天命の二人
ひゃっはー、13kb……!
イミニクスに対抗する準備は、すでにカイラの指示により整えられていた。
屋敷の裏手では、念動石を利用した通信施設の設置が進められ、騎兵たちは慣れた手つきで各部隊との連携を確認している。風に舞う砂塵と、時おり遠くから聞こえる爆発音が、戦場の緊迫感を否応なく際立たせていた。
ナレッシュは、自らの部隊の自己紹介を終えた騎兵たちに軽く頷き、指揮所で自分を担当する男性――声のよく通る中年の士官――とのやり取りを終えると、静かに振り返った。背後には、副官グルゾウムの姿があった。
「では……これより、イミニクス討伐の……ために……動き出す」
言葉は固く、だがその内に炎を秘めている。だがその時、控えていたグルゾウムが一歩進み出た。
「いえ、少々お待ち下さい、ナレッシュ様」
四十二歳、渋みのある顔立ちに整えた髪型。年齢より若く見える彼の姿は、並んで歩けば女性たちが振り返るほどだった。
「現在、イミニクスは領主邸の地下から攻め込んできました」
「うん……」
ナレッシュは短く相槌を打つ。そのまなざしは、屋敷の地面へと移る。土埃が舞う中に、地面が不自然に盛り上がった箇所があり、そこにはまるで蟻の巣のような穴が口を開けていた。
「で、あるならば。この掘られた穴を通れば、相手の中枢に向かうことも可能なのではないでしょうか?」
その提案に、ナレッシュは黙して考える。沈黙の間にも、彼の瞳は鋭くその穴を見据えていた。
――確かに、嫌な匂いがする。
蟻型の小型イミニクス。無数の足音。地を掘る音。
この奥に何かがある。それは勘でも、直感でもなく、氷結機士として積み重ねた経験が告げていた。
「……よし。決死隊を選出。この中を探れ。人選は任せる。ただし、無理はしないようにな」
「はっ!」
グルゾウムが敬礼する。彼の背後では、すでに数名の騎兵がこの指示を聞き、準備を始めていた。
「残りは……俺に付いて来い。俺は勇者ではないから……お前らに生き残れ、と命じることは……不可能であるが……」
その言葉に、騎兵のひとりが前に出る。風に乱れた髪を直しながら、力強く言い放った。
「いいえ、ナレッシュ殿。我ら、この百年戦争の時代、軍人として生きるからには民を守るために死ぬ覚悟も出来ております!」
「……そう、か」
ナレッシュの表情がやや緩む。だが、その瞳は燃えている。
「ならば、これ以上何も言うまい。我が《氷結》はお前たちの隣にいる……俺は、盾となるお前らの命にかけて……必ずや、この街を襲うイミニクスの脅威を排除してみせよう……」
「それでこそ、ナレッシュ様!!!」
「よし……ならば、出陣する! 皆の物、勇気を心に持て! 氷結機士グレイサードは、必ずやお前たちの力になるぞ……!」
「はっ! 我ら『氷結』に従いし軍人、コキュートスの奥底にイミニクスを封じ込めるため、力を尽くしましょうぞ!」
ナレッシュの激励に、騎兵たちが大声で叫ぶ。
ちなみにコキュートスとはギリシャ神話における冥府を流れる川の名前で、ダンテ・アリギエーリが14世紀に製作した「神曲」に由来する、氷結地獄の名前である。
過去、旅人が諸侯を放浪した際、『神曲』をトホ領に持ち帰り、大ベストセラーになったことがあったという。
以後、神曲はトホ領住人が必ず読むほどの必需品となり、トホ領で好まれる図書の一つとなっていた。
「では、行くぞ!!!」
「おおおっ!!!」
周囲の避難民たちの歓声を受け――
ナレッシュは部下たちを引き連れ、出発した。
目指すは居場所も分からぬ大型イミニクス。果たして、その影を掴むことが出来るのであろうか……
この光景を守るために――この命がある。
そうして、準備は整った。
グレイサードの胸部ハッチが音を立てて閉じる。内部に座るナレッシュは、コクピットの水晶をぎゅっと握りしめ、深く息を吸った。
視界を包むのは、淡い青で統一された内部パネルと、前方モニターに映る戦場の映像。屋敷の裏手には、すでに選抜された決死隊が蟻穴へと降下する準備を整え、背を向ける彼の姿を見守っていた。
「……よし、全軍、出陣!」
ナレッシュの号令と同時に、グレイサードの脚部が地を叩く。氷の加速ユニットが唸りを上げ、蒸気のような冷気が四方に噴き出す。
重たい脚音が一歩、また一歩と大地を鳴らし、鋼の巨体が動き出すたびに、周囲の騎兵たちがその後に続いた。
吹き抜ける風は、夕方の気配をまとって肌を撫でた。陽光が差し込む石造りの街並みは、破壊された瓦礫と混じり合い、どこか異様な美しさを漂わせている。
その中を、トホ領騎兵たちが進軍する。
民の声援が、その背を押すように響く。
「氷結のナレッシュ様だ!」
「今度こそ、我らの街を取り戻してくれるぞ!」
声は熱を帯び、希望に似た憧れがにじんでいた。
けれどナレッシュは、そのすべてを背に背負ってなお、表情を硬く保っていた。
この戦いは、終わりではない。始まりなのだ。
彼の隣を走るのは、若い騎兵たち。どの顔にも迷いはない。だが、それでも彼らは知っている――自分たちは「生きて帰れる保証のない任務」に就いていることを。
