氷結機士の目覚め
「そうそう、そこだ。そこをあーすると、そーなって……」
「まぁ。凄いわ、シュロック」
「ふふ。シュロックさんの考えるゲームはやっぱり面白いわね、ナレッシュ?」
「……そう、だね……」
――おかしい。
何がおかしいのかずばり指摘は出来ないけれど、この状況は明らかにおかしい、とナレッシュは思い始めていた。
シュロックの説明は、こんなにあやふやだっただろうか。彼は短気で怒りっぽいところもあるが、説明は馬鹿なナレッシュでも理解出来るくらい明瞭だった。
イルカは、そんなナレッシュに微笑むだけだ。彼がおかしな言動をしていたら、的確にツッコミを入れるのが彼女の役割だったはずだ。
そして……
「ん? どうしたのかしら、ナレッシュ?」
カイラ。君だよ。
と、ナレッシュは内心でため息を吐き出す。
この中で一番言動がおかしいのは、カイラだ。
だって、カイラが僕――俺に向かって、こんな優しい言動などしたことなど一度もない。
いつだって、カイラは……
言動は高々しく、常に上から目線で……ああ、俺の部屋があんなに汚いことに口出しする人物だった。
微笑んで、無視をするような人では、決して無かったのだ。
ナレッシュは確信する。
彼は、彼女との結婚を決して後悔していない。
例え、貴族としての暮らしを強要されたとしても。
例え、大事にしていた玩具を捨てられたとしても。
例え、日頃から冷たい言葉を口にされていたとしても。
だって。
何故なら、俺は――
「う、うわ……イミニクス!?」
「えっ!?」
ゴードンは樹甲店の店員の慌てた声を聞き、彼の向けた方向に視線を向ける。
そこには、巨大な黒い影があった。
イミニクス。
それも、一匹だけではない。
見たこともない種類の小型サイズのイミニクスが、見ただけで十匹。
心臓を掴まれる思いだった。
だって、イミニクスの目的は決まっている。
人類の殺害。
宇宙からやってきたというイミニクスは、通常の生物の行動力学など通用しない。
ただ、殺す。
絶対に、殺す。
その意思のもと、どれだけ大怪我しようと、どれほどの妨害を受けようと、必ず人類の抹殺を成功させる大いなる殺戮の化身。
世界各地の神話における「悪魔」の姿そのものと思しき、黒き獣。
そんなイミニクスが、眼前に姿を現していたのだ。
「ひっ……ぐっ!?」
「な、なんだ……ひ、膝が笑っちまって……う、動けねえ……!」
イミニクスの殺意溢れる瞳に射竦められたのか、樹甲店の若い店員たちが動かない自分の足に驚愕している。
無理もない、とゴードンは思う。
イミニクスの放つ殺意の視線は、それを知らないものに突き刺さる猛毒の矢だ。
この黒獣の脅威を知っているムー大陸の人々は勿論、こちらの事情を何も知らないコースケ様でさえ、思考に空白が生まれたのだ。
これを突破することこそ、最前線で生きる兵士にとって最初の関門だと言われている。まぁ、ここにいるのは兵士たちではないが……
「……ギギィ!」
「ひぃ!? 瞳が!?」
「攻撃色になった! やつら、かかってくるつもりだぞ!?」
イミニクスの人間と同じく黒い瞳に白目が覆う色合いが、攻撃色を示す赤目へと変化し、いよいよもって樹甲店の店員たちの悲鳴が激しくなる。
万事休すか。
と、ゴードンも下品と知りながらも爪を噛んで何か無いかと視線を巡らした。
……無い!!!
