精霊と異邦人(3)
表口には巨大な土壁が出来上がっていた。周辺の大地をかき集めて作り上げた、急造の壁だ。高さと厚さは最初の爆撃のような攻撃を防ぐ程度の硬さを持っていた。
しかし。
その土壁を細い熱線が貫いた。熱線は一直線にアデルの顔へと向かって行き―――アデルは拳でそれを払い除ける。僅かな熱が拳を伝わる。それでもアデルの拳に傷一つつけられなかった熱線は、そのまま弾けるようにして消え去った。
「うっそだろ。今の攻撃を弾くとか……かなりランクの高い精霊術士か……?」
驚きの声は上空から。
アデルは目を細め、地面を足先で擦り、自らの力を通す。
土壁が即座に自壊し、幾つもの礫となって声がした方へ向かって飛んでいく。
土壁で遮られていた視界が広がっていく。アデルが作り上げた礫は、強固な何かに直撃して粉々になり、土煙として空に靄をかける。
「結界ね」
コハクが空を睨んで囁いた。
空。青い空が土煙に覆われた空。そこに、巨大な一対の白い翼を生やした人間がいる。ただ、鳥のように空中に留まっているわけではない。まるで見えない地面があるかのように、その場に立っている、という表現がこの場合は正しい。翼は一切動いていないのに、空中に居ることが、アデルにとってはおかしな光景だった。
「ん?あれ、精霊術士じゃなくて、精霊じゃん。嘘だろ?」
首を傾げる翼を生やした人間―――アポストロは、見た目は短い黒髪を持つ若い成人男性だ。ただ、口調にはどこか幼さが混じっている。
「うわぁ、初めて見たなぁ、ナマの精霊。へぇ、人間に使われている時よりも、魂の色がはっきりとしてんだなぁ」
へらへらと笑いながら、物珍しそうにこちらを見つめてくるアポストロを、アデルは睨んだ。
「おい、一体なんの用でここに来た!」
その言葉に、アポストロは当然の如く答える。
「勿論、暇つぶしだよ。丁度人間が沢山集まっている居住区があったからさ。なら新しい魔術の試し打ちをしようって思ってね」
新しいおもちゃを与えられた子供ように無邪気に残酷な話をするアポストロに対して、アデルは激昂する。
「お陰で妹との大切な買い物の時間がぱあだ!一体どうしてくれるんだ!」
「え、ええ……?怒るところ、そこなの……?」
笑顔のままアポストロは狼狽える。予想外の返答だったらしい。
尤も、アポストロの反応はある意味当然だ。今、彼が攻撃を加えた居住区は凄惨たる状態だ。苦しみ呻く人間たちの声。悲鳴に混乱。崩れたビルに焼けた大地、溶けたアスファルトが煮えたぎっている。死体がそこかしこに転がり、異臭が立ち込める。
それなのに、アデルは“妹との買い物を邪魔されたこと”に怒っている。それは、まるで人間がいくら死のうと、どうでもいいと言わんばかりの反応だ。
「覚悟しやがれ、糞ガキ!」
アデルは腕に力を込める。地面が割れて、幾つもの礫が空中に浮きあがる。ただ、今度はその礫は収縮し、一瞬のうちに不格好ながら先が鋭い槍へと変化する。
「……へへ。精霊と戦うなんて初めてだから、わくわくするな!」
嬉しそうにアポストロは呟いた。禍々しい気配が空中に集まったかと思えば、瞬時にアポストロの周辺には凝縮された熱が強く輝く光となって現れる。
槍と熱線の打ち合いが、始まった。
一見すれば土で作られた槍のほうが弱弱しく、簡単に破壊されるかのように思われた。しかし、アデルという強力な精霊の力を得た槍は、居住区のアスファルトすら溶かした熱線を打ち砕いた。
「え、嘘」
アポストロは驚きに目を見開いた。
熱が辺りに飛び散って、流星のように降り注ぐ。建物に直撃した熱は着火し、見る間に炎へと変化して辺りは熱気に包まれていく。
「ビスタリア様から頂いた、とっておきの熱線術式をこうもあっさり破られるなんて……」
ぼやくアポストロの視線は、今、完全にアデルから外れていた。
(戦い馴れしていねぇな、こいつ)
アデルは足元の大地から自らの力を通す。伝達されていくのは、アデルから発信された命令。それに応えた大地の力が、アデルの足場を瞬時に隆起させ、アポストロに届くほどの高さまで足場を伸ばした。
