久しぶりに会する場という意味合いが強くなっているところも、あるとかないとか。
ちなみに、沙比にとっては、ただの親戚の集まりという表現が、せいぜい許容の限界でした。まあ、世の高校生にとっては概してそんなものですが、沙比の場合、どうにも根深いしがらみ、もとい怨念がかかわっていて、ええ、法事とは、子どもを殺す監獄とさえ思っていたのでした。
というのも、僧侶が念仏を読み続ける三時間、一帯はひどく厳粛な空間に支配され、子どもは退屈と苦痛を忍ばねばなりませんでした。誰も理解しない、理解できない読経の拝聴が義務づけられ、誰もその空間を壊してはいけないという暗黙の圧力が部屋の隅々にまで張り巡らされている、それが沙比の目にする法事というものでした。子どもが足をぷらぷらさせれば、隣に座る鬼婆が、黄色いふたつの閃光をその足に注ぎ、次に退屈そうな顔に注ぐ、しまいに子どもは震えながらぴしっと足を揃え、泣きそうな顔になってその三時間を過ごすのでした。しかもその読経、誰も理解しないのに、この上なく尊いもののように扱われている辺り、沙比はカルトでも見ているような恐怖さえ覚えたものです。
加えて親戚の集まりというのも、沙比にとっては、この世の下らない要素をぎっちり詰め込んだ象徴みたいなものでした。学校と同じように。
その日はまさしく、沙比のさほど遠くない親戚の、百回忌に当たる日でした。
「キミももう高校生でしょう。なんとなく、分かってるんでしょ? キミみたいなひとがこの先、どうなるのか」
それがハムスターの第一声でした。
かつてやっていたアニメそっくりの、オレンジ色のゴールデンハムスター。
最初はただ、後ろ足で立つハムスターが今にも話し出しそうに見えて、ちょっと話しかけてみただけでした。その黒くて小さな瞳が沙比の話すことをちゃんとわかってくれるような気がしたものですから。
そのすこし前、沙比はトイレに行く口実でお斎をサボる場所を探していました。その時、どこからか、からからと何かが回る乾いた音を聞いたのです。
法事の後に必ずくっついてくる金魚の糞、それが「お斎」と言われる会食です。わかりきったように子どもの口に合わない懐石料理が出され、親戚そろって親戚の話をします。
ええ、そう、懐石料理などというものは子どもの口には合わないものなのです。残せば後で、親から雷鳴の鳴るようなお怒りお叱りが待っています。
悲しい哉、親戚の話にしても、金に抜け目のない大人たちが、家の体裁と威厳を保とうと苦心する場所でしかありませんでした。金と名、その両方をいかに失わないか、常に振りまく笑顔の裏側はそんなものでした。小さい頃から、沙比はそんな空気を肌で感じてきたのです。
だから「ちょっとお手洗いに」と微笑みながら席を立ったのですけれど、母親から「早く戻ってきなさいね」と微笑みながら声をかけられました。
流石に母親にはバレバレだったようです。目が笑っていませんでしたから。
乾いた音は、どうやらお寺の裏側にある小さな納屋からするようでした。
なんとなく気になった沙比は、サボる場所を探しあぐねていたこともあって、とりあえず音のする方へ、行ってみることにしました。
忘れられたような古びた納屋で、歩くと床が軋みました。からからと、乾いた音は奧の方から聞こえてきます。
底が抜けるのを心配して、沙比は慎重に足を運びました。その甲斐なく、ずぼずぼ床は抜けました。床下にはムカデやらゴキブリやらゲジゲジやら、魑魅魍魎の類いがうじゃうじゃいることでしょう。想像するだけでぞっとしません。抜けるたんびに、もう引き返した方がいいんじゃないかと自問自答しながらも、怖いものみたさというやつでしょうか、あとちょっとくらいなら、と、足は止まりませんでした。ギャンブルと同じ構造ですね。嵌まったら、抜けられない、蟻地獄。