悔しさに歯噛みするが、そう結論付けるしかない。
頼みの綱である機体は、ここから離れた場所にある駐機所にしかない。
虹の七機士たるクロノウス、そしてグレイサードは未だ目覚める気配もない。シュロックの乗るバイザードも同様だ。
そして、フィオーネを筆頭に、他の虹の七機士の応援がすぐさま現れて救助してくれるのを祈るのは、少々幸運が過ぎるだろう。
結局のところ――
助かるためには、己の知恵を搾り切って、この状況を打破するしか、ない。
「……みんな、退避! 動ける者は動けない者に肩を貸せ! 全員生きて、この場を切り抜けるぞ!!!」
「お……おぉ!?」
ゴードンの腹の底からの号令に、各人が慌てて動き出す。
怯えた者を運び出す者。手に持っている殺傷可能な工具をイミニクスへと向けながら後退する者。冷静な視線で、イミニクスの動きを観察する者。
――誰一人として、殺すな。
それは、以前に受けた命令。しかしながら、この命令の解除をゴードンは未だ受けた覚えがない。
勿論、それは兵士に言った言葉であって、執事のゴードンは無関係なのかもしれないが……
それでも。
彼の目指す『理想』に殉じたいと、そう思ってしまったから。
そう、ゴードンが生き延びるために必至に策を巡らせていると……
「ギャウッ!!?」
突然。眼の前まで迫ってきていたイミニクスたちが、地面に叩き伏せられた。
まるで――そう。重力に押し潰されたかのように。
「コ……コースケ様!?」
上から押しつぶす重力波は、間違いなく先の戦いの後でフィオーネ様が直々に語っていた、重力領域。
ゴードンは先程から動かないクロノウスへと視線を向ける。
間違いなく、気絶している。
気絶している――と、いうのに!
ああ、なんという矜持だろうか。彼の自らは勇者であるというプライドが、こんな場面でも機能している。
彼は――勇者は――コースケ様は。
例え気絶している身であろうとも、誰かが死なないように戦ってくださるのだ!!!
ゴードンは思わず感涙で咽び泣きそうだったが、既のところで思いとどまる。
――せっかくコースケ様が作ってくださったチャンスだ。
――活かさないと、未だ気絶したままのコースケ様に申し訳が立たない!
「今のうちだ! 全員、後退!! 敵の勢力圏より離脱する!!!」
「ぐっ……起きろ、鮫介……!」
――当然、鮫介が気絶したまま戦っていた、なんてことはなく。
種を明かせば至極簡単、クロノウスを動かしていたのは鮫介ではなく、クロノウス自身、フェグラー氏(仮)だっただけの話だ。
ただし、彼はいつもの幻影姿ではなく、その姿は明滅している。
鮫介の両手が、彼の要たるマニューバ・クリスタルから離れているからだ。
人間の心臓に血を送らないと動かないのと同様に、彼もまた、操縦者の念動力を食べないと活動出来ない。
そのため、先程までは省エネモードで様子を見ていたのだが――周囲にいる人間たちが殺されそうになったとき、思わず活動してしまった。
何故ならば、コースケとのやり取りを思い出したから。
――誰一人として、殺すな。
そう、コースケは唱えていた。
ならば。彼の操縦する、時空機士として。
彼の周囲の人々に、手を差し伸ばさなければ……嘘だろう!?
