それでも恋をする愚かな君たちへ。
「十子ちゃん」
そろそろかな、と思った。
僕の右斜め前に十子ちゃんが座っていた。
制服のブレザーがしわになるのも構わずに、大きなクッションをきつく抱きしめながら、じっと空を見つめている。
薄く茶色がかったセミロングの髪から覗く、綺麗な横顔が殺気立っていた。
十子ちゃんはしょっちゅう何かに怒っている。
確か前はパラリンピックがTVでほとんど放映されない事で、その前は以前見た映画がどれほど原作を無視しているか、という事だったと思う。
十子ちゃんは、今日は朝からずっと怒っていて、学校でさんざん怒りの原因を僕や彼女の友人達に話したにも関わらず、それでは収まらなかったようで、僕の家に寄ってからもまだ怒っている。
僕は彼女のまっすぐな怒りにいつもほれぼれする。他人の為にこんなに怒れる人はそういない。いつも華奢な彼女の体もこんな時は大きく見える。
じっと窓の辺りを睨んでいた十子ちゃんは、僕の呼びかけに顔だけこちらに向けて、言った。顔が怒りで赤くなっている。
「信じられないでしょ!? 生身の人間は駄目なのにネットの人間は信じられるのよ!?」
僕はうん、そうだね、と頷きながら立ち上がった。
「十子ちゃん、お茶飲む? 」
クッションにうずめた顔から、目だけが僕を見上げた。猫の瞳にそっくりだ。いつもそう思う。
彼女は再び何か言おうとして口を開け、一旦閉じ、やがてばつが悪そうにぼそっと言った。
「・・・ミルクいっぱい入れてね」
しばらく、二人でミルクティーをすすった。部屋が急に静かになった気がする。
彼女は紅茶を半分程飲んで、ふう、と息をついた。
今初めて気がついたように、きょろきょろと僕の部屋を見回す。
「・・・育ちゃんの部屋っていつもすっきりしてるのね」
「物があまりないだけだよ。十子ちゃんのとこはどうなの」
そう言えば、十子ちゃんの部屋にはあまり行った事がない。小さな頃から彼女が僕の部屋に来る事はあっても、彼女の部屋にははあまり入れさせてもらえなかった。
「きれいな時はものすごくきれい。汚い時はその逆」
「・・・ものすごく十子ちゃんらしいね」
「何、そのらしいって」
僕は慌てて話の矛先を変えた。
「で、今日は何だったっけ」
「だから有香がネットで、じゃなくて・・・、数学!そうそう、数学の宿題教えて欲しいの! 」
「はいはい」
十子ちゃんは勢いよくクッションを後ろに置くと、足元にあった自分の鞄を引き寄せた。中から数学の教科書とノートと筆記用具を出し、立ち上がって僕の机へ行き、当たり前のように座る。僕も自分のザックから数学の教科書をとり出して、当たり前のように机の脇にあるベッドに腰を下ろした。
十子ちゃんが真剣な顔で教科書を調べ始める。
「ええとね、どこか分からない所があったのよ。こういう事はね、すぐやらないと」
僕は思わずくすくす笑った。
「何よ」
「何でもないよ」
僕達はずっと昔からこうしている。これからも、ずっと変わらないだろう、と思っている。
クラス替えは嫌いだ。いつも先生は何考えてるんだろう的なメンバーになる。昔から偶然か故意にか、仲の良い友達とはことごとく引き離され、他のクラスがいつも自分の所より良く見えたものだ。
しかしこの高校は三年目にしてやっと分かってくれたらしい。私は先生ありがとう、と小さくつぶやいてみた。
「育ちゃん! 育ちゃん、一緒、一緒だよ!! 」
私は後ろを振り返って大きく手を振った。クラス替え表を見ようとする人だかりから少し離れた所に、ぽつんと育ちゃんが立っている。恥ずかしそうに笑って手を振り返すのが見えた。
私は周囲の人だかりをかきわけながら彼に近付いた。
「育ちゃん、もっと喜ばなきゃ! やっと同じクラスになれたんだよ!? 」
「うん・・・、でも今までだって大抵一緒にいたから変わらないんじゃないかな」
「今、何て!? 」
「いや、嬉しいよ、すごく嬉しい。うん」
育ちゃんは何度も大きく頷いた。
私は疑わしげに育ちゃんを見ていたが、彼の髪をわしゃわしゃと触って、にっこり笑った。
まあ、いいか。育ちゃんは優しいし可愛いから。
「教室まで一緒に行こうね」
育ちゃんは黙って微笑む。
育ちゃんは昔からずっと変わらない。
子供の頃から男勝りで元気の良かった私は、いつも育ちゃんを引き連れて走り回っていた。
彼は黙ってにこにこしながらついてきた、いつでも。
良い幼馴染だと思う。
でも、まさか。
私は右隣を歩く育ちゃんをちらりと見上げた。
付き合うとは思ってなかったなあ。
彼の柔らかな茶色の髪はいつでも軽くウェーブがかかっている。その綺麗な癖毛を私はふざけてよく、くしゃくしゃにする。
淡い茶色の瞳はぱっちり大きく、肌はどちらかと言えば白くてお人形のようだ。
