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【不謹慎にも】

(2015年9月20日執筆)

常総市の水害のあと

(……凄いな)

と思いましたのが

今回、浸水の被害に遭われました範囲が

40平方キロメートルにも及び

9月11日段階。

水に浸かっていましたのが

30平方キロメートルもの

広大なエリアであったのでありましたが

わずか3日で3分の1にまで縮小することが出来たことが


(……文明の力って凄いな……)


明治以降

当時、最新鋭の技術でありました

蒸気期間を用いることによりまして

これまで

最高の土産は土である。

と言われていました地域が

一気に乾いた耕作地に生まれ変わることになった……。


それだけ一気に。

でありますと

どこかで無理が生じてくることもあるのでありますが。


(小休止して

頭から読み直し……)


(……復旧の早さを誉めていたんでしたね)


安全にヒトが入ることが出来るようになれば

人海戦術がモノを言う作業も可能となりますので

出来得る範囲の中で

絶対無理をすること無く。


その水害当時の映像の中で

(不謹慎にも……)

となってしまったモノがありまして

それは何か

と言いますと


家に帰るなり

家族から

『常総市の被災地域の中に

石垣の立派な城が映っていたぞ』

と言う話を聞きまして


(関東で石垣の城?)


徳川治世以降でありましたら

関東にも石垣の城が登場するのでありますが


関東地方。

特に南側は

元々海であったところに

地球が冷えましたり、

土砂が流れ込んだりしまして

出来た場所でありますので

石垣となるべく

大きな石が存在していないこともありまして

盛り土に植物を生やすことによって

城壁とするのが一般的な

関東の城の姿でありまして


たぶんあの地域で

最初に出来ました

石垣の城は

秀吉の一夜城であったと思われます。


で。

その江戸時代。

(……たしかあそこは『天領』であったハズ)


一国一城

(正しくは一藩一城なのかな?)

の時代でありますし、

徳川本拠の真っ只中に

わざわざ石垣の立派な城を拵える理由はありませんので


(……そんな城本当にあるのかな?)


と被災地の様子を映し出すテレビを見ていましたところ


普段は陸地なのであろう

この時点では水に浸かっていた地域の

薄暗い景色の向こう側に浮かび上がる


(……なんだこれは)

と言う城が

目に飛び込んで参りまして


(うっそ!!)

と思いながら

大変申し訳ないことなのでありますが

(……不謹慎にも)

になってしまったことを告白します。


気を取り直しまして

調べてみましたところ

常総市にあります豊田城

と言う城が

室町時代。

今ある地に実際ありまして

存在していた城なのでありますが

室町時代でありますので

当然のことでありますが

現在のような

5層7階にも及ぶ天守閣はありませんので

今の豊田城は

復元では無く

当時は

(……バブルだったのかな?)

なのでありますが

現在は

地域交流センターとして

親しまれておりますし、

しっかりした建物

(天守閣の高さは48.5mあるそうです。)

でありますので


(水が電力に変わる

と言うことは

それだけのパワーがある

と言うことなんですよね……)


あれだけの大水が押し寄せても

ビクともすることもなく佇んでいた。


今後の防災のヒントの1つになるのでは?

(……建てるのに、どれだけのお金が必要になるのかはわかりませんが)

の豊田城なのでありますが


今回の水害を見まして

平城の周り。

戦国以降に築かれました

平城に関しましては

今見ますと

無防備。

四方八方どこからでも攻め込むことが出来そうに思われる

平城なのでありますが

いざ『籠城』となりました時、

川をわざと決壊させることにより

城の周り全てを堀に変えてしまいましたり、


沼地とか泥地を活用して

築かれた城なんだな……。


と言うことを

改めて再認識する機会となりましたね……。


これは城攻めに用いる時もございます。

実際、秀吉の関東遠征の際は、

忍城でしたか……。

水攻めにしようとしましたのは。

住民集め、とりかかりましたところ。

城の主の人望が厚かったこともありまして

工事が手抜きされた挙げ句。

雇い主であります

攻め手の部隊目掛け

水が流し込まれることになった。

なんてこともございまして

その時、指揮していましたのが

石田三成。


(これが豊臣の天下が長く続く時代でありましたら

無かったこととして

揉み消されることになったのでありましょうが……)


(でも家康は、関ヶ原後。

西軍の実質的な中心人物でありました

石田三成の子孫を大事に扱われたことから見ますと、

のちの世。語り継がれることになったような人物では無かった

と思われますよ……。)


商業や物流を重視すべく

河口近くに城が築かれ、

その跡地がそのまま自治体の中心となった場所。

結構ありまして

でありますので

当然、防備

と言うモノが必要となってまいります。


これが山の城でありましたら

傾斜を用いたりなんぞするのでありますが

平野の城の場合

それ程の高低差を見出すことは難しいと思われます。

では何を用いて守りを固めるのか?

となりますと

『水』

でありまして

わかりやすい事例としましては

大阪城になりますでしょうか……。


冬の陣を終えまして

外堀と内堀を埋めることに成功しました徳川が

夏の陣どこから攻め込んだのか?

と申しますと

南側のみでありました。

四方八方から攻め込むことが出来る状況であったにも関わらず

一点集中とばかりに

南から攻め込むことになりました

のには理由がありまして

大阪城の南を除く

東に西。そして北の三方向は

もともとが海。

でありまして

時代を経るに従い

淀川からの土砂の流入などありまして

陸地となっていたのでありましたが

当時はまだ

ヒトが暮らすのには

多くの困難が要する場所。

(今の視点から見ますと

何かあった時、何かあることを覚悟しなければならない場所)

泥地であったことが想像されます。


泥地でありますので

重装の兵士が

泥の中に

一歩でも足を踏み入れなんぞ致しますと

身動きを取ることが出来なくなり

弓矢鉄砲に狙われ放題

討ち取られ放題となる。


そんな地域で

最も安全な場所。

昔からの乾いた大地に

築かれたのが

大阪城でありました中、

その大阪城同様

昔からの陸地であったのが南側。

でありまして


その弱点を補うべく

大阪冬の陣に拵えられましたのが

来年の大河ドラマの舞台となっております

真田丸にございます。

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