(それでも……この命を捧げる覚悟がある)
ナレッシュの胸中には、迷いがあった。
自分は彼らに、生きろと命じられない。
勇者ではない。絶対の加護を持つ存在でもない。
だが――
「俺が、氷壁となる」
そのつぶやきと共に、グレイサードの機体から白い粒子が弾ける。冷気の波動。
空気が澄んでいく感覚に、周囲の兵たちが息を飲んだ。
それは、凍てつく守護の誓い。
「我ら、『氷結』の名を冠す部隊、トホ領の誇りを背負いし者――!」
ナレッシュの声が、魔法拡声器を通じて周囲に響く。
「コキュートスの氷底に、イミニクスの骸を沈めようぞ!!」
「おおおおおっ!!」
兵たちの声が轟き、空が震える。
夕暮れの太陽が彼らの背を染め、地平の先へと伸びる影は、まるで彼らの未来を示すようだった。
それが希望となるのか、血の果てとなるのかは、まだ誰にもわからない。
ただひとつ確かなのは――
ナレッシュは前を向き、戦場へと進む。
騎兵たちは、彼を信じてその後を追う。
そして、グレイサードの歩む先には――
いまだ姿を見せぬ、巨大イミニクスの気配が、確かに待ち受けていた。
騎兵たちの足音と装備の軋む音が、ひどく重苦しく聞こえる。
鮫介は屋敷の外に広がる石畳の広場に立ち、深く息を吐いた。
そこには、地面を割って口を開けた『巨大な巣穴』がぽっかりと開いていた。黒ずみ、蠢く縁には乾いた泥と血のような粘液が混じり合い、まるで地そのものが腐っているかのようだ。
穴の奥は見えない。
だが、ほんのかすかに、空気の流れが感じられた。風ではない、熱のような、瘴気のような何か。まるで巨大な生き物の口腔に立たされているような錯覚すら覚える。
それは、奇しくも。ナレッシュたちと、同じタイミングの出来事であった。
「……この奥に、何があるのか。調べてみる必要があるな」
独り言のように呟きながら、鮫介は通信を繋げた女性――指揮所の担当者である年配の女性兵士に呼びかけた。
彼女は相変わらずハスキーな声で、おそらく同僚たちに指示を飛ばしている。冷静で的確。だが、やや耳が遠いのか、鮫介の声は二度呼びかけてようやく届いた。
「副官。捜索隊の準備を。小隊単位で、時間ごとに状況を報告させてください。あと……生還を前提に」
『はっ……了解、勇者殿。すぐに編成いたします』
すでに一度決死隊を編成しようとしていた副官――二十代後半の女性――の指示が、ほんのわずかに軌道修正される。
鮫介の言葉に、兵たちの顔に少しだけ安堵が広がったのを、彼は見逃さなかった。
それが彼の役割なのだ。
「あと……君たちが進んだ方向、分岐、上下の傾斜――できるだけ正確に記録を。もし迷ったり、通信が切れそうなら、そこで一旦止まって」
『……ですが、勇者様』
「万が一の場合は、僕が腕だけを穴に突っ込んで引き上げる。テレポート、覚えてるよね?」
『……流石、勇者様!!』
ひとりの若い兵士が声を上げた。
すると、他の騎兵たちもそれに続いて拳を握る。
『俺たちの命、最後まで捨て駒じゃないと……ありがたいお言葉!』
「よし、なら頼んだよ。生きて帰って、僕に報告してくれ」
『了解ッ!! オトナシ部隊、出撃!!』
「ねぇ、その部隊名、やめない?」
がっくりと肩を落とし、鮫介は苦笑した。
だが、すぐに表情を引き締める。彼らが意気揚々とオトナシを名乗ってくれているのなら、それでいい。
彼はふと、自身の背後を見やる。
避難民たちが遠巻きに様子を見守っていた。老若男女、震えるような目でこの騒ぎを見つめるその中には、子どももいた。汚れたぬいぐるみを抱えた少女と、その腕を握る母親。
守らなければならないものが、ここにはある。
(……僕に、できるか?)
ほんの一瞬、不安が胸をよぎる。
だが、すぐにその思考を押し返す。
自分は『勇者』と呼ばれた。
たとえ後天的で、予期せぬ召喚であったとしても――その名を否定するつもりはない。
「よし……こちらも周辺の索敵を開始する。小隊は屋敷を中心に半径一〇〇メートル範囲を。避難民の安全確保、孤立者の救出、不審物の調査、優先順位はその順で!」
『了解ッ!!』
「避難民の皆さんは、うちの近衛兵部隊が到着したら、すぐ指揮所にお知らせください。では、小隊、作戦行動開始!」
イミニクスの巣穴を囲むように、騎兵たちが展開していく。
彼らの足取りには、もはや迷いはなかった。
鮫介は小さく唾を飲む。
彼の肩には、今この街の命運が乗っている。
覚悟はある。
だけど、本音を言えば――怖くないわけがない。
それでも、進むしかない。
(僕が、目を逸らしたら……誰がこの街を守る?)
その問いに、答える者はいない。
だからこそ、彼は背筋を伸ばし、深く息を吸った。
「……行こう」
静かに、鮫介は歩き出した。
奇しく、奇しくも。
二人の通信は、ほぼ同時刻に行われた。
そして運命とは、もつれ、入り組み、絡み合うもの。
だから、そう。
この連絡が二人の間に同時に聞こえたことも、また、天運だったのだ。
『――我、イミニクス発見! 凄い数です! そ、それに、あれは……大型イミニクス!?』