付き合おう、と言われた時にはびっくりした。
ずっと良い友達だとは思っていたけれど。
でも、即座にうん、と頷いたのは分かっていたのだろう。
これは、必然なのだと。
休み時間中、私は有香達が戻ってくるのを自席で待っていた。廊下から聞こえてくる黄色い笑い声とは対照的な、がらんとした教室を見渡す。さっきまでいた育ちゃんも友達と出て行った。
私は大きな欠伸をした。
前方の少し離れた席に座っている男子を何となく眺めながら。
ふと、後ろのドアから誰かが入ってきた気配がした。太い声が教室内に響く。
「エイジ! 」
席に座っていた男子が振り返る。
彼が立ち上がりかけた時、机の上のシャープペンシルが一本、音を立てて落ちた。
シャープペンシルがころころと私の方へ転がる。
それをじっと見つめながら、思った。
エイジ。
そんな人__いただろうか。
私はよく、名前と人を覚える能力が欠けていると言われる。
三年生にもなって学年生徒全員が分からないから、らしい。
私から言わせれば、友人でもなく、一度も同じクラスになった事がない人さえも覚えている、つまり同学年の生徒全員の名前と顔を知っている事の方が、記憶力を無駄に使っている気がする。
ふとエイジと呼ばれた男子の机を見る。脇にかけられたスポーツバッグに、「唐沢」と言う文字が見えた。
そう言えば有香達が騒いでいた。
唐沢君と一緒のクラスだとか何とか。
そうか。
この人が唐沢エイジか。
唐沢エイジは相手に
「ちょっと待って」
と言い、立ち上がった。
私は足元に転がってきたシャープペンシルを拾った。
唐沢エイジが近付いてくる。私の顔を正面から見据えるとにっこりと笑った。
「ありがとう」
何となくかちんときた。
普通の男子はふざけた感じで「悪い」だけでいい。それとも照れくさそうに「あ、ども」と言うか。
「ありがとう」を言っていいのは育ちゃんだけ。格好つけずに本当に嬉しそうに笑う、育ちゃんのような人だけ。
私は彼の顔から目を離さないまま、シャープペンシルを手渡した。
背が高く、少し日に焼けた肌。
短く清潔に切られた黒髪。
鋭い切れ長の目。
サッカー部に入っていると聞いた。
ふと。
ざわざわと、
記憶がざわざわと私の心をかき乱す。
唐沢エイジも私をじっと見つめている。
危ない。
記憶がそう告げている。
私は無意識のうちに彼をにらみつけていた。
唐沢エイジは再びにっこり笑うとシャープペンシルを受け取り、ゆっくりとクラスメイト達の所へ歩いて行った。
私は顔だけを少し後ろに向けて、その後姿を見送った。
どくん。
心臓の音が大きく感じられる。
やはり。
似ている。
あれは中学三年生の時だった。
まだ育ちゃんと付き合ってはいなかったが、昔から変わらず彼の家に入り浸っていた私は、その日も育ちゃんの部屋でアルバムを見せてもらっていた。
運動会で彼が撮った写真の、どれを焼き増ししてもらおうかと思いながら。
育ちゃんは笑いながら、ごゆっくり、と紅茶を入れに出て行った。
アルバムを見終わり、棚にしまおうとしてふと棚にある本と本の間に、写真が一枚挟まっているのを見つけた。
取り出してみると、三組の中川君がアップで写っていた。
写真を撮られた事に気が付いていないらしく、こちらに背を向け、隣にいる誰かに笑って話しかけている、写真だった。
組み体操をした後の、泥だらけの体操服が日焼けした横顔に格好よく似合っている。
違和感が、あった。
中川君は知っている。育ちゃんの中学生になってからできた友達の一人だ。育ちゃんの仲良しグループ五、六人(男子の仲良しは何故かいつも大所帯だ)の中に入っていて、いつも皆でつるんでいるのを見かける。
今まで見せてもらった育ちゃんの写真の中にも中川君はよく写っていた。育ちゃんや他の仲間達と一緒に。
いつもグループで。
それはそうだ。友達なんだから。
でも、違和感が。
この写真は、中川君一人だ。
一人。
まるでこっそりと撮ったような。
写真の中の中川君が笑っている。
棚に隠された写真。
違和感が。
どれぐらいその写真を見つめていただろう。
気が付くと、階段から足音が近付いてきていた。
我に返り、慌てて写真を元の場所に戻そうとしたが、それより先にドアが開いた。
マグカップを二つ持った育ちゃんが、私を見て天使のように笑う。
その視線が私の持つ写真に届く一瞬前に、私は声をあげた。
「い、育ちゃん。だめじゃない、これ、忘れてるよ。早く中川君にあげなきゃ」
声がうわずっている。座ったまま右手だけ高く掲げ、写真をひらひらとぎこちなく振りながら。
何で声が震えるの。
何で育ちゃんの顔が見られないの。
何で。
育ちゃんは、十子ちゃん何か面白いの見つけたの、と笑った。マグカップを机に置いて、目を細めて写真をじっと見つめる。