精霊の力とは、端的に言えば、世界に一切の悪影響を与えずに、自然界に命令を出すことだ。命令を出せる対象は、精霊の属性―――火、土、水などによって決定する。
アデルの場合は大地の属性を持つために、大地に向けて命令を出せる。
今しがた出した命令は―――「俺の足場を隆起させろ」「アポストロに届くほど」。
その命令の通り、アデルは今、彼の声に応えた大地に運ばれて、宙に浮くアポストロと同じ位置にいた。
「へっ……?」
「おぅ……らっ!」
握りしめた拳にあらん限りの力を込めて、アデルはアポストロの頭上から殴りつけた。鈍い音が辺りに弾け飛び、力を失ったアポストロが矢の如き勢いで地面に叩きつけられ、ックレーターを作り上げる。
大地が揺れる。みしり、みしりと悲鳴を上げた。
精霊は、属性ごとに特性が決定される。大地の属性を持つアデルの場合は、異常なほどに力が強い、という特性を持っていた。それこそ、大地を易々と割れるほどの力である。しかし、その力を込めたというのに、
「あいちちちち……」
アポストロは頭を摩ってその場に尻餅をついていた。未だ生きている。
「くそ……。頑丈な……!」
悪態吐くアデルの一方で、アポストロは体を起き上がらせようとし―――その鼻先に思い切りの蹴りを入れられて吹き飛んだ。
コハクだ。
アポストロはごろごろと地面を転がって、鼻血を吹き出しながらも体を起こす。
「ほんっとうにゴキブリのようね、あんたたち」
「ゴキブリ、だと……?」
コハクの言葉に、アポストロはやや顔を赤くして怒りを顕わにする。
その顔に、銃弾が当たった。銃弾はアポストロに当たった途端に、跳弾して地面に小さな傷をつけた。
「ひ、ひぃ、ひぃ……!」
武器を手にした男が、しゃっくりを上げながら銃を構えていた。それを冷徹に一瞥したアポストロは、
「邪魔」
その一言で熱線を男へと放った。男は悲鳴を上げる間も無い。一瞬にして骨すら溶けて影すら残さずに掻き消えた。
そうして、今しがた殺した人間の事などすぐに忘れて、笑う。
「さてさて……お前たちくらいの強さなら、この術式の使用許可が下りるなぁ」
言いながら、懐から取り出したのは、一見は掌に納まる程度の水晶玉だった。だが、その水晶玉の内側には、アポストロがいつも発している禍々しい気配が荒れ狂っている。
あれはヤバい。
アデルの背筋に冷たいものが奔る。
それはコハクも一緒であったらしく、彼女にしては珍しく、顔に焦燥の色が色濃く現れていた。
「喰らえや、敗北者共!」
狂ったように笑いながら、アポストロが水晶玉を地面に強く叩きつけられた。薄い水晶の防護壁が弾けて割れて、その中からこれでもかというほどの、禍々しい力が吹き荒れた。
色としては黒。非常に重く、生命を吸い取る悪意に満ちていたそれは、龍の姿を象って現出する。
異変はすぐに訪れた。
その場に逃げ遅れた人々が、苦しそうにうめき声を上げ始めた。その場に膝を着き、痛みに堪える人間も居た。子供などは、もうその場に蹲って誰にもしれない謝罪を繰り返す、その声はか細い。
「これ、は……!」
アデルもまた、軽微であるが息苦しさを感じ、呼吸を浅く繰り返しながら、忌々し気に龍を睨んだ。
生命力そのものを、あの龍の姿をした何かは吸い取っていた。それを吸い取って膨張を開始し始めていた。
その光景は、まるで。
精霊たちを縛るために人間たちが開発した、契約術によく似たもので、嫌悪感がこみ上げてきた。
「この、野郎!」
あれを止めなければやばい、とアデルの本能が告げてきていた。拳を龍に向かって振うが、龍の体はまるで霧のようで、拳は突き抜けて手ごたえは全くなかった。
「無駄だ。お前らのような退化した精霊の力じゃ、マナの具現体は捉えられないよ」
アポストロがせせ嗤い、宣告する。
「このまま死ねよ、お前ら、全員」
「させないわ」
凛とした声が、辺りに突き抜けた。
コハクが手元に作り上げた急造の身長ほどある昆の先を地面に幾度か叩きつけた。何か、清浄な波紋のようなものが、昆の先を中心に大気中へ突き抜けていった。その波紋が龍に触れた途端、体の端から龍の体が崩壊を始めた。
龍の体が崩壊するのとほぼ同時に、辺りに立ち込めていた重苦しい何かが消え去っていき、体が軽くなるのをアデルは確かに感じた。見れば周囲の人間たちも体調が戻ったらしく、小首を傾げている。
