④
「…………?」
機材のそばで見守っていたプロジェクションマッピング担当の人たちは、茫然とお互いの顔を見ている。そりゃそうでしょうね、だって用意していた映像と違うんだもの。
そしてそれは、太平も同じだった。ぽかんとした表情のまま、映像の消えた壁を見つめている。大半の人が、そうだった。
やがて、どこからか拍手が巻き起こった。
パチパチパチ。誰に向けられているのか分からない拍手が、スカイツリーのふもとに波紋を広げていく。
「疲れた……。現実の改編に5000ゴッドも費やしてしもうた……」
お礼を言おうとした私だったけど、神様のそのセリフを聞いて言う気が根こそぎ吹っ飛んだ。あんたやっぱり金勘定してたのね。がっかりだわ。
でも一応、気になったから聞いておく。
「神様、持ち金はいくら?」
「200,000ゴッドじゃ」
使えよその金! 何のために溜め込んでるんだよ!
もうなんか、突っ込むのも疲れた。太平がスカイツリー展望台のチケット売り場に向かおうとしているのを見ながら、私はため息をついた。とりあえず、つまらなくはなかったはずだ。それで、いい。
「……お前さん、そろそろ気は晴れたかの」
もう出資はしたくないんだが、とでも言いたげに神様は尋ねてきた。「これで満足じゃろ。そもそもわしはまだ、お前さんが最終的に何を目指しておるのかを聞いておらぬ」
最終的に?
「……言ったじゃん。太平がプロジェクションマッピングを見て、展望台に登るのを見届けるの」
「それだけかの」
神様は私の目の奥をじろりと覗き込んで、一拍ぶん開けた。
「それだけなら、この老体を駆使してまでプロヘクションマッティングを改編する必要もないじゃろうに。お前さんはただ、あの元彼が為すことを黙って見ておればよいのじゃ」
「そりゃ、そうだけど……」
「じゃがお前さんは、わし──それからわしの金を使って、元彼を楽しませようとしておる」
こくん、と私はうなずいた。
そう、その通りだ。だって太平が喜んでくれなかったら意味がない。
この十二月二十四日が、ただのクリスマスイブであってはいけないんだ。私が隣にいない日常を、クリスマスイブを、太平が楽しめるようにならなきゃいけないんだ。私は太平から決別しなきゃいけないのと同時に、太平のことを突き放して、私のいない楽しい日々に載せてあげなきゃいけないんだ。
そのために私は、クリスマスイブまでこの世に残り続けた。現世にある全ての私の痕跡から、太平を解き放つために。
「わしはこれでも神様じゃ。人間界の常識には疎いが、わしらが人間にしてやれることだけは重々、承知しておる」
神様もため息をついて、言った。
「わしらがどれだけ働きかけようとな、結局のところ、幸せを掴めるかどうかは人間次第なのじゃよ。掴もうという気概のある者は、わしらが放っておいても幸せを見出だし、それを自分のものとしてゆく。それは、楽しむという点においても同じでのう」
「…………」
「楽しませようとすることはできるが、楽しませることはわしらには出来んのじゃ。残念じゃがな」
……そうつぶやくように言って目を細める神様は、さっきまでそこにいた寒々しい老人の姿ではなかったような気がする。
正直、この守銭奴がそんなことを言っても説得力なんてない。けれど言いたいことは私にも伝わった。
限界を見極めろ。──そう言いたかったんだ。
本当の私は、何を望んでいるんだろう。
太平を楽しませるため?
太平が頼りなくて心配だから、見守りたい?
違う。
それとは決定的に違う何かが、私の胸の奥でくすぶっている。
でもそれが何なのか、私には分からない。そしてそれ以上に、確かめるのが、怖い。
なんだか怖くなった私は、神様の視線に追われるように、眼下のスカイツリーを見た。
あれ。太平、まだ並んでない。チケットカウンターからの行列とはまるで違う場所にいる。
なんでだろう。嫌な予感がして、私は耳を澄ませた。場内アナウンスの声が、喧騒の中に聞こえてきた。
『ご来場の皆様にお知らせします。ただ今のお時間、東京スカイツリー展望デッキへのご案内には、約二時間半ほどの待ち時間を頂いております。大変混雑しておりますので、ご理解ご協力のほどを──』
うっかりしてた、と思った。スカイツリー、めちゃくちゃ混んでるんだ。
あの寒い中に一人で二時間半、か……。行き場を失ってうろうろしている太平を下に見ながら、そりゃ無理だ、と私も思った。
「何じゃ、登らんのか」
神様が横に来た。
「仕方ないよ。他に一緒に登ってくれる人がいるならともかく、あんな行列に二時間半も並べないもの」
「ふうむ……」
「上に強制転移とかは……無理よね?」
「そんなことをしたら50,000ゴッドは吹き飛んでしまうわい」
……無理矢理にでもやらせたくなってきた。
とは言え、どうしたものか。このまま帰るなんていくらなんでもあんまりよね。楽しいイベントを楽しいまま終われるかは、最後にかかっているんだから。
考えろ、私。私には何ができる?
懸命に頭を巡らしながらソラマチを見下ろしていた私は、ふと、人を見つけた。
女の子だ。『子』というより、二十代前半くらいに見えるけど。
ブルー系のコートを身にまとったその子は、一人だった。他に誰もいない。さっき、酔っ払ってるチャラそうな男が寄ってきてたけど、困ったような顔で追い返していた。
もしかして、いや、もしかしなくても!