一瞬、彼の顔から笑みが消えたような、気がした。
「あ、本当だ。忘れてた」
育ちゃんはそう言うと同時に、素早く私の手から写真を取った。
ほんとだ。忘れてた。
すっかり忘れてたなあ。
育ちゃんの大きく、明るい声が聞こえる。
私も笑った。
できるだけ大きく口を開けて。
楽しそうね、何か良い事でもあったの、とおばさんがケーキを持って入って来るまで、私達は笑っていた。
そうしてそれから一週間後に私は突然育ちゃんから告白され、付き合うようになった。
その後は何もなかった。
育ちゃんは変わらず中川くん達とつるんでいたが、私と一緒にいる事の方が次第に多くなった事以外は。
似ているのだ。
私は先程の唐沢エイジを思い出していた。
日に焼けた肌、
意思の強い瞳。
どくん。
雰囲気が似ている。
どくん。
心臓が早くなる。
あの時のように、
あの、
中川君の写真を見た時のように。
あいつは、危険だ。
私にとっても、
育ちゃんにとっても。
それから一週間がまたたく間に過ぎた。
春の穏やかな一日。窓から見える草木が日毎に青々と色づいてゆく。
私と育ちゃんは教室で英語の宿題をしていた。実際には育ちゃんが私の宿題を写していたのでこちらは何もしていなかったのだけれど。
私の隣に座り、育ちゃんは分からなかった和訳をノートにしたためている。その間私はひたすら彼の真剣な横顔を見つめていた。
真剣になると格別だ。
思わずうふふ、と笑みがこぼれそうになる。いや、実際微笑んでいたかもしれない。
ふと視線に気付くと、唐沢エイジが離れた席からこちらを見ていた。
やがて彼は立ち上がり、こちら側の席までやって来た。精悍な顔が私、そして育ちゃんを見る。育ちゃんは宿題にかかりきりで彼を見ようともしない。
「ふうん」
唐沢エイジは育ちゃんをじろじろ見下ろして、言った。
「育チャン」
私は何となくむっとして彼をにらみつけた。
彼はにやにや笑うだけで、こちらの視線を全く気にしていない。
「うん? 」
育ちゃんはそこで初めてノートから顔をあげた。唐沢エイジを見上げる。彼も強気な眼差しを育ちゃんに向けた。普通なら思わずひるんでしまいそうな強い視線。
育ちゃんはその視線を真正面にとらえた。
瞳が少し大きくなった、気がした。
二重の綺麗な薄茶色の瞳が、切れ長の漆黒の瞳をとらえて、
とらえたまま。
そらさない。
沈黙が、少し長すぎる気がした。
私が声をかけようとする前に、育ちゃんが静かに口を開いた。真剣な表情のままで。
「・・・何」
唐沢エイジの方から目をそらした。
右手で首の後ろ辺りをかいている。
「いや、あー、・・・数学の宿題を教えてもらおうと思って」
育ちゃんはまだ彼を見ている。
私は何だかむかむかしてきた。
「あの、今私達英語やってて忙しいから。後にしてくれない? 」
育ちゃんはそこでふと我に返ったように、机に向かって猛然と宿題の続きをし始めた。
唐沢エイジはそんな育ちゃんと、私を交互に見つめ、
「ふうん。そうみたいだな。後で聞くよ」
と言うと去り際に、にやりと笑って育ちゃんをあごで指した。
勝気な笑いがこう言っているような、気がした。
「やるね」
と。
「唐沢君」
「エイジでいいよ。皆そう呼んでる」
「・・・今月のおすすめ何にする? 」
私は机の上に積まれた新刊本と、まだまっさらな“図書新聞五月号”の原稿を眺めながらエイジに尋ねた。同時に小さなため息が出る。
本当は育ちゃんと一緒にいる筈だったのに。
図書委員なんて誰もやりたがらないから、立候補してしまえばこちらのものなのだ。だから育ちゃんと一緒にやろうと思ったのに。
男子の委員を決める時、育ちゃんの他にエイジも手を挙げたのだ。全く予期しない事だった。
結局ジャンケンで負けた育ちゃんが悪いのだけれど。
私は本棚の間を楽しそうにぶらついているエイジを、ぎろりと睨んだ。
彼が挙手しなければこんな事にならなかったのに。
ふと彼から目を離し、静かな図書館を見回す。
放課後の図書館は生徒が滅多に訪れない、ただの沈黙の箱だ。皆部活かバイトで忙しいし、昼休み中でさえもあまり寄り付かない。高校生で図書館通いは格好悪いと思っているのだ。
せめて図書館での自習を許可すれば良いのに。静寂は好きだが、人がいなくては図書館ではない。
「はい、これ」
エイジがいきなり私の顔の前に、一冊の本をつきつけた。思わずのけぞる。
「何、びっくりするじゃない」
渡された本を見た。
小さな文庫本。綺麗なイラストもなければ凝った装丁でもない、ぬっぺりとした可愛げのない表紙に、難しそうなタイトルがついている。
「・・・何、これ」
私の問いにエイジが欠伸をしながら答える。
「だから“今月お勧めの新刊”。矢野先生がこういうのも紹介しておきなさいってさ」