コハクは疲れ切った様子でその場に膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。
今しがた使った力の反動だろうか。いや―――そもそも、コハクが行使した力は、一体何なのか。
「―――調律……」
アポストロの呟きが答えだった。
調律、という言葉に聞き覚えは無かったが、コハクが行った行為を指し示していることは明白だった。
アポストロの表情が異常なほどの歓喜へと変化していることに気づき、アデルの背筋に冷たいものが奔る。
「ガルディアン……!」
アポストロが懐から黒い水晶玉を取り出した。見ただけで、アデルはそれが何かとんでもなく危険なものと認識した。大地に命令を出す。大地が波のように蠢いた。居ても立ってもいられずに、アデルは駆け出す。
「逃げろ!コハク!」
コハクが黒い水晶玉に気づいたのと、その水晶玉から帯状の光が飛び出して、コハクの体を貫いた。彼女の体は傾き、その瞳はゆっくりと閉じられ、地面に倒れるまで。それはほんの数秒の出来事だった。それでもアデルにとって、後悔するに十分な時間だった。
たった一人の妹を。
たった一人の大切なものを。
傷つけられた怒りが沸き起こる。
「貴様ああああああああ!」
アデルの怒りに呼応して、大地が激しく揺れ始めた。悲鳴が周囲から上がったが、そんな事は気にも留めずに、アデルはコハクの元へと駆け寄ろうとした。しかし、足止めするかのように熱線が飛んできて、それに対して力を込めた拳で弾き飛ばす時間を使ってしまった。
アデルを尻目に、素早くアポストロは翼を動かしてコハクを抱え込んで、そのまま空へと真っすぐに逃げ出した。
「逃がすか!」
アデルの指示に従って、大地が一斉に空へ向かうアポストロへ向かって伸び上がる。しかしそれでも、大地の質量は有限で、重力にも逆らえない。伸びた分だけ大地で出来上がった槍のような物質の先には負荷がかかり、やがて折れ始める。
届かない。空へと逃げたアポストロに届かない。
それを察したのか、アポストロはくるりと回ってアデルに告げた。
「このガルディアンはありがたく使ってやるよ、感謝しろ!」
使う。
大事な妹が、一体どんな仕打ちを受けるのか。
考えたくもない光景が脳裏に過り、アデルは大地に指示を出す。
―――この大地の上にいる何もかもが壊れても構わない。伸ばせ、あれを止めろ。コハクを取り戻せ。
それがどのような指示であるのか、アデルは知っている。しかし、正確な判断はできていない。
大地のバランスの崩壊。陥没が起こり、人が住めない地域が出てくる可能性もある。死者も大量に出るかもしれない。巨大地震が起こるかもしれない。それでもかまわないから、とにかくアポストロを止めなければ、と心は焦る。
たとえこの世界が全て壊れたとしても、妹を取り戻さなければ、と。
自分には存在しない遠い彼方の記憶が、訴えかけてきていた。
ぱん、と。
乾いた音が、辺りに響き渡った。
その音の主はアポストロの翼を貫いていた。アポストロは空中でバランスを崩してよろついた。
「えっ……?」
「は……?」
信じられない光景に、アポストロも、そして怒りに感情が支配されていた筈のアデルすら、間抜けた声を出した。
アポストロの体は頑丈で、アデルやコハクすら簡単な傷しかつけることしかできなかった。
また、アポストロの体は異常で、ただの人間の武器では傷つけることすらできない。
だから人間はアポストロを見かけると、精霊術士でもない限り一目散に逃げ出すのであるが。
アポストロの翼に傷をつけたのは、銃弾だった。それは人間が作った武器であることに違いなかった。
アデルは銃弾が飛んできた方向を思わず見た。
崩壊しかけた建物の屋根の上。黒い髪を持つ小柄な少年が、つまらなそうに銃を握って立っている。
「つぅか、戦うか逃げるか、どっちかに専念しろっての。色々と舐めすぎ」
言いながら。
屋根の上の少年―――異界の人物であるらしい桜江雪路は、笑う。
「早死にするよ」
次回の更新は3月9日の予定。