②
東京都墨田区。隅田川のほとりに建つ、高さ634メートルの薄青色の塔『東京スカイツリー』。
クリスマスイブの今日、華やぐ街を思い思いに楽しむたくさんの人たちを見下ろすように立つ世界一の高さの電波塔は、クリスマスらしく緑と赤の照明に照らされていた。その姿はまるでクリスマスツリーだ。
世界最大のクリスマスツリーの最高地点に、今、私たちは座っている。
びゅうびゅうと吹き付ける風なんか、私たちには何の効き目もない。私は立ち上がって、眼下の景色をぐるりと見回した。彼がまだ移動していないのを見て、また安心した。
「落ちるでないぞ」
神様が低い声を出した。私は、まさか、って返して笑った。
「落ちたってどうってことないでしょ。だって私、もう死んでるじゃない」
「何を言うか、お前さんはまだ天に召された存在ではない。そういう中途半端な奴が地上の人間と接触するとじゃな、うむ、色々と……めんどくさいのじゃ」
神様業界の事情なんて知らないわよ。
とは言いつつ、落ちたらまたここに上ってくるのも大変そうだから、言われた通り私は落ちないように気を付けることにした。
私──石原千歳は、半年前に命を落とした、いわゆる霊だ。
この世界では、一日に何万人もの人々が生まれ、そして死んでいく。私の死因は交通事故だった。一瞬の痛みのあと、気が付いたら、こうして幽霊になっていた。
半年も前に死んでいれば、普通はとっくに天に召されるか成仏するかして、この世を完全に去るものだ。死後少しして現れて私にそう教えてくれたのが、いま私の隣にいるこの神様だ。
でも、私はあえて、この世にとどまるという選択をした。やり残したことがあるから──そう言って。
もう述べたことだけど、『千歳』という、今にして思えば皮肉にもならないような三文字が、私の生前の名前だった。生きていれば今頃、二十五歳になっているはずだ。私は会社勤めの華のOLだった。それなりに大切な友達もいて、曲がりなりにも恋人もいた。うん、この年にしては十分、幸せな方の人間だったと思う。
その元彼が今、私たちの遥か下方、スカイツリーに付随する商業施設『東京ソラマチ』にやって来ているんだ。
名前は、横川太平。私のことを『ちいちゃん』って呼んで慕ってくれた、一歳年下の愛しい愛しい彼氏だった。
「おう、やっとわしにも判別できたわい」
身を乗り出した神様が、嬉しそうに声を上げた。
「人間はどれも似たような格好をしすぎじゃ。どいつもこいつも量販店で衣服を買い揃えよってに。あれじゃろ、お前さんの元彼とやらも、おおかたユ〇クロでコート買っとるんじゃろ」
突き落とすわよ、あんた。背中をちょっと押すだけよ。
「私が選んでプレゼントしたブランド物だけど、悪い?」
私は頭を振りながら答えた。「神様ってほんと、見る目が無いのね」
そうよ。あのコート、私が彼に買ってあげた唯一のブランド物なのに。まだまだ新人で給料も高くなかったから普段はあんまり高い買い物もできないけど、たまにはいいかなーって思ってさ。死んだ今でもよく覚えてるもん。
「そうは言うが、わしはずっとこの格好なんでのう。服選びをする人間の気持ちを察せよと言われても困るんじゃ」
神様は自分の薄っぺらい衣を眺めながら愚痴を垂れた。だから神様の事情なんて知らないっての。と言うかそれ、さすがに薄すぎて寒々しいんだけど……。
「おや、移動するようじゃぞ」
……私は慌てて彼に目を戻した。
太平はケーキ屋さんから目を離して、階段を登り始めようとしているところだった。
