⑤
私の手から、力が抜けた。
握っていた弓が、弧を描きながらスカイツリーのそばを落下していく。
私は意識を失ったように、その軌道を見つめていた。
「ぬおっ!? に、20,000ゴッドの弓がぁっ……!?」
狼狽した神様が、私の顔を窺ってきた。「おおおお前さん、いったいどうしてくれるんじゃ!あれはわしの大切な──」
「……ごめん」
ふぇ、と神様は変な声を上げる。私は同じ言葉を二度、繰り返した。
「ごめん。……ちょっと意識、飛んじゃってた」
「…………?」
神様、無言でうなずく。何やら察したんだろうか。他意はないんだけどな。
私は改めて、二人の姿を見返した。自分の言葉に、相手の言葉に、太平と女の子は完全に固まってしまっていた。お互いを見つめる瞳の色に、見たこともない透明な色が混じっていた。
そしてその時間は一瞬だった。たった今展望台を降りてきたらしいたくさんの人たちが、太平と女の子を巻き込んだんだ。
「あっ!」
女の子が今ごろになって叫んだけれど、もう遅い。太平はチャンスとばかりに、目を固くつむったままソラミ坂の方へと向かっていく。小柄と言っても大股で歩けば、その距離はぐんぐん遠くなっていく。
少しして、夢から醒めたばかりのように女の子は辺りを見回した。矢の効き目が、切れたんだ。それが証拠にもう、刺さっていたはずの長い矢は見えなくなってしまっていた。
そして彼女が恋した相手も、ソラミ坂に消えていた。
「…………」
私はまだしばらく、言葉を口から外に出せそうになかった。
太平……。
君のなかでは私の存在は、まだそんなにも大きいんだね……。
私、もう君のそばにはいられないのに。もう君は自由になってくれていいのに。
どうして。もう、やめていいんだよ。いや、違う。やめて。お願いだから私から離れていって。
もし私に声が与えられたなら、そう叫んだだろう。太平が望む甘い声は出さないで、きっとそう叫ぶだろう。
でも、さっきの太平のセリフを聞いて、少し安心してしまう自分もいる……。
「もったいなかったのう……」
神様が、ぽつりとぼやく。
「29,000ゴッドのこと?」
「それもあるが」
あるのね。
「わしは神じゃからな。ただの霊に過ぎんお前さんと違って、色々と分かってしまうんじゃよ」
神様の視線の先には、小さなバッグを胸の前に抱えながらとぼとぼと歩くさっきの女の子の姿があった。
神様は、ふふ、と笑った。
「じゃが、わしらにはどうにもならん。──お前さんの彼氏は、優しいのう」
「忘れてくれて、よかったのに……」
「これ、そういうことは言うでない。それにわしはな、あの子はもう心の中ではいつでも、他人を受け入れる準備ができているのだと思うぞ」
そうなのかな……。
どっと今までの疲れが身体からにじみ出して、私はそっと縁に腰かけた。後ろ手をつくと、そこに何か冷たいものが当たった。手探りで引き寄せたそれは、さっきの雪の缶だ。
冷たい。
あの日も、こんな風に冷たい雪の日だったな。
ソラミ坂を下っていく影が、だんだん小さくなる。私は缶を抱き締めて、ソラマチを去っていこうとする太平の背中を目で追った。
失望感が、徒労感が、私の心をじわじわと侵略していくのが分かった。
私は、太平のことが大好きだった。
彼氏としては情けなかった。愚痴の相手にしては幼かった。共同生活者とするには、頼りなかった。でも、そんな太平だからこそ、私は大好きになれた。
太平がどう思っていたのか、私は一度も聞いたことはない。生前に聞いておきたかったな、とは思う。でも生前、そんなことを考えることは、私には有り得ないことだった。
そこに太平がいて、笑っているのが、私には当たり前だったんだもの。
どうして、人は人を好きになるんだろう。
初めて彼氏ができた日の夜、ずっと考えていた。ううん、その日から、ずっと。
