タイニーでリトルでワンダー(☆)
「クリスマスファイター!」内の「シャイニーでシマリーでブライト」の二人の話です。
僕にはすてきな恋人がいる。
初めて見た時は、デパートのウインドウに棲んでいる妖精のようだった、その人。
隣を歩く事、手を繋ぐ事を許され、飾らない人となりを知ればますます魅かれた。
「最初に壮大なファンタジーを語られたから、素を知ったら引くかと思われた」と呟かれた時は、あまりのかわいらしさに外だと云うのに堪らずぎゅうっと抱き締めてしまった。ヒールを履いてもまだ僕より小さな彼女は簡単に僕の包囲網に収まる。
「あなたが丸ごと好きなんです。引く訳ないですよ」と、少しだけ腕を緩めて目線を合わせて云えば、「ちょっとちょっと、待ってください! こういう……なんていうの、甘いの? 慣れてないんです」と掌を付き出された。
慣れて欲しい、もっと僕に。そう思いながら苦笑して「分かりました」と拘束を解いた。ホッとしたようにこちらを見上げる目が、少しだけ憎らしい。本当は離したくなんかなかった。ただ、夜とは云え互いの勤め先に程近い路上でこれ以上ハグするには自分は大人になり過ぎたし、嫌がる恋人を無理やり腕の中に入れておく趣味はない。
それでも、淡泊と称される事の多い自分の身の内にこんな思いがあるなんて、僕自身が一番驚いている。最初に彼女に声を掛けた時だって自分のしでかした事が信じられず、『何をしているんだ』と内心頭を抱えていたのに。
彼女を手に入れてから、僕の中から『紳士的な振る舞い』だとか、『遠慮』だとかはすっかり姿を消してしまったようだ。
自分の勤めている書店のある小さな通り。その向かい側にあるデパートが彼女の城だ。
彼女が週に一、二度うちの店に来る事は知っていた。そのデパートの社員が休憩時、私物を入れて持ち歩くビニールの透明袋と、顔を見れば認識できる程度に。
それだけの存在だった。
なのにあのクリスマスの夜に芽生えた気持ちは、あれから二か月経った今でもまだ衰える事なく僕の中で息づいている。恋心と云うものはこんなにも貪欲なのかと、呆れる程に。
「そろそろ帰りましょうか」と声を掛ける。
「はい」と返事をくれた彼女は、いつもと違ってうれしそうだ。
手を差し伸べれば、飛びついてくれた。――今日は、僕の家へ一緒に帰る日。
二人とも休みは不定期だ。土日にお休みの人が恋人だった時は、それがすれ違う原因で別れた事もあった、と三須さんに話したら、『ああ、分かります』と過去に同様のケースがあったと伺えるお返事がきた。きっと、接客業の人間にはよくある話。
休みがバラバラで、仕事の上がり時間も事務職に比べれば遅め。世のカップルに比べて、会える日も時間も僕たちは少ない。そんな中でゆっくりと、氷砂糖を融かすようにデートだけを重ねたのがはじまりだった。
激しい思いとは裏腹に、彼女に触れる事はついこの間までなかった。ダイヤモンドを傷付けぬよう、白手袋でそっと台座に乗せて扱う宝石店の店員のようにと心掛けていたから。
ひとたび触れてしまったら、きっと我慢は出来ない。分かっていた分、自重した。いわゆる草食系と称される男のようにお行儀よく、デートは夜九時にはお開きにして、性的な欲求なんてまるで存在しないかのように振る舞って。
ひとえに大事にしたくてそうしていたのだけれど、付き合い始めて二か月弱のその日のデート終わりで、焦れた彼女は白い手袋を外して投げて台座に乗せたダイヤを素手で掴ませるように、僕の手を取ると彼女の頬に持っていき、そしてキスをくれた。触れるだけのそれは、僕が返すより早く離れてしまう。
ビルの二階にあるカフェを出て階段を降り切った僕と、二段上がったままの彼女はいつもと違って目線が近い。俯いていても表情が伺いやすく、彼女が泣きそうな顔をしているのが分かった。
「永嶋さんは、ずるい」と彼女はよく云う。この時云われたのが多分最初だ。
「そう、ですか?」
「ずるい」
俯いたまま、小声で。
「クリスマスの時も、私に追わせて。今のキスも、私からさせて。私のこと好きだって云うくせに」
ずるい、と三たび呟かれた直後、おとがいを掬って僕からキスをした。
さっき彼女がくれたのとは全然違うもの。与えるキスじゃなく、奪うキス。おとがいだけではなく後頭部にも手をやって、クリムトの絵のように逃がさない。