「これ読んだ事あるの、あの先生!? 」
私は真新しいぴかぴかの本を裏、表と見返した。
誰も読んだ事のない本の書評を、どう書けと言うのか。
「だから皆読まなくなるのよ!! 」
憤慨する私に、エイジは別の本を手渡した。
「これも紹介しろよ」
見ると、最近人気の推理小説だった。いわゆる純文学作品や古典ではない。それに、
「これ新刊じゃないわね」
エイジはそこでにやりと笑った。
「矢野先生に話したんだよ。学校推薦の新刊の他に、自分達が推薦する物も一冊紹介させてもらえないかって。全て“今月の推薦本”としてね。いいアイデアだろ」
うん、と思わず言いかけてその言葉を飲み込んだ。
代わりにその本の表紙を見たり中をめくったりしてみる。ペーパーバックのような装丁がおしゃれな外国の作品だ。
「読んだ事あるの」
エイジに声をかける。
「うん」
彼は机に積まれた学校推薦図書の一冊を手に取り、ページをめくり始めた。
ぱらぱらとページを繰る音が館内に響き渡る。
私は彼の横顔をじっと見つめた。アーモンド形の瞳。
「で、」
私は言った。ずっと待っている。
「で、何? 」
本を見たままエイジが言った。
嫌な奴。
私の視線にも質問の意味にも気付いている癖に答えない。
結局私の方が折れた。
「で、面白かったの? この本は」
エイジはやっと顔を上げ、彼の癖である片方の口端だけを上げて笑った。
「うん、すっごく。じゃないと紹介しない」
嫌な奴。
私は憮然とした表情のまま、図書新聞の原稿を書き始めた。恐ろしくつまらなさそうな学校推薦図書を片手でめくり、どこか引用できそうな部分はないかと考えながら。
エイジはまだにやにやと笑っている。
上目遣いで彼を睨んだ。
「海外小説の分はそっちが書いてよ」
了解、とエイジは笑って言うと、向かい側の席に座った。
「他の分も書いてやるよ。こんなの解説写したら終わりだろ。それまで、それ読んでろよ」
抗議する間もなく原稿用紙を取られる。
エイジはもうこちらを気にせず早速原稿を書き始めた。私はやはり憮然とした表情のまま海外小説をめくった。
最初はエイジの様子を窺いながら小説を読んでいたが、そのうち気にならなくなり、しばらくして彼がペンを置いた時には、私はすっかり小説に没頭していた。
「終了。あ、こんな時間か。じゃ、十子、あと頼むな」
え。
私は、はじかれるようにして顔を上げ、エイジを見た。
彼が楽しそうに私を見返す。
「何? 皆そう呼んでるんだろ」
皆ではなく私の友人達だけだ。
「それとも“十子ちゃん”の方がいいか? 」
私は顔をしかめた。
「全然似合わないわね」
育ちゃんと違って。
「だろ? じゃあな、十子」
エイジは一旦図書館を出ようとし、ふと振り向いて私の手にある海外本を指差した。
「それ、面白いだろ」
そのまま風のように走り去ってしまう。
何なのよ。
私は仏頂面のまま、図書の貸し出しカウンターの方へ歩いて行った。
雨が図書館の窓をつたい、ぽたぽたと落ちている。空はどんよりと暗く、じめじめとした空気を一層強調する。
今日は一日こんな天気らしい。文句を言うと、梅雨だからな、と素っ気無くエイジが言う。
「仕方ないよね」
育ちゃんが私の気持ちに寄り添うように微笑む。
今日は用事があって図書新聞が書けないと言うエイジに、育ちゃんが手伝ってくれるから大丈夫だと言っても、「三十分くらいはいられるから」とエイジは帰らない。
変なところで律儀だ。
たった三人だけの図書館は雨の音をはらんで、いつもよりも静寂さを増している。
梅雨の、この何とも言えない気味悪さ。
今の私の気持ちそのものだ。
二つの感情が相反している。
育ちゃんがここにいる事が嬉しくもあり、そして。
あとの気持ちは何と言っていいのかわからない。
ただ私は、エイジと育ちゃんとをせわしなく見ている。
「月イチ新聞発行って結構大変だよね」
推薦図書の表紙コピーをはさみで切り取りながら育ちゃんが言う。
「育ちゃん、これも切ってくれる? 」
「いいよ」
「お勧めの本はあるか? 育チャン」
「育でいいよ」
エイジの問いに、育ちゃんが静かに答える。
育ちゃんが何となくエイジに素っ気無い事にほっとする。
しばらく三人で作業をした後、
「十子」
意地悪そうにエイジが笑った。
「一昨日と昨日電話したのに出なかったな」
「そうだっけ? 」
私はエイジをにらんだ。
全く。
最近エイジは有香から、私の携帯番号を勝手に聞きだしていたのだ。私はそうそう人に番号を教えない。なぜなら、
育ちゃんがふわり、と笑う。
「十子ちゃんに電話しても無駄だよ」
エイジが怪訝な顔をした。
訊かれる前に答える事にする。