太平のどんなところが好き? ──そう聞かれたら私は必ず、頼りないところが可愛いからとか、守ってあげたくなるからとか、そんな風に答えてきた。その気持ちに偽りはないと思う。でも、周りの友達はみんな、『それじゃ保護者意識と変わらないじゃん』と異口同音に言うばかりだった。
そうなのかもしれない。でも私にとって、恋ってそういうものだもん。
半年前、事故に遭って命を落とした時、病院の霊安室を訪れた太平は私を認めたとたんに泣き崩れた。看護師さんに支えられて部屋を出ていっても、私のいなくなった家に帰っても、太平は泣き続けた。
戻ってきてよ。ちいちゃんがいなかったら僕、どうやって生きていったらいいんだよ。
泣きながら叫んでいたその言葉に、私も泣いた。泣いて謝った。
先に死んじゃってごめんね。でも、もう私は君の彼女じゃないの。君をどんなに守りたくても、私にはどうしようもないの。
って。
もちろん、私の声なんて届いてはいないんだけどさ。
私が太平に届け続けた想いを、太平はどんな風に受け取っていてくれたんだろう。
太平にとって私を『想う』気持ちは、どんなものだったんだろう。
私には分からない。知る由もない。
ただひとつ言えることがあるとすれば、私たちの恋はどこまでも、私から太平へ向けてのベクトルで構成されていた。
最初に声を掛けたのだけは太平だったけど、告白したのは私だった。
太平は何度もデートに誘ってくれたけど、エスコートはいつも私だった。
私はそれで満足だった。
太平がそれで満足してくれていたのかどうか、私には分からない。でも、太平はいつもそれで楽しそうだった。心から、髄から私を慕い、幸せそうに後ろをついてきて、手をぎゅっと握ってくれた。
ベクトルは一方向でも、私たちは間違いなく、幸せだったんだ。
「どうするのじゃ、このあと」
じっと黙っている私に、神様が小さな声で訊いた。
「……どうしたら、いいんだろうね」
私は自嘲気味に笑って、缶を控えめに傾けた。まだ中身がかなり残っていて、さらさらとした粉雪がたちまち天空に舞い散っていく。
「……わしは、お前さんを天にお連れするよう命を受けておる」
神様はくたびれたようにどっかりと座り込んで、私の髪をそっと撫で上げた。
「未練を残した霊というのはな、厄介なんじゃ。その未練があまりに高ぶって、人間界に悪い影響を与えてしまうこともある。お前さんもそれが怖かった。わしはそもそもそういう理由で派遣されてきたんじゃよ」
「……そうだったんだ」
やや私は驚いた。知らなかった。神様って必ず来るものじゃなかったんだ。
だとしたら恨むわよ、神様たち。よくもこんな守銭奴を送り込んできたわね。
その守銭奴は私を一瞥して、ふん、と小さく鼻を鳴らす。不機嫌というよりは、覚悟を据えたかのように。
「じゃから、わしは嫌でもお前さんに付き合うのが仕事じゃ。一応、お前さんの満足がゆくまで一緒にいてやらねばならぬ」
ありがとう、と私は答えた。ひどくかすれた声だった。
雪は街明かりに照らされて、きらきらと星のようにまたたきながらスカイツリーの周囲をゆっくりと落ちていく。また雪が降ってきたぞ! やったぁ、ホワイトクリスマスだ! ──地上から聞こえてくる歓喜の声の中に、太平の声はない。
思えばあの日の私も、雪には何も思わなかったなぁ。ただ何となく、今日は特別なことが起こるような気がするな、なんて考えた。そしてそれは、現実になった。
「ね、神様」
私は缶を振りながら尋ねた。
「私の雪の降らせ方、上手いと思う?」
羽根をいじくっていた神様は、手を止めて、ふうむ、と今度は髭をいじっていた。少しして、答えた。
「優しい降らせ方をするのう、お前さんは」
そっか。それはきっと、誉め言葉なんだね。
あの日の雪を再現できていたなら、もっと嬉しいんだけどな。私は缶を握る手に力を少し込めて、ふふ、と笑った。
缶が、手から滑り落ちた。
「ああっ!!」
しまった!