と、彼は最近覚えた重力領域を貼り、鮫介のようにみんなを守ってみたのだが――
――想像以上に、消費が激しい。
残り少ない活動力が、どんどんと浪費させられていく。
クロノウスの活動終了時刻まで、残り――
(あぁ……ヤバい……消える……)
そして、消耗が限界に達したフェグラー氏(仮)は意識に帳を降ろされた。
――次に目覚めたとき。
鮫介たちと無事に再開出来るのであろうか。
それとも、絶賛大ピンチの状況が続いているのだろうか。
――あるいは、もう二度と目覚めることはないのだろうか。
様々な不安を抱えながら、フェグラー氏(仮)の意識はシャットダウンされた。
「キェェェェッ!!!」
「ゴォォッ!!! ガァッ!!!」
そのイミニクスたちは、己の頭上から降下す重力波が失われたことに気付き、歓喜の叫び声を上げていた。
何が起こったのかは、皆目検討もつかない。
しかし、この身の自由を奪う鎖が解き放たれたのだとしたら、即座に眼前の標的の命を奪わなければならぬ。
イミニクスたちはそういった人権というものをまるで無視した動きで人類に接近。首を刈り取る大鎌を作り出し、それを振り上げた。
イミニクスたちには人間の常識からかけ離れた知性がある。
そして、その知性の至る結論はただ一つ、「人類即滅ぶべし」。
さぁ、人類よ、楽になるがいい。
そうして、先頭のイミニクスは生やした大鎌を振り下ろし――
ざぐん、という、肉の飛び散る音を聞いた。
おかしい、とそのイミニクスは疑問を持った。
何故。
何故。
何故、自分の体が、バラバラに……
イミニクスの振り上げた大鎌が、眼前に迫る。
もう駄目だ、とエルザフィアは、反射的に目を閉じてしまった。
それはいけない。
自分もまた、虹の七機士たる氷結機士グレイサードに選ばれた小神官(虹の七機士に選ばれて、尚且つ前任者が生存しているため搭乗出来ない人間をこう呼ぶ)。
せめて、戦えないまでも。眼前のイミニクスに立ち向かえる存在にならなければ。
顔にびしゃびしゃと、何か液体が飛び散る。イミニクスの吐き出した涎だろうか。うぇぇ、と目を開く勇気が薄れる。
でも。
だけども。
義兄さんは、例え死の寸前だとしても、きっと目の前に迫るイミニクスを睨みつけているに違いない。
勇者であるコースケ様も、その慈悲深い眼差しで、イミニクスを見上げていたはずなのだ。
だから。私もそうしないと。
ぐっ、と瞼に力を込める。勇者様、どうか勇気を私に。少しずつ、瞼が開く。もうちょっと、後ちょっと……
そして。
視界に光を取り戻したエルザフィアが見たものは――
「……グレイサード!?」
先程まで、そこで倒れていたはずのグレイサードが起き上がり。
大鎌を振り上げたイミニクスを、手に持った薙刀で真っ二つにした姿だった――
「……気持ち、悪い。一体、何が……」
目を覚ましたとき。ナレッシュは吐き気でいっぱいの自分にまず驚いた。
口から吐瀉物を吐き出したいのを堪えつつ、自分の最近の記憶を検索する。
……確か、シュロックと戦闘していて。そして、彼の放つ聖剣が……
――違う、聖剣ではない。あれは、何かしらの花粉のようなものを吐き出していた。シュロックが、聖剣と呼びつつそんなものを出すロジックを持つはずがない。
ならば、あれはなんだったのだろうか?
と、考えるより早く、視界に小型のイミニクス? のような黒獣が、大鎌を振り上げたのが見て取れた。
――思考は、後だ。
――今は、行動あるのみ。
瞬時にそう判断したナレッシュは、腹筋に力を込めて起き上がり、右手の薙刀を振るう。一閃の後、眼前のイミニクスは両断されていた。
「お……おぉぉぉぉ!!! グレイサードが復活したぁ!」
「流石ナレッシュ様! テンチョーの幼馴染だけある!!」
「グレイサードばんざーい! 残る敵もお願いしますよ!!!」
「……っ……あまり、大声を……出すな。残る……イミニクスの……殲滅だな。了解……した」
再び吐き気が込み上げ、片手で口元を抑える。
状態は最悪だった。
過去、ここまで最悪の健康状態でグレイサードに乗ったことがあっただろうか?