さて、それはともかく、埃を被った床や棚には、同じように埃を被った雑貨が粗雑に置かれていました。褪せて判別できない写真の入った、ひび割れた額縁や、ひび割れた鏡、朽ち果てた椅子やテーブル、服らしき大量の布、欠けた皿、柱時計、そして西洋風の鎧までありました。どれも見るに無残な姿でしたが、昔はさぞ高級品だったのでしょう、表面は煤けていますが、黄金の名残がどの雑貨にも窺えます。
欠けて曇った姿見に、沙比の全身がぼんやりと浮かびます。喪服用のドレスに身を包んだ、長い黒髪の、華奢な姿。一見しておとなしそうな、あるいは、拭けば消えてしまいそうな自分の姿は、欠けた鏡のなかで歪んで見えました。沙比はすぐに、鏡の前から離れました。
いったいこの納屋は、かつて、どんな人物の所有物だったのでしょう。きっと、貴族かなんかだったに違いありません。そこは貴族の名残や、その没落の跡を見ているようで、沙比の想像はささやかに膨らみました。
そして、それは納屋奥の、窓から薄い日が差す場所にありました。
錆び切って真っ赤になったゲージが、舞う塵の中に霞んでいます。その中で、手の平サイズのハムスターが回し車を駆けていました。
ゲージにはちょっと奇妙なところがありました。
まずゲージの扉が開けっ放しになっています。しかも埃が薄く積もり、誰かが触った形跡もありません。
よっぽど間抜けな飼い主なのか、それとも錆びすぎてもう閉まらないのか、どちらにせよハムスターが逃げる気配はまったくありませんでした。
昔、例のアニメに影響された沙比の一家がハムスターを飼っていたころは、その小動物は扉を開けた瞬間に脱兎の脱走を開始していたものでした。ベッドの小さな隙間から傷つけることなく引っ張り出すのが、いかに難しかったことか。
加えて餌も水もありません。しばらく供給もなかったご様子です。
それなのにとても元気そうでした。からからからから、終わりのない運動を続けています。
ハムスターは餌でもくれると思ったのか、それともただ単に疲れただけなのか、車輪を回すのを止め、ゲージの入り口に小走りで近づいてきました。
「あんた、馬鹿なんじゃないの? せっかくゲージが開いてるのに、逃げないなんて」
沙比は思わずそう声をかけていました。いつの間にか檻の前にうずくまって、自分でもまったく意識せずにそうしていました。その小さな瞳が綺麗でした。
「ほんとに馬鹿だね……。出口なんていっつもそこにあるのに……」
そうして、ハムスターが声をかけてきました。
「キミももう高校生でしょう。なんとなく、分かってるんでしょ? キミみたいなひとがこの先、どうなるのか」
最初は特になんとも思いませんでした。
アリスだってウサギがしゃべっても変だと思わなかったし、沙比は話しかけられている自覚もありませんでした。
「そりゃあ、ちょっとはね。でも、どうしようもないじゃん」
ハムスターに声をかけるなんて変な自分。
沙比は頭のどこかでそう感じていただけでした。
「大人みんな、嘘と金と世間体ばっかり。下らない大人しかいないけど、そんな大人を乗せて地球はずっと回り続けてきたんだもん。からからからから……。どうせ無くなんないし。どうせ……」
「そうだねえ、分かってるんじゃん。彼らは所詮、豚だよ、豚。食べることしか脳のない家畜。太るだけ太って、いつか死ぬその時をただなんとなく待ってるだけ。テキトーに生きながら」
限界にある人はちょっとくらいおかしなことが起こっても、気にする余裕なんてないものです。餓死寸前の人は、泥水でも構わず飲む。
沙比もまた、絶えず繰り返される日々の中で限界だったのでしょう。