缶は大量の雪をばらまきながら、スカイツリーの緩やかなカーブに添って落下していった。どざぁ、と大きな音が響いて、たくさんの仮想の雪が隣の建物の天井に叩きつけられた。
これが本物だったら、あの建物は確実に圧壊してる……。戦慄が身体を走り抜けた。神様たちの配慮に、少しだけ感謝した。
焦った私はなぜか、太平の姿を視界に探していた。人間界には缶の落下音なんか聞こえていないみたいで、太平は既にソラミ坂の一番下のフロアに降りようというところだった。
そしてその背後に、あの女の子が迫っていた。
……迫っていた?
女の子は後ろ向きに、歩いているとは思えないような格好で近づいている。その表情は、ひどく引きつっていて──。
その意味を私が悟る前に、すぐ真横で神様が叫んだ。
「しまった、足を踏み外しおったかっ!」
その言葉で私もようやく事態を把握した。女の子はいつかの太平のように、階段を踏み外して落っこちているんだ!
ななな何とかしなくちゃ! でも、私たちは実体のある存在じゃない! 手を差し入れたって受け止められない!
どうしよう──!?
私たちは大きく目を見開いた。乾いた口からひゅうひゅうと息が漏れて、──振り向いた太平がダッシュで階段を駆け登り手を差し伸べるのが、確かに見えた。
どさどさっ。
太平は女の子もろとも、床に倒れ込んだ。
女の子は間一髪のところで、コンクリートの階段に頭を打ち付けずに済んでいた。
「…………!」
私と神様は顔を見合わせた。そして、その行動の意味を同時に噛み締めていた。
二年前と同じだ。あの日、私が太平を助けたように、太平は女の子を助けたんだ。
太平と女の子は、やがて起き上がった。太平は腰の辺りをさすっている。痛めたみたいだけど、女の子の顔を見たとたん、その手を太平はすぐに身体から引き離した。
「大丈夫……ですか」
そう聞くと、ぺたんと地面に座り込んだ女の子は涙ながらにうなずいて、謝った。
「ごめんなさい……。その、私、ちょっとよそ見しちゃっていて……階段に気がつかなくて……っ」
「き、気にしないでください。僕もほら、あんまり怪我……してないし」
今、ちょっと無理をして言ったのは、上から覗く私たちにはバレバレだ。
それよりも、と太平は言った。「さっき、僕のことをしきりに誘ってくれた方ですよね……?」
はっとしたように女の子は顔を赤らめた。
「そっその、忘れてください! 初対面なのに私、あんなこと言っちゃってっ……!」
「ああっ……違、そういうことでは……っ」
「あ、っいえ、あのっ……」
……今、なんかおかしいなと思ったんだ。
私はじろりと神様を見た。ちょっと、矢が刺さってる間の記憶、残ってるじゃない。思いきり現実世界に影響出てるでしょうが。
神様はすいと視線を反らした。
「す、少し惚れ薬の効果がきつすぎたのかのう」
「……あのさ、最初に私が雪を降らせたいって言った時、あんた現実に影響が出るから云々って言ってたよね。あれ、ウソ?」
「…………」
「お金がかかるから?」
「……そうじゃな」
開き直った!?
っと、こんな不毛な話をしている間に何かが進んじゃっては困る。私はまた下に目を戻した。女の子も太平もいつかのように真っ赤になっていて、太平が先に口を開くまで、そこからさらにたっぷり一分は間が空いた。
「……その、ちょっとそこのベンチで、話しませんか」
二人はそこでしばらく、話をしていた。
私と神様?
