3-5
深海を歩いているようだ。
ヴァリオンの宮殿内は、何処も彼処も暗いけれど、
ここはその中でも特別暗かった。
足が重い。何かが絡みついているみたい。
何かが滴る音がする。水では無い何かが。
黒い霧に覆われた、壁が何処かも分からない場所。
とろりとした重たい気体が足元に充満して、
思うように動けない。
マスカレドが何か魔法をかけてくれたようで、
何とか意識を保てているものの、
無防備にこの部屋に放り込まれたら、
今頃私は意識を失っていたと思う。
まだ何も見当たらない。
しかし、誰かの眼差しを感じる。
慈しむような、懐かしむような、憐れむような視線。
また何か、思い出しそう‥‥。
《‥‥り、》
よく知った声。
幼い頃、毎日のように耳にしていた声に似ている。
当時よりも、少し大人びているけれど。
《め‥‥あり》
頭に直接響くそれは、紛れもなく私の名前。
どうして今まで忘れていたのだろう。
そう、私の名前は“めあり”―――‥‥。
確かに誰かがそこにいる。
けれどその姿は曖昧で、はっきりと確認できない。
でも、初対面じゃない。
私は彼を知っている。
思い出さなきゃ、思い出すのよめあり。
ふと、唇を何かが掠めた。
目の前に誰かがいる?いるのに、霧のように朧だ。
誰かの気配に向けて、声を掛ける。
「魔王様、こんにちは。貴方の姿を拝見したいのですが、私の目には見えそうにもありません」
《‥‥愛しい‥‥めあり。ずっと‥‥待っていた‥‥》
ぽた。
「‥‥あ」
何故だろう、誰なのだろう。
この声は、私がずっと会いたかった人の声だ。
止めどない涙が、頬を濡らす。
「ごめんなさい‥‥大切なのに、思い出せないの」
《大切だから‥‥思い出せないくらい‥‥深いところに、しまってくれたんだろう‥‥》
冷たいのにどこか暖かく感じる黒い霧が、
私の体をふわりと包む。
まるで抱きしめられているかのように。
《話は‥‥全て、聴いていた‥‥マスカレドは、とても勘が鋭くて‥‥参るな》
「やはり、彼の憶測は正しかったのね‥‥」
《僕は‥‥アルカデアを‥‥天王たる者の夢を、覚まさねばならない‥‥その、手伝いを‥‥頼めるだろうか》
「ええ、わかったわ」
《ありがとう‥‥君に、“黒薔薇”の刻印を―――‥‥》
***
一方、魔王室扉前。
柱に背を預け腕を組むマスカレドと、
床に体育座りをするカンタレラ。
「‥‥帰って こなかったり して」
「流石にそれは‥‥と言いたい所だが、否定できん」
「面識の無い 僕らでさえ、彼女を見てると 渇いて 仕方ないのに‥‥」
「あの方はもっとお辛いだろうな」
小さな溜め息すら、閑静な宮殿内ではよく聞こえる。
しかし、この扉の向こうの魔王の領域では、
誰かが大声で叫んだとしても何も聞こえないし、
魔法を使って透視することも出来ない絶対領域。
大人しく待つ他ないのだ。
それから更に暫くして、扉が開かれた。
2人は霧の中の人影を見つめる。
やがて鮮明に彼女を捉えると、胸を撫で下ろした。
「‥‥戻りました」
「おかえり」
「あの方は何と?」
「貴方の考えのままに、実行して良いと」
「‥‥そうか」
先程まで闇に怯えていた彼女とは思えない、
強く意志を宿した瞳。
中で一体何があったのかは、彼女と魔王しか知らない。
「準備を進めましょう」
私が訪れてから動き出した世界。
主人公が現れたと共に、捲られた表紙。
既に物語は始まっている。
きっと、私にとって大切な人だった。
忘れてはいけない記憶だったはずなのに。
私が貴方を思い出すまで、
たとえ結末を捻じ曲げることになっても救うわ。
もう二度と彼を失うなと、本能が叫んでる。
マスカレドとカンタレラは何かを感じ、
彼女の前に跪いた。
「仰せのままに」