いや、しかし。俺の状態など、どうでもいい。
無辜の人々が、殺害されようとしている。
ならば、それを止めるのが俺の使命。
そう判断したナレッシュは、誰かが止める間もなく行動を開始していた。
薙刀を右に左に振り回し、回転させての連続斬撃。
その間もずんずんと前進するため、左右からどんどんと血飛沫が待っている。薙刀が届かない位置の敵には、手首の射出口から尖氷弾を射出。イミニクスたちの顔面は、容赦なく穴だらけなっていった。
「……よし。これで、大半は潰した……か?」
「油断しないでください! まだ生き残っているイミニクスもいます!」
「エルザフィア、俺は油断をしたつもりは……ない。俺が、かつて……学んだ師匠……グンナルさんも言っていた。これは……剣道における……残心、というやつだ」
ナレッシュの言葉が終わらぬまま、生き残っていたイミニクスたちが牙を向いて飛びかかるが――
決して油断をしていなかったナレッシュは、半歩引いて攻撃を避け、そのまま薙刀を逆風に捻り、イミニクスを寸断した。
まさに、鬼神。
かつて『天才児』と呼ばれた、ナレッシュの実力を証明する戦いだった。
「す……すげぇ! イミニクスをやっちまいやがった!」
「ナレッシュさーん! 流石でーす!」
「新種のイミニクスといえど、ナレッシュの手にかかれば一捻り、ですか」
「新種? ふむ……」
イルカの言葉に言われて初めて気付き、ナレッシュは己が切り刻んだイミニクスの死骸たちをしげしげと見て渡る。
確かに。そのイミニクスたちは小型イミニクスと体長が同じなれど、その全体像は黒き獣たる通常の小型イミニクスよりも、蟻に似ていた。
これは、一体……?
ナレッシュは振り返ってイルカを見るが、イルカは首を横に降るだけだ。諦めて、ナレッシュもまた、小さく嘆息する。
――考えるのは、苦手だ。
後は、試行錯誤するのは学者先生たちの話だ。
俺は、正直どうでもいい。
小型イミニクスが進化した形であっても、斬れる、と確信した今ならば。
負ける気なんて、一切しないのだから。
「……俺は、このまま街中に出る。出会ったイミニクスは、片っ端から斬り伏せる」
「あ! ちょ、ちょっとお待ちを、ナレッシュ様!」
そう言って飛び出したのは、オトナシ近衛兵団の一人、フレミアだ。
フレミアはほぼ土下座のような形で、付してナレッシュに願い奉る。
「街のほうに出るならば! どうかその前に、門より前方二キロの地点で戦っている、我がオトナシ近衛部隊の団員、スビビラビとデイルハッドを助けていただきたい! 守護兵士と罠兵士しかおらず、危険なのだ!」
「……ふむ。それは……相分かった。どうせ街中に出る線上、その二人が生存していたらならば、我が裁量で……助ける……としよう」
「あ……ありがとう、ございます……っ!」
フレミアは地面に擦り付けるほど首を下げて土下座し、ナレッシュへの敬意を表す。
土下座というのも、日本から流入した文化だ。その意味合いは長い時間が経過することで多少の変化はあったが、「相手への詫びを示す」「相手への最上の敬意の形」という点では変わっていない。
「ん。そんなに……頭を下げなくて……いい。礼を貰うならば……お前の同僚を助けた……その時、だ」
ナレッシュは薙刀を担ぎ直す。
ナレッシュはよく妻に、お前の話には毎回一言足りないと文句を言われていた。
自分では全然そんな気は一切無かったのだが、妻がそう言うのならばそうなのであろう。
だから、ナレッシュは出来る限り、自らが起こす行動を宣言して回っている。そうして納得されるならば、それで良い。駄目なことなら、きっと誰かが文句を言ってくれるだろう。そう信じて。
実際は虹の七機士の大神官というナレッシュに文句をつけられる人間など指で数えられるほどしかいないわけだが、それは兎も角。
「出陣する! 氷結機士グレイサード、出るぞ!!!」
右腕を伸ばし、叫ぶ。お決まりの台詞だから、悩んだり噛むこともない。