東京ソラマチの東側の屋外買い物エリアは、地平のバスロータリーから始まって、少しずつ少しずつ階段を登り、地上四階に位置するツリーの根元に到達するという動線になっている。通称、『ソラミ坂』。色とりどりの電飾できれいにライトアップされた階段は、歩く人から見るととってもキレイだ。
たくさんの人に混じって、太平は四階にあるツリー前の広場を目指しているみたいだった。
ね、と私は神様に声を掛ける。
「雪、降らせられないかな」
「出来なくはないが」
神様はあまり乗り気ではなさそうだ。
「いいじゃない。だってあんた、そもそもこの話になった時に、色々させてくれるって私に言ったでしょ?」
神様はとっさに目を逸らす。こら、こっち見なさいよ。
──なかなか天に昇ろうとしない私にこの神様が声を掛けてきたのは、さかのぼること二ヵ月前のことだった。
その時、私は答えた。クリスマスイブまで待ってほしいって。満足したらきちんと昇天するからって。そうしたらこの神様、よっぽど満足してほしかったんだろうね。満足するなら色々させてやろう、って申し出てくれた。
イルミネーションのまばゆい輝きに、舞い降りる粉雪はとってもよく似合う。太平の気持ちが少しでも前向きに、楽しくなるように、何でもいいからやってあげたいんだ。
……私がどうしても、この世を離れたくなかったのは。
太平のことが、心配で、心配で、仕方なかったからだ。
太平は私より年下で、はっきり言って性格も私より幼かった。甘えん坊さんだし、頼りないし、私にかまって欲しがった。
私が死んだときの太平の嘆きようといったらなかった。三日三晩、彼は自分の部屋に閉じこもって泣き続けた。半年が経った今でもきっとまだ、私への未練を引きずっているに違いないんだ。私には、分かるんだ。
太平が以前のように笑っていられる幸せな日々を取り戻せるまでは、私はとても死ぬに死ねない。そのくらい、太平が心配なんだ。
もちろん、そんなことが叶わないことは分かってる。
だから今は少しでも、何でもいいから、太平の心を前向きにしてあげたくて。
「あんなこと言わねばよかった……」
神様はまだぶつぶつ言っている。
往生際の悪い神様ね、これでも子どもの手本かしら。腰に手を当てた私が嘆息すると、神様は中身のなさそうな自分の服をゴソゴソ漁って、何かを取り出した。
缶──だった。
……なにこれ。
私はそれを受け取って、じろっと眺めまわしてみる。側面に大きく、『演出用イマジンスノー お徳用』と書いてある。
……なに、これ。
「言っとくが、本物の雪は降らせられんぞ。わしとて何でも出来る訳ではない」
立ち尽くす私を前に、神様は必死そうな表情で言った。
「わしら神のルールではな、地上の人間たちには干渉してはならぬということになっておる。わしらが本物の雪を降らしてみぃ。地上は滑りやすくなり、転ばなくて済んだ人間が怪我をしてしまう結果になるかもしれん。そこでその缶じゃ。そいつは『雪っぽい何か』を降らせるセットでな、はた目には雪が降っているように感じても、地上に降りればたちまち消え失せてしまうというスグレモノなんじゃ」
「……私に、太平たちを騙せと?」
「端的に言えばそういうことじゃな。なに、この大都会ではもとより雪は積もらん。地表面で消えてしまったって、誰も驚きはしないじゃろ」
なんていい加減なの……。
ちょっと不満が残るけれど、私は缶をぷしゅっと開けた。立ち上がって下界を見下ろし、ゆっくりと缶の中身を傾ける。
たちまち、缶からはさらさらとした粉雪が流れ出した。それはスカイツリーのライトアップに照らし出されながら、のんびりとした速度で街へ向かって舞い降りていく。
おお。いい感じ……なのかな?