「一昨日?あの昼間の? いつも鞄の中に入れてるから気付かないのよ。何度も電話してくれなきゃ。でも食事中とか他の友達と会っている時はとらない事もあるわよ、邪魔されたくないから。後でかけ直しはするけどね」
「・・・昨日はどうなんだよ」
「昨日? いつ」
「十一時すぎ」
「もう寝てたわよ」
「普通起きるだろ」
「寝る前に電源切るもの」
「切る!? 」
「当たり前でしょ。起こされたくないもの。よほど緊急なら家の電話にかければいいのよ」
「それ以外で電話したい奴はどうしたらいいんだよ」
「そんな夜中にかけてくる友達なんかいないもの。大体そんな時間の、緊急以外の電話なんて認めないわ」
エイジは私をまじまじと見てから吹き出した。
「ケータイ持ってても、見事に携帯されないんだな」
「何それ」
いや、いい、とエイジは言い、忍び笑いからやがて、本当にお腹を抱えて笑い出した。
憮然とした顔の私を見て、
「わ、悪い。褒めてるんだ、本当に」
と、冗談かどうかよくわからない事を言い、笑い続ける。ふと、私の右隣から笑い声が聞こえてくると思ったら、育ちゃんまでもが笑っていた。
「育ちゃん! 」
ごめん、だってさ、と育ちゃんはくすくす笑っている。
私は抗議の意味を含めてエイジをじろっと見つめた。
彼はそんな私を全く無視して笑い転げている。
低く、きれいな声が図書館に響き渡る。
頬を赤く上気させて。
大きく開けた口から、白い歯がこぼれる。
それは、いつものような生意気な笑い方ではなく、
強気な自信はそのままに、
清々しく、楽しそうに笑う。
本気で笑うといい顔するんだ。
つい、見とれてしまっていた。
ふと気付いて、恥ずかしさに育ちゃんの方を向いて苦笑しようとした。
育ちゃんは。
笑いを止め、真剣な顔でエイジを見つめていた。
夏なんてあっと言う間に過ぎていく。いつの間にか。特に受験生にとっては。
夏休みは何となく学校の補講を受けたりしているうちに終わり、高校生最後の体育祭で、残りの夏も慌ただしく過ぎ去って行った。
いつの間にか、なのだ。何もかも。
図書新聞の発行を三人でやるようになっていた事も。
エイジが育ちゃんの事を「育」と呼び、育ちゃんが「エイジ」と呼ぶようになった事も。
育ちゃんの話題の中に、度々エイジの話が出るようになった事も、全て。
学校が終わるといつも、育ちゃんと一緒に帰る事にしている。その日、日直だった私は用事を片付けた後、育ちゃんの待つ教室に飛び込んだ。
「お待たせ。帰ろうよ」
育ちゃんは窓の外をじっと見ている。
「育ちゃん? 」
私も横に並んで外を見た。
運動場が見える。
様々な運動部が活動している真ん中で、サッカー部が練習試合をしていた。
メンバーの中にエイジが見える。とっくに部活は引退しているのに、時々無理やり参加させてもらっているらしい。
私は心がざわざわしてきた。
育ちゃんが感心したような声を出す。
「やっぱり上手いねー」
「・・・誰が? 」
答えはわかっている。
「え? エイジだよ。スポーツ推薦の話が来るだけはあるよね」
「あ、すごい、十子ちゃん見た、今のシュート!? はは、エイジすごく喜んでる、あ、こっちに気付いたよ、ほら手を振ってる」
育ちゃんも手を振り返す。私は後ろを向いた。
「・・・帰ろう、育ちゃん」
「え」
「早く、帰ろうよ」
強引に育ちゃんの上着を引っ張る。
「え、うん」
帰り道を一緒に歩きながら、ふと、育ちゃんを見上げる。
柔らかそうなくせ毛の
__短く切られた硬そうな髪は、
茶色がかった髪。
__闇を閉じ込めたような色で。
二重の大きな目は。
__一重の鋭い目が。
おだやかに笑う。
__おだやかに、笑う。
駄目だ。
私は頭を振った。
育ちゃんといるのに、何故こんなに悲しくなるのだろう。
「十子ちゃん? 」
何故こんなに、
泣きたくなるのだろう。
いつのまにか斜め下を見ていた顔を上げた。胸をぐっと反らしてみる。
「よし」
思わず声に出た。
怖いほど赤い夕焼けが正面に見える。
日は半分ほど傾き、日差しが弱々しい。
秋の夕焼けは清潔だ。
鼻で深呼吸をする。
「十子ちゃん? 」
育ちゃんの問いには答えず、私は前を見たまま右手をぐいっと彼の方へ差し出した。
一瞬間をおいて、育ちゃんが軽く笑った気がした。
そうして静かに、硬く細い指が私の指に触れ、広い掌が私の手を包み込んだ。
そっと。
おだやかに。
私は少し強めにその手を握る。
温かな手。
冷たくなっていた私の手が温まってゆく。
手が温かいひとは
心も温かいんだって。
すぐ冷たくなる私の手に、どれだけ息をはきかけても、いつでも育ちゃんの手には敵わなかった。
育ちゃんはその度に笑って両手を握ってくれた。
これからもずっと、温めてくれるのだろうか。
心の内で育ちゃんに問う。
心の温かなひとは。
心が、ざわざわしている。