んー! と抗議めいた声を漏らした三須さんが僕の胸元を拳で叩いたって、もう離せやしない。
叩いていた拳がコートを掴んで、その手も僕が奪って包み込んで、大人しくなった頃合いでようやく解放した。くたりと寄りかかってきた三須さんの、栗色の髪に唇を付けたまま話す。
「こうなってしまうから我慢してたんだけど、ごめん」
「……なんて云うか永嶋さんは極端です……」
呼吸が落ち着いた筈の彼女が、まだ赤い顔して頬を僕の胸元にくっつけている。
「今日、あなたをうちに連れて帰りたい。駄目ですか?」
図々しくそう聞けば、潤んだ瞳で睨まれた。
「そう云うの私に聞くのが、ずるいって云うんです!」
「……じゃあ、何も聞かずに攫って行きます」
握りこんだままの手を引いて僕の路線の地下鉄の入口へと歩き出すと、連れて行ってください、と小さく申告された。
そして、僕の部屋で全て奪った。翌日、どちらかが勤務であればそこまで貪る事にはならなかったと思う。生憎と云うか幸いと云うか、二人してお休みだったのでストッパーになるものなど何一つなかった。
奪ったつもりでいた。でも、与えられたのかもしれない。行為の最中も終わってからも、彼女は笑ってくれたから。
事後、二人して裸のままベッドの中で話をした。付き合い始めて二か月弱で深い関係になるのは僕にとっては順調なペースのつもりだったのだけれど、彼女にとっては違ったと知った。お付き合いしてからこんなに手を出されないのは初めてだから自信失くしちゃった、と告げられて、大事にしているつもりと大事にする事は別だなと苦く思う。
ごめん、と囁きながらキスをした。
もういい、と彼女もキスを返してくれる。
そうしているうちに、また火がついてしまう。でも彼女はと伺ってみると、「……きかないで、おねがい」と僕を抱き寄せてくれた。
あれから彼女は忙しい合間を縫って何度かうちに来てくれた。
お休みを一人で過ごしたいなら、遠慮なく。負担になるのは嫌だから、最初にそう告げたし、事ある毎に告げてもいる。けれど彼女は、「永嶋さんの傍にいたら、邪魔ですか?」だなんて、自分の方が余程甘い言葉を僕に差し出すのだ。
相変わらず会える日も時間も短いけれど、今のところそれでケンカになった事は、ない。
ケンカと云うか、別件でちょっとした苦情はよく戴くけれど。
「永嶋さんは、ずるい」とその日の仕事の後のデート終わりにも彼女は口癖のように云う。
今まで頂戴した『ずるい』の原因は、彼女が僕にも聴かせたい、と云っていたコンサートのチケットを僕が先に手配したとか、彼女が二つの靴のどちらを買おうか悩みに悩んで、えいっと諦めた方を僕が店員さんに包んでもらっただとか、そんな事だ。
さて、今日は何だろう。
「どこが?」と聞き返せば、「全部!」と、膨れてしまった。その様子がかわいくて、だらしない顔をすればもっと拗ねてしまう。
「人が怒ってるのにそれ見て笑うし」
「だって、三須さんはどんな顔していてもかわいいから」
「……っ!」
逃げる顔も体も抱き込んで、軽いキスをした。すぐに離れたのに、彼女からはやっぱり抗議されてしまった。
「甘いの慣れてないって、前にも云ったじゃないですか! 手加減して下さいって!」
「頑張ってそうしているつもりですけど……」
正直に伝えたら、「嘘だ……!」と頭を抱えられた。
「本当です」
「じゃあ、もっともっと手加減して」
「これ以上は無理ですね」
苦笑して、「そろそろ帰りましょうか」と切り出せば、今日の彼女はしゅんとしている。明日は早い時間から研修があるそうだから、名残惜しいけれど引き留めるのはなしだ。僕とは異なる路線を利用している彼女を地下鉄の入口まで送って行き、それから元の道を戻り、自分も地下鉄に乗った。
今どの辺だろうかと、まだ同じように地下鉄に揺られているだろう彼女を思い、扉上の路線図の駅名を辿る。
今何をしているだろうかと、真夜中に音楽を聞きながら直接問うでもなく、ただ彼女に思いを馳せる。
一人の時間が好きだ。
でも、彼女と共に過ごす時間も、同じくらい好きになっている。
「来ちゃいました」
ある日の昼下がり、透明の私物袋を両手で胸の前に持ち、僕の勤める書店に現れて照れ臭そうに笑う三須さん。
「どうぞ、ごゆっくり」