「キミみたいな狼は、大概、豚たちからは嫌われるよね。家畜は馬鹿だけど数が多いし、何より身の保身だけは気にかけるから。くだらない見栄と、俗物の餌……あとそうねえ、弱者の恐怖かな。そういったもんに駆り立てられて、キミらをなんとかして潰そうとする、まあ、そういうもんよ。社会の外れ者を、彼らは、放っておけないんだから」
それでも流石に沙比は思いました。
ハムスターから話しかけられるなんて、大分おかしいんじゃない? 私の頭が。
ようやく沙比にも自分の置かれた状況が理解できたようです。
「あの手この手を使って、飼い慣らすか、そうじゃなきゃ、餓死よ、餓死。なんとかして手の内に収まるようにしたいんだって、彼らは。私はそんな風に牙を抜かれて、潰されていく狼をこれまで何人何人も見てきたんだから」
いつの間にかハムスターが熱弁を振るっていました。ご大層に、畏まった身振り手振りまで加えて、頗る活力にあふれた感情表現です。小さな前足で握り拳を作り、さも怒りに満ちている、という感じでした。
ただ端から見れば、とても滑稽です。
「あんたが話してるの? それとも私の頭がおかしいだけ?」
「何をそんなに驚くことがあるの? こんな愚かな人間だってしゃべれるんだよ? ハムスターがしゃべれない道理がどこにあるの?」
ハムスターは図々しくそう言い放ちました。その言い草、少々イラッとくるものがあります。けれど聞く方のことなど、ハムスターはとんと構いません。
「それよりキミはどうするの? 社会は所詮、キミが肌で感じてきた通りのものでしかないよ? 人のため、子どものためと言い張りながら、その実、自分のことばかりで虚構だらけ。これまでみたいに、信じる度に裏切られ、傷つくのはキミだけよ。友人、親族、恋人、理想、正義、夢、世界、すべてに裏切られる。終いには自分にさえ裏切られることになるでしょうね。そのままそんな生を送り続けるの、宮川沙比?」
ハムスターの真っ黒な瞳は、沙比の過去の何もかもを見透かしているように深淵でした。まるで吸い込まれそうなほどに。
あれ、そういえば、私、名前なんか言ったっけ?
「未来に希望なんてないない。キミみたいひとには特にね」
「…………そんなの、知ってるし」
「私はね、どっかの馬鹿な大人みたいに、『自分の意志で選べ』とか、『自分で決めろ』なんて言わない。そんなこと言うやつは、もとからありはしない責任をどっかに作っておきたい小心者か、それか思考停止した能なし、もとい脳なしだから。ただキミにその気があるなら、私に付いてくればいい」
そう言って、小さなハムスターはのっしりとした足取りでゲージへと戻っていき、回し車の中へ消えていきました。
すると、本当に消えました。ええ、ハムスターの小さな身体は車輪の中からすっぱりと消えてしまい、後には何も残っていませんでした。
「付いていくって言っても……」
ひどく困惑しながら、沙比はゲージの中を見つめて言いました。
腕一本さえ入らない回し車の中に入れ、とでも言っているんでしょうかね、あの偉そうなハムスターは。
もっとも、もうすっかりあり得ないことを目にしたものですから、何が起ころうとも、沙比はだんだん驚かなくなってきたのですけれどね。ええ、ですから、きっとなにかが起こるような気がしたんでしょう。
沙比はふと、回し車に手を伸ばしていました。その指先が触れるかいないかという頃、一瞬で沙比の姿は納屋から消えてしまいました。
いつの間にか目の前には水車がありました。昔の小屋についていたような、木造の回し車でした。ただし、その大きさは沙比の知っている比ではありませんでした。直径十メートルはあろうかという巨大な水車が、水を吐き出しながら回っていました。
そして、その水車を遙かに越える体躯をした洋館が、その後ろに聳え立っていました。
「よし。付いて来たね。宮川沙比」
さっきの一回りも二回りも大きくなったハムスターが、館の前で沙比を怪しく、その前足で手招きしていました。