次の日の放課後になっても、心のざわめきは昨日から収まる事はなく、いや増していた。
こうして、今日もまた一緒に育ちゃんと帰って、しゃべって、笑っている時も、大きな予感と不安が、私の中で肥大しているのを感じる。
いつからだろう。
訊いてはいけないのに。
何かを決定させないと、私の中のざわめきが収まってくれない。
「十子ちゃん? 」
軽く右手を引っ張られた。つないだ手と手から、育ちゃんの体温が伝わる。
「また何か怒ってる? 難しい顔してるよ」
育ちゃんが笑って私の眉間を指差す。
私の中のざわめきが収まってくれない。
「育ちゃん」
「ん? 」
何かを決定させないと。
「中川君はどうしてるの」
育ちゃんは一瞬黙った。
「何、いきなり」
「別に。ただ中学の時あんなに仲が良かったから、どうしてるのかな、と思って」
すらすら言葉の出る自分に驚く。
「さあ・・・。高校離れちゃったしね。それに、すごく仲が良かったわけじゃないよ」
「そうだったっけ? 」
「そうだよ」
育ちゃんはにっこりと笑った。
いつものように爽やかな。
何の曇りのない笑顔。
「・・・そうよね。そうだったよね」
私と付き合うようになってからはね。
私は無性に腹が立ってきた。
心から体に毒が流れ出ている気分だ。
私は立ち止まった。握っていた手を離す。
「・・・ごめん先に帰ってて」
育ちゃんが不思議そうな顔をした。
「今日図書委員会だった。忘れてたわ」
いらいらしながら早口で言った。
育ちゃんが、え、何て、と聞き返す。
「エイジと約束してたの」
思わず声が大きくなった。
口をつぐむ。
育ちゃんは私をじっと見つめて、
そっか。じゃあ先に帰ってるね、と言った。
そうして帰りかけ、彼はもう一度振り返り、言った。
帰りは暗くなるから気をつけてね。
私はひどく情けない気分になった。
どくどく。
どくどく。
毒が全身に回っている。
私は急いで育ちゃんに背を向け、逃げるように学校へ駆け戻った。
図書館へ走る。
建物の中に入り、図書管理室へ駆け込む。
ここなら生徒は来ない筈だ。
「あれ、どうしたんだよ」
エイジが机に座っていた。
私は肩で息をしながらその場に立ちすくんだ。
「・・・なんでここにいるのよ」
「先生にコンピューター入力頼まれたんだよ。そっちこそ何だよ。委員会は明日だろ」
エイジがにやりと笑う。
いけない。
今にも涙が出そうだ。
「・・・ティッシュ取って」
下を向いてエイジの横にあるティッシュボックスを指差す。
彼が放った箱をひっつかみ、後ろを向いて鼻をかんだ。
「・・・走って来たから暑くなって」
言った途端、言い訳がましい、と思った。
背中に感じるエイジの視線に耐えられない。
「ふうん」
エイジはそう不満げに漏らし、一転して茶化した口調で言った。
「今日は一緒じゃないのか、“育チャン”は? 」
今日は違うわ、と言おうとして、
目から涙がこぼれた。
ぽろぽろと頬を伝う。
私はエイジに背を向けたまま、歯をくいしばって耐えた。口にあてた手の指の間から嗚咽が漏れる。両肩が上下に揺れた。
やがてキイ、と椅子の回る音がして、パソコンのキーボードを叩く音が聞こえてきた。
「座れよ」
そっと振り返ると、エイジは私に背を向けて、パソコンに何か打ち込んでいた。
私はのろのろと手近なソファに近付き、腰掛けた。革張りのソファに深く沈みこむ。その柔らかな感触が少しだけほっとさせた。
しばらくの間、部屋には低い嗚咽と時々鼻をかむ音と、キーボードのカタカタ言う音以外何もしなかった。
私が最後に鼻をかんだ後も、エイジは黙ってパソコンに向かっていた。
彼の背中を見つめた。
白いセーターに包まれた、細めの広い背中。
その背中に向かってしばらく逡巡していると、エイジが前を向いたまま言った。
「コンピューター入力、手伝ってくれないか」
私は初めて素直にうん、と頷いて立ち上がった。
作業は四十分程で終わった。
エイジはその間育ちゃんの事を何も尋ねなかったし、私も何も話さなかった。
だから、そのままなんとなく一緒に帰る事になり、帰り道の途中で突然エイジが
「育は優しいのか」
と尋ねた時、私はかなり驚いた。
驚いたまま、強く頷いた。
優しい。
育ちゃんはとても優しい。
だから私は時々苦しい。
しばらく無言になった。
「すごいよな」
ぽつりとエイジが言う。
「自分に厳しいんだな」
私はエイジの顔を見上げた。
「じゃなきゃ人に優しくできないだろ」
「・・・うん」
うん、そうだね、と私は言い、
絶望的に悲しくなった。
この一件以来、私はエイジの視線を感じる事が多くなった。時々目が合っても彼は以前のように笑う事はせず、すぐに視線を逸らした。