そうして前進していくグレイサードと道案内のフレミアを横目で見ながら、今の今まで呆けて押し黙っていたスーは、グレイサードの背中を見つめてぽつりと漏らす。
「……格好良いわね。今度、鮫介にもやらせようかしら、あれ。そのための台詞を考えておかないと……」
スーがそんなことを考えていることなど露知らず。
鮫介は、自分を好いてくれているらしい金髪で巨乳な少女と、相変わらずおしゃべりを続けていた。
何故か、彼女とは話しやすい。
それはあるいは、何者かの意思によって話しやすいことにされている、のかもしれないが……
今の鮫介には、どうでもいいことであった。
「そうなんですか。ここに至るまでも、ずいぶんお辛い経験をなさったようで」
「まぁ……ね。でも、辛くはあったけど、苦しくはなかった。元の日本の生活より、ここの環境は充実しているからね」
「噂に聞く、平行世界の日本ですね? その話は是非とも聞きたいのじゃ……ごほん、聞きたいですわ! イミニクスもいない、豊かな生活だったんでしょう?」
「そうだね。人々の生活は豊かだったけど、心は貧しくなっていた感じかな……一九四五年に戦争に負けた日本は、その後の戦争特需を利用して敗戦国とは思えない復興を遂げたんだけど、僕の暮らしていた田舎の島はそんな都会の移り変わりはまったく無縁の、寂れた町並みが続いていたよ。雲名島っていうんだけどね。僕の済んでいる新潟には佐渡金山っていう有名な黄金が採掘出来る山を持つ佐渡ヶ島って島があるんだけど、雲名島はその佐渡ヶ島の双子島って呼ばれていてね。風景も似たようなものだけど、ただ一つ……金山が無かった。だから佐渡ヶ島が江戸……昔の日本の行政首都、ムー大陸でいう王領みたいなものかな……の直轄地になったときも、一緒に扱われて同じく直轄地扱いになったものの、その扱いは軽かった。今では「市」を名乗れる佐渡ヶ島と違い、ギリギリ「町」を名乗っているだけの寒村さ」
「……では、コースケ様は農民の出身なのですか?」
「いや、こんな田舎でも遊べる場所、働ける施設もあってな。別に農民や漁師ばかりが済んでいるわけじゃない。それに僕の両親も父親がサラリーマン、母親が公務員だったよ。まぁ、父さんは売れない土産物屋で働いていただけだけどね。遠い親戚は普通に農家やってたし」
「そうなのですか」
そこで区切った少女は、やがて痛ましい表情を浮かべ、
「でも、田舎暮らしとなると……ご近所付き合いもあったと思います。コースケ様は、突然この世界に召喚されて、アルキウスさんを恨んだりしたのでは……?」
「……アルキウスさんの話、したっけ?」
鮫介の疑問の声。少女はぎくりと肩を震わせるが、鮫介はそれに気付いた様子もなく、小さく吐息を吐き出す。
「まぁいいや……いや、アルキウスさんには感謝しかないよ。異世界に来た僕を勇者と認定してくれて、住む場所や部下たちまで用意してくれて。僕の世界で流行していた小説だと、こういう世界に転移したとき、酷い目に遭う追放系……あ、いや、そういうお話も読んでいたからね。それと比べたら、僕の待遇は天国みたいなものさ」
「そう……ですか。安心……しました。コースケ様が、この世界を恨んでいなくて」
「恨むだなんて! そんなことあるものか。僕の世界には、あー……チート……ええと、自分に都合の良い幸運に見舞われる奴が側にいましたから。旭響太郎という名の、幼馴染なんですけどね」
「キョータローさん」
少女の言葉には、何かしら硬い部分があった。
「その方が、何か貴方に……?」
「あいつは、何かあるたびに、いちいち僕を巻き込むんです。僕としても、幼馴染が事件に巻き込まれるのを見て見ぬ振りは出来ないし、渦中に飛び込むしかなかった。そうして色々あるうちに、悟ったんです。あいつは、世界の「主人公」だって」
「……はぁ。世界、の?」