地表の感覚は私には分からない。代わりに私は目を凝らし、耳を澄ました。こうすれば、太平の反応が見える。どんなことをつぶやいたのかだって、聞き取れるんだ。
賑やかなお店をちらちらと横目に見ながら、太平はソラミ坂を登っているところだった。
何を考え、何を思っているのかまでは、私には分からない。うつむいて表情を伏せてしまっていたから、楽しいのか、哀しいのかさえ、見当がつかなかった。
その太平が、弾かれたように顔を上げた。目の前を降りていく雪の存在に、気付いたんだ。
「おい、雪だぞ」
「ほんとだ!」
「今日って晴れの予報だったはずなのに……!」
周囲の人たちもびっくりしているみたい。ちょっと得意げな気持ちになって、私は缶から粉雪を注ぐ勢いを強くした。傾ける角度が大きくなるほど、太平の気持ちも前向きになってくれたらいいのに。そんな思いだった。
「…………」
太平は歩く速度を落とした。その瞳は天空から届く純白の贈り物に輝いて、やっぱりちょっと、潤んでいた。頬がほんのりと紅くなって上気していくのが、よく分かった。
いいぞいいぞ! ──私が調子に乗った、その時。
どん、と太平は前の人にぶつかった。
「す、すみません……!」
せっかく太平が謝ったのに、相手の人は聞きもしない。スマホを空に向かって掲げ、熱心の写真を撮っている。
って、あれ? 周りがみんな同じように、カメラやスマホで写真を撮ろうと躍起になってる。
「ほぉ、人間どもも大喜びじゃな。お前さん、なかなかやりおるな」
神様が呑気な事を言っている。違う! あの人たちを喜ばせたいんじゃないのに!
みんながみんな立ち尽くしてしまって、そうでなくても狭いソラミ坂はたちまち人で埋まり始めた。太平は一歩も進めなくなって、必死の形相で前を見ようとしている。私よりも身長低かったからな、あの子……。いやいやいや、それどころじゃないよ!
「のう、お前さん。どうして元彼がここに来ると分かっていたのだね」
顔を青くした私に、神様は尋ねた。私は時計を見ながら、半分くらい上の空で答えた。
「元彼と──太平とね、約束したんだ。クリスマスになったらスカイツリーに来て、プロジェクションマッピング見て、展望台に上ろうねって」
「何じゃ、そのプロテクトバッキング言うのは」
「ほとんど合ってないわよそれ……。建物とかの壁に三次元映像を投影して、それをみんなで楽しむの」
知らんな、と神様は首を振る。これだから時代遅れなお年寄りは……って言ったら、また怒りそう。
私と太平は、共に東京出身だ。
なのに、いや、だからこそかな。お互いスカイツリーに上った経験が無かったんだ。地元でよく見ていたから特別な感じもなかったし、高いお金を払ってまで登りたいと積極的に思えなかった。
でも、カップルになった今、やっぱり一度は登ってみたいって思うようになって。じゃあイブの夜に登ろうかって、約束したんだ。クリスマスイブという日を選んだのは、その日、スカイツリーの建物を使ってプロジェクションマッピングの上映が行われるから。
最近、あちこちで行われるようになってすっかり一般化した映像芸術技法──プロジェクションマッピングは、複雑な建物の構造を計算して、その形に見合った映像を映し出すことで立体感を演出するのが特徴。その魅力は何と言っても美しさと迫力だ。それがあのスカイツリーで見られるなんて。ついでに観に行けたら、一石二鳥だよね。そう言って私たちは笑いあった。
そして、太平がここに来たのはきっと、その約束を守るため。
私はもう傍らにはいないけれど、きっと太平は私のことをまだはっきりと覚えていて、だから──
──だからまずいのよ!
私は時計を見返した。現在時刻は七時半。壁に大きく貼り出されたプロジェクションマッピングの開始時刻は、七時四十分。このまま太平が動けなかったら大変だ! プロジェクションマッピング、あと十分で始まっちゃうんだ!
館内放送が開始までの時間を告げている。ようやく群衆も気付いたらしくて、太平を巻き込んだままの移動が始まった。ああ、じれったい。上から見ていると本当にじれったい。
「神様、その、こっそりさ、太平のことを移動させられない?」
「うむ」
神様は一瞬の溜めで私を期待させてから、無下に言い放った。
「無理じゃな」
「何でわざわざ間を空けて言う必要があんのよ! 分かっては……いたけど」
当たり前よね。目の前で人間が消えて、別の場所に現れるんだもの。バリバリ人間界に干渉してるじゃない。そんなの許されるはずがないよ。
と思っていたら、神様は頭をぼりぼり掻きながら言った。
「いやな、不可能ではないんじゃがな。人間に直接の影響は及ばんからの」
「えっ、そうなの?」
「ただその……わしの金が飛んでいく」
……は? 金?
