第26話
1945年の夏、私は半ば悲鳴を上げながら、演説をする羽目になっていた。
「私は、祖国日本を心から愛している愛国者です。夫か、祖国日本か、どちらかを選べ、と問われれば、祖国日本と即答します」
そう絶叫しながらも、私の背中には、暑さばかりではない汗が滲んでくる。
全く小泉純也め。
私は、内心で罵倒せざるを得なかった。
1943年中に第二次世界大戦は事実上終結したが、それは日本全体の平和を即座にもたらすものとは言えなかった。
何故か、と言われれば、欧州や中国本土に展開している日本の将兵を帰国させる必要があるからだ。
これは、日本政府としては、平和の果実を国民に実感させるためにも、総力を挙げて早急に実現する必要がある事態であった。
この帰国事業は、予想以上に手間取る話になった。
確かに私でさえ、場所が即答できないようなアルハンゲリスク等のソ連じゃなかったロシア奥地等から、日本の将兵を帰国の途に就かせるのには、かなり時間が掛かる話になってしまうのはやむを得ない話だ。
だが、このことは更なる副産物を生みだした。
衆議院総選挙は、欧州や中国本土に出征している将兵の帰還を待ってから行うべきだ、という世論を生み出したのだ。
1938年に私が初当選した後の衆議院総選挙は、任期4年と言う問題や第二次世界大戦の真っ最中と言う問題等から、1942年に行われていた。
(なお、私はその総選挙で、小泉又次郎引退を受けて、横須賀市を含む選挙区から衆議院総選挙に(小泉又次郎の後継者として)初出馬した小泉純也を返り討ちにして、連続当選を果たしている。)
そして、欧州や中国本土に出征している日本の将兵の帰還を待つとなると、総選挙は1944年後半以降になるのは、ある意味で仕方ない話となってしまう。
第二次世界大戦終結時の与党である立憲政友会としては、第二次世界大戦の勝利の勢いのままで、衆議院総選挙に打って出たかったのだが、この将兵の帰還を待つべき、実際に1942年に総選挙をやったばかりではないか、という世論が余りにも強かったために、結果論的なところがあるが、立憲政友会は衆議院総選挙のタイミングを逸するという事態が起きてしまう。
そして、その間に夫のユーグ=ダヴーは、インドシナ総督に任命されて赴任してきた。
野党の立憲民政党は、この事態を見て、早速、政府、与党追及に乗り出した。
日本政府は仏政府と密約を結んでおり、インドシナ派兵をするつもりがあるのではないか、その証拠が元日本海兵隊士官であるユーグ=ダヴーのインドシナ総督就任である、米内光政首相は、ダヴー総督の上官だった、密約があるに決まっている、と騒ぎ立てたのだ。
第二次世界大戦に倦んでいた日本の世論は、これに敏感に反応した。
「インドシナ派兵反対」
「インドシナ人民と連帯して、インドシナ独立を日本は支援すべきだ」等々。
そんな世論が野火のように広がってしまう。
そして、私は、1945年の衆議院総選挙において、対抗馬の小泉の追及を受け、夫を取るか、祖国を取るか、という究極の問いから、選挙民からの非国民と言う非難を避けるために、愛国者として祖国を取る、という答えをせざるを得なかった。
小泉は、それを受けて、「妻が夫を大事にするという家制度をぶっ壊すものだ、家制度を立憲政友会は壊そうとしている」と私の答えの言葉尻をとらえ、私や立憲政友会の攻撃をさらに強めた。
その結果、私は落選し、更に立憲政友会も総選挙で大敗したことから、米内総裁はその責任を取って、政界引退を表明した。
こういった事態が起きた以上、私も政界引退を表明せざるを得なかった。
私の衆議院議員としての生活は、7年程で終わったのだ。
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