表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

老人と花

作者: ましゅ

その公園には、一本の大きな桜が咲いていた。樹齢何百年も経ってそうな、それはそれは大きな樹で、その公園の名物であった。



今は春。

冬から春に季節が移り変わるにつれて暖かくなる気温に、それまで凍り付いていた全てのものものが生命を思い出したかのように活動をはじめる。草木は芽生え、花は咲き、そして虫は土から這い出ずる。土気色の世界に、色がつけられる。静寂の世界に、音が生まれる。狂おしい程の芳香が生まれる。


それはその桜も同じで。

長い冬から目覚めた桜は可憐な桃色の花びらをたくさん枝につけ、皆に春の訪れを伝えていた。

綺麗だね、と通り過ぎる人々。

誰も、その幹に座る老人の存在には目もくれていなかった。



老人にとっては、この桜を訪れることは日課の一つであった。その顔に無数の生きた証を刻んだ老人は、この桜を見ることだけが生きがいで、心の拠り所であった。毎日正午頃にやってきて、日が暮れる頃に帰る。それは、雨が降っても同じ。


「桜…私の桜や…」


老人はそう言って目を細めた。



老人には生き別れた妻がいた。

名を、櫻と言った。

その名前に見合った、可憐な乙女であった。

ふわりとして、どこかあどけない彼女。

子は残念ながらもうけることはできなかったが、二人の生活はいつも穏やかで、愛に恵まれていた。

その妻を亡くしたのは、あれは3年前。櫻は癌を患い、適切な処置を施さないままに亡くなってしまった。もっと若ければ大々的に手術をできたものの、それには歳を重ねすぎてしまっていた、というのが医者の言い分であったが、老人はいまだに納得ができない。



孤独の身となってしまった老人はある日、散歩の途中にこの桜の樹と出会った。ずっとこの街に暮らしてきたが、この花はこんなにも綺麗で惹きつけられるものだっただろうか、と訝しるほどに、強烈な魅力を見せつけられた。

その時は、しばらく桜から目が離せなかったことをよく覚えている。



あれもまた、春の日のことだった。

ひらり、と舞う一枚の桜の花びらを見ると、亡くした妻の儚い命と重ねて涙がこぼれた。



人生はなんと儚いものだろう。

人は永遠の命を望むも、それは決して叶わない。

それはこの桜とて同じ。

有限の命を、力強く生きている。

櫻も最期まで、明るく生きていた。もう呼吸もままならなくた会話もおぼつかない時にでさえも「退院したらまた水族館に行きたいわ」と笑っていた。


老人は彼女ほど強くは生きられない。

喪失の傷を、癒せない。



だからか老人は、桜の樹と妻の姿を、いつしか重ねて見るようになっていた。桜の樹の側にいると、櫻と寄り添っているような錯覚を覚えるようになっていた。



今日も老人は桜の樹の麓に座っていた。

「今日は少し肌寒いな、櫻」

一つ呟く。

「あちらでは一人で寂しくないか? 学友には逢えたのかい?」

呟くその横顔を、そよ風が撫でる。

老人は見上げる。

「…連絡の一つくらい、欲しいものだな」





季節は巡る。


満開の桜はやがて散り、そこから緑葉が萌え出ずる。それもいずれは茶に枯れ、そして地面へと落ちる。冬になれば、そこには寂しい枯れ木が一本。でも、次の春を待ち侘び、花を咲かせる準備を、ひっそりとする。


しかしその年、桜の花は咲かなかった。

病気にかかってしまったと聞く。

よく公園で顔を合わせる主婦がそう、教えてくれた。

「桜の樹は、このままだと腐ってしまうんじゃないかしら」

そう、言った。


老人は長年生きてきて、植物も病気を患うことを初めて知った。病気になると、場合によっては死んでしまう、つまり、サイクルを繰り返さなくなるそうだ。



色々な人が調査にやってきた。

そして誰もが、この樹はもう駄目だ、と宣言した。

老人は叫んだ。

ありったけの思いを、全ての人にぶつけた。

できる限りの処置を施すよう、求めた。

桜を、櫻と同じ境遇に置きたくなかった。

けれども皆、そんな必死な姿を疎ましい目で見やる。

叫んでも懇願しても、軽くあしらわれる。

そして、こう通告するのだ。


「もう、手遅れですよ」と。



桜の樹はある日突然、消えた。



あんなに大きくて、あんなに存在感のあった樹が消えた跡は、虚無に覆われていた。

自然の中の、不自然。

静寂すぎる静寂が、危険信号を発しているようだ。



老人は、ただただ絶句した。

胸が、悲しみで潰されそうだ。

桜も、櫻も、亡くしてしまった。

私にはあと、何が残されているのだろう?

「…さ」

本当は「さくら」と言うつもりだった。

しかし、口を一度割ると、止め処なく涙が溢れでてしまった。

老人の涙など、みっともないだろう。

けれども、そんな理性は微塵も残っていなかった。

自分の感情のやり場に精一杯だった。


声をあげて泣いた。

この声は、天まで届くのだろうか?

自分という存在を、憐れんで、そして救って欲しい。

彼女の胸の中で、安らぎを覚えたい。

彼女の胸の中で、ぬくぬくと眠りたい。

そして時折、甘酸っぱいような接吻をしたい。



それだけなのに。

ただ、それだけなのに。

人生とは、なんて儚いものなのだろう。


昔、中学生の頃に部活動で書いた小説を書きなおしてみました。あの時は字数制限とかあって満足いくまで書けなかったし、そもそも若くてまだ内容が幼かったりしましたが(まあそれは今もあんまり変わらないような気もします笑)


昔の作品は、ここまで命については書いてませんでした。年老いた証拠なのかもしれません笑



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