育ちゃんと三人でいる時は何も変わらない。彼は表面的には普通通りにしていたが、明らかに私に何か話しかけようとして、ためらっているようだった。
そうして数日が立ち、私はある放課後、エイジに図書管理室へ呼び出された。
開口一番エイジが言った。
「育って何か隠してないか」
心臓をわしずかみにされた気がした。
「ないよ。そんなわけないじゃない」
「何焦ってるんだよ。本人じゃないんだからそんな事わからないだろ」
「十子だって気付いてたんだろ」
「何を」
「育が何か隠してるって事だよ」
何か。
「いいよ。わかってる。俺達に何か隠してるよな、あいつ」
何かどころじゃない。
私はつい声を荒げた。
「違う」
「違うって何が」
「そんなの、ないよ。絶対に」
エイジは私を見ると、ふっと笑った。
「信じてるんだな」
違う。
「育のこと」
信じているのではなく、知っているのだ。
あの、
中川君の写真を見た時から。
エイジが私を見ている。
私を。
なんでそんなめでみるの。
そう思った瞬間、
涙がこぼれた。
エイジがそっとこちらに近付く。
「十子」
私の右手首を掴む。
大きく、力強い、
あたたかな手。
私は反射的にふりほどくと、駆け出して図書館を出た。
校門を出てからもしばらく走った。
ただ、泣きながら、走っていた。
次の日授業が終わったところで、育、とエイジが声をかけた。
「ちょっと話があるんだ」
彼は育ちゃんの傍にいた私を見て、一瞬考えた後、言った。
「十子もいいか」
何か言おうとした私を無視して、エイジはじゃあついて来いよ、と先に立ってさっさと歩き出す。
何だろうね、と平和な笑顔でこちらを見る育ちゃんに答えず、私も黙ってついて行った。
剣道場の裏に着くと、エイジは振り返りざま言った。
「育」
すごむような、真剣な表情で。
「俺達に何か隠しているだろ」
私は、ああ、とうなだれた。
ああ、やっぱり。
それは、
きいてはいけないのに。
そっと私の右側を見る。
育ちゃんは変わらず清潔なベールをまとっていた。
穏やかな顔で聞き返す。
「何、隠してる事って」
「それがわからないから聞いてるんだろ」
育ちゃんがふっと笑う。
穏やかに。
静かに。
「ないよ」
エイジが育ちゃんをにらんだ。
「はっきりしないのは嫌いなんだよ。でもまだ俺はいいけど」
そこで私を見る。
「十子が昨日泣いた」
育ちゃんが私の方を見た、気がした。
怖くて彼を見られない。
エイジの声が響く。
はっきりと。
大きな声で。
「俺は十子が好きだ」
「だから育の事許せない」
恐らく、私と育ちゃんは同時に衝撃を受けたと思う。
私達二人の空気が固まった、のが分かった。
その空気を先に破ったのは私だった。
驚きと、それ以上の何かで心臓をばくばく言わせながら、私は、
育ちゃんを恐る恐る見上げた。
育ちゃんは。
いつもの穏やかな彼はそこにはいなかった。
大きな瞳はいっぱいまで開き、どこか空を見つめている。
唇は色を無くし、手がかたかたと震えていた。
エイジが訊いた。
「だから、どうなんだよ」
顔面蒼白の育ちゃんは答えない。
いや、答える事ができない。
エイジが再び訊いた。
「何を隠してるんだよ」
私は育ちゃんから目を逸らした。
気持ちが痛いほどわかる。
もう育ちゃんには、そんな、
「どうして黙ってるんだよ」
そんな質問はどうでもいい。
「エ、エイジ」
育ちゃんの声が聞こえた。
微かに震えている。
「エイジは、と、十子ちゃんのこと、」
エイジが苛立ちながら答えた。
「ああ、好きだよ、だから!? 」
育ちゃんがつばを飲み込む音が聞こえた。
だめだ。
育ちゃんを、
これ以上苦しめては。
エイジが再び口を開きかけた時、予鈴が鳴った。
エイジが舌打ちする。
「育、明日また聞くからな。十子、戻ろう」
育ちゃんはその場に立ったまま、銅像のように動かない。
「放っといて、行こう」
エイジはためらう私の腕を取り、半ば強引に引っ張って行った。
授業が始まっても育ちゃんは戻って来なかった。私は授業中何度も斜め後ろの席を振り返ったが、彼は座っていなかった。エイジは一向に気にした風がない。
そうして一時間終わった後、私は友人に早引きすると伝え、エイジに見つからないようにこっそり教室を出た。
廊下を走り、学校の外へと飛び出す。
育ちゃんは、きっとあそこにいる。
学校の後ろに小さな山がある。三百メーターほどの、山と言うより丘のような存在なのだが、上からの景色は中々いい。育ちゃんはその眺めと静寂を気に入っていた。
果たして頂上に着くと、そこに、
育ちゃんはいた。
こちらに背を向け、ぽつんと立っている。
彼の前方には、遠くに赤や黄色の秋色めいた山々が見えた。
いつも姿勢がまっすぐで、綺麗な彼の背中が、今は痛々しかった。
瞬間、私には分かった。
育ちゃんは泣いている。