もちろん、聞き耳を立てていた。二人がきっと予想もしない、眼前の超巨大タワーの頂上からね。
女の子は、亀沢文花さんと名乗った。
太平よりさらに一歳年下の二十三歳。二年前の私同様、社会人一年目の会社勤めさんだった。
「私、あんまり友達、いないんです」
文花さんは小さな声で白状して、うつむいた。
「少ない友達もみんなリア充で、今日はデートがあるからって誰も相手にしてくれなくて。家で独りぼっちでいるのが怖くて、嫌で、とにかく人のいる場所に行きたいと思ってスカイツリーに足を運んだんです」
つらいなぁ、それは……。
僕もなんですよー、と太平は苦笑いした。「友達がみんな、誰かしらと付き合ってるんですよ。何の自慢にもならないけど」
「えと、じゃあ、ここに来たのは……」
「想い出が、あるんです」
苦笑いが、照れ笑いに変わって、それからすうっと消えていった。
太平は立ち上がった。不安そうに眉を曇らせた文花さんの前に立って、彼方の空まで伸びるスカイツリーを見上げた。
つまり、私たちを見上げた。
「ここに一緒に来ようねって、約束した相手がいたんです」
太平は、吐息をもらすように言った。
「一歳歳上の彼女でした。今はもう、いないけど」
「別れたんですか?」
「……そんな感じです」
死別とは言わない辺りに、太平の優しさがふわふわと漂っている。
「ごめんなさい……。その、私、つらいこと思い出させちゃいましたか?」
文花さんはくすんと鼻を鳴らした。慌てて振り返る太平の姿に懐かしさを覚えたのは、なぜだろう。涙ぐむ文花さんの姿が、いつかの太平に似ていたからかもしれない。
「き、気にしないでいいですよっ」
「でも……」
「その元カノによく、怒られたんです。女の子を泣かせる男はクズだって」
文花さんは目を丸くした。
「──言ったのか」
神様が唐突に食い付いてきた。私は目をそらして、あははと笑ってみる。
うん、まぁ、言ったような気もする。たぶん酔った勢いだ。変なこと思い出させないでよ、太平……。
「分かる気もするのう。お前さんは女性にしては気が強い方じゃ。いや、しっかり者、という方がしっくりくるかの」
神様は感慨深げに納得している。
「……分かってるなら、あんなにお金大事アピールしないでよ。私の気に障るのなんてさ、簡単に想像できるでしょ?」
「何を、ゴッドは大事じゃぞ! あれがないと神と言えども何もできん!」
「いやいや、それもなんかおかしい話よね!?」
もはや話が逸れまくりだ。
聞き捨てならない太平の言葉が聞こえるまで、私と神様はなんか色々と言い合っていた。ような記憶がある。太平のセリフが強烈すぎて、忘れてしまうくらいだ。
「僕、その元カノが今日はどこからか、僕のことを見ているような気がするんです」
どきりとした私と神様は、下を覗き込んだ。
太平に、私たちは見えていないはず。はずなのに、太平は私たちとぴったり目を合わせていた。
「どういうことですか……?」
背後のベンチに座る文花さんが、不思議そうな顔をしている。太平はそんな文花さんに、えへ、と笑ってみせた。
「僕、元カノとの約束を果たすために、ここへ来たんです。『ここで開かれるプロジェクションマッピングのイベントを観て、それから展望デッキに登って夜景を見よう』──そんな約束でした」
「元カノはもう、いなくなってしまったのに?」
「元カノにずっと聞きたくて聞けなかったことが、ここなら確かめられるような気がしたんです」
「聞きたくて聞けなかったことって……」
「あの人は、僕をどうして好いてくれたのか。どうして僕を選んでくれたのか──」
太平が真っ直ぐに放つその視線から、私は目を離せなかった。
逃げ出そうとしていた心も今、太平のセリフで完全に動けなくなった。
太平がずっと聞きたくて聞けなかったことと言ったのは、私が聞きたくて聞けなかったことと、まったく同じものだ。
そう、気づいてしまったからだった。