「ええ。もしも僕の世界が神の定めた戯曲であるならば、彼はスポットライトを浴びる主人公で、僕は端役でしかなかった。そんな光景を、あいつのすぐ側で見ることしか出来なかった。知っていますか? 僕の世界の女性は、あいつと関わった人限定ですが、みんな……本当にみんな、あいつに惚れたんですよ。お婆さんや主婦連中、まだ幼い子供も含めてね。それは、男だって例外じゃない。本当の意味でも好意かは分からないけど、男たちも皆、あいつの信奉者になっていった。僕はそんなあいつに負けまいと、努力だけは続けていたのですが……ある日突然、疲れてしまいましてね」
「疲れた」
「ええ。いつのころだったか忘れましたが……もう、あいつと張り合うのにも疲労しまして。その後がめっきり、灰色の学園生活って感じでしたね。そうして僕がパソ……ええと、一人で遊ぼうとすると、その幼馴染が変わらず巻き込んでくるわけです。ほっとくとあいつ、どんどん無茶するから。それを抑えるためにも、僕は重い腰を上げて出張らざるを得なくて。スポットライトの中心で輝くあいつを否応なく見るはめになるんです。今はアルキウスさんに召喚されて、ラッキーとしか思えません」
ははは、と鮫介は屈託無く笑う。
本当に、前の世界での生活は酷かった。親の愛ですら、親友に向けられる日々。そしてそれを誰もが当然だと思い、疑問にも思わない生活。
一時期「自殺」を本気で考えるほど、あの日々は地獄であった。それを考えれば、響太郎のいないこの世界への召喚は、なんという幸運の星だっただろうか!
鮫介は真実、そう思っていた。そして少女は、何故かほっとした表情で、鮫介の笑顔を覗き見る。
「それなら……良かったのじ……良かったです。こうしてムー大陸に召喚されたからこそ、私もコースケさんと出会うことが出来たの……出来ましたし」
「……? あぁうん、僕も君に会えて幸福だったよ」
にこり、と破顔。
その鮫介の言葉と彼の笑顔を前にして、少女は頬を染めて俯いてしまう。
「……もぅ。それは反則じゃろう……」
「え?」
「あっ! いや、その……こ、紅茶が冷めてしまいましたね! 新しいのをお持ちしますわ!」
そう言い残し、少女は慌てたようにどこかけ去ってしまう。
静寂。
ふぅ、と鮫介は背もたれに寄りかかり、ため息を一つ。
「……少女、少女か。何故、僕はあの少女の名前を思い出せない……?」
いや、それ以外にも。
鮫介は、紅茶を運んできたシルバートレイに映る、自分の顔をしっかりと見ようとする。
……あやふやだ。
そこには、あれから数年が経過した自分の顔が見えるはずなのに。
その、数年の記憶とやらも。
最初の召喚されてから二ヶ月ほどは鮮明に覚えているというのに、トホ領に向かったころからの記憶が断絶されている。
まるで――そこから先に記憶など、お前にはない、と言わんばかりに。
「そもそも……僕は何故、このヨーロッパの……ここがどこかも不明だし、誰が付いてきているかも不明と来た。やはり、おかしい。僕は、何を見落としているんだ……?」
顎に手を添え、悩む。
この顎に手を添えるポーズは、昔からの鮫介の癖であった。己の思考に没頭するとき、彼は無意識のうちに、右手の指をそっと顎に這わせる。このポーズのほうが、己の思考力が30%ほど増す気がするのだ。
「……召喚されてから、二ヶ月くらいの記憶は確かにある。召喚されたこと事態が嘘……ってことは無さそうだ。でも、ナレッシュとの訓練のためにトホ領に向かった……はずだけど、そのトホ領から先の記憶が曖昧だ。僕は、果たして何をしていた? どこまでの記憶が本物で、どこからの記憶が嘘なんだ……?」
悩む。悩む。悩む。
おそらく、一生分悩んだと思う。
己の記憶の齟齬。召喚されてから二ヶ月分しかない思い出。それからの、泡沫のような未来。それらを鑑みて、導き出した結論は――
「……僕は……まだ、二ヶ月しかこの世界に残留してない……?」
雲名島。どこかで聞いた覚えがあるという人は、一旦それは忘れてください(笑)