彼は滅多に涙を見せない。
でも。
彼の背中が、全身が悲鳴を上げているのが、秋の透明な空気を通じて痛いほど伝わってきた。
涙を流さなくても、
泣く事はあるから。
「育ちゃん」
秋の空気をかきわけて進む。
張り詰めた空気が息苦しい。
彼の白いセーターを、そっと掴んだ。
細い背中が、ぴくりと動く。
エイジの言葉が蘇る。
自分に。
厳しすぎるよ、育ちゃん。
目の端が熱くなってきた。
鼻の奥がつんとする。
「もういい」
言った瞬間、目から涙が溢れた。
育ちゃんが振り返る。
もう一度言う。はっきりと、
育ちゃんへ、届くように。
「もういいよ」
育ちゃんが驚いた顔で私を見つめている。
涙が止まらない。
止める事ができない。
私は繰り返しつぶやいた。
もういいよ。
いいから。
育ちゃん。
今度は、
自由に。
瞬間、育ちゃんに抱き締められた。
腕や、背中が痛いほどに締め付けられる。
私の右肩に育ちゃんが顔をうずめた。
彼のくぐもった声が聞こえる。
「ごめん」
何て悲痛な響きだろう。私は悲しくなって瞳を閉じる。
育ちゃんはもう一度、ごめん、と言った。
彼の肩が震えている。
育ちゃんが、
泣いている。
私は思わず彼の背中に両手をまわし、胸に顔を押し当てて、泣いた。
沈めようと思っても、嗚咽を止める事ができなかった。髪が涙でべたべたの頬にまとわりついていく。
太陽の匂いのする胸。
しなやかで強い背中。
いつも近くにいながら、これほど強く育ちゃんを感じた事はなかった。
どうする事もできない。
育ちゃんを自由にしてあげられない。
どうする事もできない。
だって、
必然なんかじゃない。
私は、
私は__
次の日、私達は二人そろってエイジに会いに行った。
放課後の図書館は、やはり私達三人以外に人がいない。
私達はそれぞれ座っていた。育ちゃんと私はソファに並んで。エイジはコンピューターの椅子に。
「ふうん」
エイジは押し黙っていた。
私達は言ったのだ、一言、
離れられない、と。
壁時計がコチコチ言う音に交ざって、時々外から生徒の元気な声が聞こえる。
しばらくしてエイジが顔を上げた。私を見る。
「それでいいのか」
私は頷いた。
あの後育ちゃんは私に言ったのだ。
一言だけ。
一緒にいよう、と。
ずっとなんて約束できないけど、一緒にいよう、と。
それ以上の誠実なんて、あるわけがないのだから。
私達は誓ったのだ。
エイジは私から目を逸らし、育ちゃんを見た。先程よりも強い視線で。
「本当にないのか」
隠している事は。
育ちゃんは、強く、きっぱりとした声で答えた。
「ない。何も」
私は瞳を閉じた。
ないのだ。何も。
そうなのだ。
育ちゃんがそう言えば、言った瞬間にそれは真実となるのだ。
育ちゃんの場合には。
エイジはため息を一つついた。
「何なんだろうな、もう」
彼は椅子の背に大きくもたれて天井を見上げた。椅子を左右に揺すっている。
「何て言えばいいのかな」
しばらくして私達に顔を戻した。
「お幸せに、か」
そう言ったエイジの笑顔は、今まで見た中で一番、
優しかった。
十子ちゃん元気?
こっちは連日三十度を越えて夏ばて気味だよ。涼しいオレゴンが羨ましい。十子ちゃんの観葉植物は何とか枯らさずにやってるよ。それでもこの暑さにこれからが心配だな。
僕はメールを打つ手を止め、すっかり氷が溶けて薄くなったウーロン茶を一息に飲んだ。
大学生になってから、僕と十子ちゃんは一緒に暮らし始めた。そうして同棲後まもなく十子ちゃんは海外留学のチャンスを得、この夏アメリカへと旅立った。
僕はふと思い出し笑いをした。
出発までが大変だったのだ。十子ちゃんは泣きながら、
「育ちゃんを連れて行く」
と言い張っていたから。普通は待っていて、とか言うものだろうけれど。まあ、十子ちゃんはちょっと変わっているから。
左手の薬指を見る。出発前に、十子ちゃんからもらった指輪がキラリと光った。
愛おしさに、また微笑む。
まあ、十子ちゃんだから。
でも彼女は知っているだろうか。
僕が黒髪の若い男性を見た時、思わず目を逸らしてしまう事を。
全てを思い起こさせてしまうから。
漆黒の短い髪、
強い瞳、
屈託ない笑顔。
あの時に起こった出来事も、
あの時の感情も、
全て。
そうして、いつも僕は強く頭を振る。
全てを消し去る為に。
全てを忘れ去る為に。
僕が選んだ事だから。
しばらく物思いに沈み、ふと気付いた。
十子ちゃんへのメールがまだ途中だ。
僕は勢いよく椅子に座り直し、コンピューターに向かった。
「さて、と」
十子ちゃん、
もらった指輪はちゃんとつけてるよ。
十子ちゃんが帰って来る時には、君の分も用意しておくから。
安心して、勉強しておいで。
大丈夫。
僕達は、
ずっと変わらないから。 完