閃いた私は、神様に迫った。
「神様、キューピッドの弓矢とか持ってないの?」
神様は露骨に警戒し始めた。あ、これ高いやつだ。絶対そうだ。
「も、持っとらん! 一発の発射につき9000ゴッドも飛ぶんじゃぞ! あり得んわい!」
「とか言って持ってるんじゃないの?」
「誤解じゃ! ──あっこら、どこを探そうとしておる! こら! やめいくすぐったいわい!」
神様がいつも道具を取り出す時にあさっていた場所に、私は手を伸ばしていた。この神様ほんと信用ならないからね。私がじかに探してやるんだもん。
神様が半泣きになるほどあさってみたところで、私はようやくそれらしき弓矢を見つけた。引っ張り出してみると、矢にはこう書いてある。
『ザ・キューピッド 狙った相手を一撃で惚れさせる、目標追尾機能付き完全版!』
「ほら」
私は神様の前でそれを振って見せた。神様はがっくりと膝をついた。ふん、ざまぁ見なさい。
「これ、適当に射っても当たるのよね? 弓道の経験なんてないから、射ち方が分からないんだけど」
「当たるわい……。それと、そいつは弓道ではなく洋弓じゃ……」
どっちでもいいわよ。
私はあの女の子に狙いを定めて、それから太平を見つめた。これでいいのかな。
分からないけど、射ってみよう。
思い付いたんだ。太平の記憶から私を拭い、新しい幸せに引き合わせてあげるための策を。
今日、この場所で、太平が新たな恋人を見つければいいんだ。
私と太平はスカイツリーで出逢った。今のままではどんなに太平の日常が明るく楽しくなっても、ここを訪れるたびに太平は私を思い出してしまう。だったら、上書きさせればいい。私と同じようにイブの夜、世界一高いクリスマスツリーの建つこの場所で、もう一度恋人を作ればいいんだ。
それならば、私にも手伝える。私にしか手伝えない!
「いっけえ──────!!」
私の勢いよく放った矢は、六百メートルからの落下でぐんぐん加速し、吹き下ろす風に乗って真っ直ぐに目標めがけて滑空した。
そして、思わずぞっとするほどの勢いで、女の子に突き刺さった!
ぐさりと突き刺さった矢は肩から右足に抜け、先頭だけが貫通して止まった。矢、長すぎでしょ……。射った私も私だけど。
それだけ長い矢だからこそ、効き目も早かったのかな。女の子はたちまち太平を見た。そして、ちょうどそばを通り抜けようとしていた太平の腕を、唐突に掴んだんだ。
「!?」
太平、びっくりしてる。ちょっと引き気味に女の子を見てる。
そんな太平に一歩迫って、女の子は尋ねた。
「あの……、ちょっとそこでお話、しませんか?」
「えっ!? ええあの、僕ら初対面じゃ……」
「ダメですか……? 私、その、さっきあなたのことを一目見た時に……その……」
女の子は顔真っ赤。もちろん太平も真っ赤だ。
味わったことのないほどの甘酸っぱい空気が、スカイツリーの根本でふんわりと膨らんだ。
「本当に射ってしもうた……」
神様が愕然とした表情で隣にやって来た。
「狂言だと思ってたの?」
「半分くらい思うとった」
なら、見極めが甘かったのね。あんたの9000ゴッドは頂いた。
神様は私に並んで、矢が肩から右膝にかけて深々と突き刺さったままの女の子と、対応に困っている太平を、順に眺めていた。そして、ふうむ、と髭をいじる。
「ずいぶん痛々しい刺さり方をしたもんじゃのう。しかも矢じりが身体から抜けてしまっておる」
……あれ? 私、射ち方やっぱりまずかったかな?
「もしかして矢じりが刺さってないと……」
私は恐る恐る尋ねて、それを神様はあっさり肯定した。「うむ、当然じゃな。あれは惚れ薬を塗り込んだものでな、矢じりが体内に残っていないとなると傷口についた分しか効き目はあるまいから……せいぜい十分かのう」
「十分!?」
そんなの、あってないようなもんじゃない!
「まぁ見ておれ。どちらにせよ大事なのは、お前さんの元彼自身の気持ちじゃ」
神様は悠々と待つ構えを取りながら、そう言って私をなだめにかかった。
い、いいわよ。待つよ。女の子を信じる。五分でも十分でも、人間って恋に落ちられるものなんだから!
……私たちが、そうだったんだから。
太平は必死に女の子を払おうとしていた。
「私、もっとあなたのこと、知りたいんです! そこで少しお話をするだけでも!」
「いや、だからダメですってば! ぼ、僕はあなたのことを知りませんし、あなただって僕のこと、知らないでしょうしっ」
「知らないから知りたいんです! いけない……ですか?」
「いけないなんて! い、いや、でもその……っ!」
女の子の食い付き方もなかなかだったけど、太平の断る勢いも侮れない。普通、あんなに迫られたら男はみんな折れちゃうだろうになぁ……。
私はあんなに可愛く迫ることはできなかったな。二人を見ながら、私は苦笑した。心のどこかがずきんと痛んだけれど、あえて無視を決め込んだ。
展望デッキ帰りのお客さんたちが、通り過ぎざまに二人の言い合いの様子を物珍しそうに眺めていく。太平と女の子はもはや見世物だ。そんな周囲を気にしつつも、太平は女の子に真剣な面持ちを向け続けている。
私はなぜか、不安になってきた。
「どうして……ダメなんですかぁ……」
ついに女の子は涙ぐんだ。太平の胸に顔をすりつけて、浮かんだ涙を拭おうとする。
うわぁ……。惚れ薬、恐るべし。私が思わず拳を握ったのと、太平がその問いに答えたのは、ほとんど同時の出来事だったと思う。
「待っている人が、いるんです」
女の子の肩を掴んで引き離した太平は、女の子から目を背けて、地面を睨みながら訴えた。
「今はここにはいないけど、僕のことを想い続けている人がいるんです。その人を、その想いを、裏切りたくないんです……!」