神様は私の訝る気持ちを察したんだろう。声が途端に小さくなる。
「そのー……何じゃ、わしら神々は色んな事が出来るが、それには金がかかる仕組みになっとるんじゃ。さっきの缶は2000ゴッドもしてな。さっきお前さんがやろうとしたことなんぞは、特に金が……」
「…………」
いやもう、何をコメントしたらいいのか分からないんですけど。ってか、金? ゴッドって何!? 神様の世界にも貨幣経済が浸透してるの!?
仕方ないわね。諦めりゃいいんでしょ諦めりゃ。さっきとは打って変わって納得いかない気持ちになりながら、私は焦りの増した心を玩んだ。ああ、お願いだから早く動いてあげて。
なんて言いつつ、太平を巻き込んだ行列はそれなりの速度では移動していた。きっとみんな見たいんだ。もしくは、みんなの動く方向に動こうとする都民特有の習性のせいか。
残り時間が気になるのは同じみたいで、太平もスマホを取り出して画面で時刻を確認している。
「あ……っ」
太平が呆気ない声を上げて、スマホがその手から滑り落ちたのは、その直後だった。
かつんっ。床に転がったスマホは、たちまち人波の下に隠れて見えなくなった。
「あっ!」
私と神様も、同時に声を上げていた。
太平は途端におろおろし始めた。ああ、どうしよう。私が拾ってあげられたら……。いやでも、どうしようもないか……。
私までつられて狼狽し出した。すると横から、神様がぼそり。
「お前たち人間は、あれをやたらに重宝するのう。そんなに大事なモノなのか、あれは」
うん、と私はうなずいた。
スマホが高価で便利な物だから、って意味じゃない。
「……あのスマホね、私が死ぬ前から太平が使ってたものなの」
「なるほど。お前さんが写っている写真なんぞが中に入っているわけじゃな」
「うん……」
記念品なんだ、あれ。二人して撮った思い出の写真が、あのスマホにはたくさん保存されているはずなんだ……。
すると、分かった、と神様はつぶやいた。
「やってみるかの。要はあのスマホを元彼の元へ移動させればよいのじゃろ?」
「うそ、やってくれるの!?」
「あれなら150ゴッドで済むのじゃ」
いや知らねーよ!
「やる?」
それでもやっぱり躊躇があるのか、神様は私をちらりちらりと見てきた。私は首を縦に振りまくった。この金勘定野郎め、あんたの持ち金が尽きるまで頼み事してやるわよ。
「ふぅむ。待っていろ。これをこうして……こうじゃ!」
神様はうねうねと指を動かしていたかと思うと、ばっと離した。
太平はどうしようどうしようという顔をして、辺りを見回していた。
不意に、その表情が変わった。私の遥か下で太平がコートのポケットに手をやり、そこからゆっくりとスマホを取り出したのが見えた。
なるほど、スマホを拾ってポケットに放り込んだのか……。それなら確かに移動する物も距離も小さいし、何より他の誰かに迷惑もかからないんだ。
「???」
太平は戸惑っている。戸惑っているけど、その表情にはさっきまではなかった安堵の思いがありありと見てとれる。
「やるじゃん」
私は神様を一応誉めてあげた。神様は、ふん、と鼻を鳴らした。満更でもないらしい。
「当然じゃな。わしはこれでも神様じゃ」
「……神様らしからぬ自覚はあるわけね」
「以前の顧客にもケチケチと叫ばれたからのう……」
ええ、さぞかしそうでしょうね。あんたはケチよ。ってか、クライアントって……。
とは言え、誰よりも安心したのは私だった。頂上から少しばかり身を乗り出すと、順調にソラミ坂を登ってくる群衆と、その中に混じって登ってくる太平の姿が、よく見えるようになってきた。
おいで、太平。スカイツリーはもう目と鼻の先だよ。
私たちが目指した高みが、ここにあるんだよ。
そっと、そう呼び掛けてあげた。