勤務中なので、彼女に触れる事は出来ない。その柔らかい髪先を掬う事さえ。
仕事用より、ちょっとだけ私的な表情で笑って小声で短く挨拶を交わし、僕は棚の整理を続ける。僕の横で、興味なさそうに資格やマナーの本の背表紙を眺める彼女。
「休憩、終わってしまいますよ」
心配してそう云えば、「うん、五分だけ、永嶋さんをチャージさせて」とかわいらしい申告を戴いた。
「どうぞ、好きなだけ」
僕が云えば、彼女は少し離れたところから遠慮がちに、でもしっかりと僕を見つめた。視線を感じながら僕は棚に本を入れてゆく。近くにいて、何が出来る訳でもない。
カートを押して、本を収めて。元気に飛び出した絵本も、元の場所に戻して。ただそれだけを黙々とこなしているだけなのにチャージなど可能なのだろうか。
疑問は、きっかり五分後に答えが示された。
カートを空にして、廊下に出て仮置き場に戻す。踵を返した丁度その時、廊下側の自動ドアから出てきた三須さんが僕の姿を捉えてほほ笑んだ。
「チャージ完了です」
それだけ云うと、自分の店へと帰っていった。彼女が廊下の角を曲がって見えなくなってから、見覚えのあるハンカチが落ちている事に気付いた。僕はそれを拾うと気持ち早足で店内に戻り、レジにいる店長に「今店を出たお客様に落とし物を届けてきます」と告げた。店の外へ出るや否や駆け足になり、信号待ちのその人の手首を捕まえる。
「永嶋さん?」
きょとんとする彼女の手をくるりと返し、その掌に「これ」とハンカチを乗せた。
「あ、やだ落としてたんだ……すみません、わざわざ」と恐縮した三須さんの耳を、掠めるように囁いた。
「今日は、僕の部屋で待っていて」
返事を聞かずに、ハンカチの上に鍵を落とした。
明日は休日。彼女の側のシフトもその筈だが、彼女も僕も早番――でも彼女の上りの方が少し早い――の今夜、会うかすらまだ決めていなかった。
もし、よかったらで始まる僕の誘い文句。『ずるい』と云われても、いつも誘う時は三須さんの意志を確認していたから、一方的に『部屋で待っていて』なんてお願いをするのは、最初にうちに連れて来たのを除けば初めてだ。
常であれば弾丸のように飛び出す返事がなかなか返ってこない。やっぱり図々しかったかと思いきや、「……ご飯作って、待ってます」と、嬉しい言葉が返ってきた。
「はい、楽しみにしてますね」
「あ! あんまり、期待はしないで下さいね! じゃあ、また夜に」
「はい、夜に」
それだけ交わして、彼女は足早にデパートへと戻っていく。その後ろ姿が無事に横断歩道を渡ったのを見届けて、僕も僕の勤める書店の入っているビルへ戻った。
「落し物ねぇ」
一部始終を見ていたらしい店長――人の恋愛事情が大好物だと云って憚らない既婚女性――にニヤニヤされた。
「お客様じゃなく彼女さんなら今じゃなくても渡せるじゃないの」
正論過ぎて言い逃れが出来ない。
「……すみませんでした」
頭を下げれば、「まあ、仕事に影響のない範囲で大いにやっちゃって頂戴」と寛大な言葉を頂戴した。
そのまま、カウンターに立つ店長の隣に入ってプレゼント包装用のポンポンボウ――三須さんのプレゼントの絵本にもつけた、小さな円をいくつも集めたリボン――のストックを作る。
「それにしても、動かざる事山の如しと云われていた永嶋君が色ボケとはねぇ」
シフト表とにらめっこしている店長のその言葉に、リボンを切る鋏の手を止めてしまった。
「人聞きの悪い事を云わないで下さいよ」
しょきん。切れ味の良い鋏からいい音がする。
「本当の事でしょうが」
「僕は構いませんけど、彼女を悪く云うのはやめて下さい」
しょきん。
「おお、コワ」
そう云いながらちっとも怖がっておらず、むしろ面白がっているのは明白だ。
「永嶋君は心のないブリキの木こりじゃなかったのねぇ」
名作映画になぞらえてそんな風に云われた。
「赤い靴を履いたオズの魔法使いが心をくれたんです」
しょきん。
スムーズに話しているけれど、僕も店長も手を止める事はない。
「それミックスし過ぎ」と笑われたけれど、本当の事だ。
クリスマスの日、彼女はリボン付きの赤いシューズを履いていた。その後、何回目かのデートでも登場したその靴を、ドロシーのようで素敵ですねと褒めると、照れ臭そうに踵を三回鳴らしてくれたっけ。――思い出しただけで、もう彼女に会いたい。
そう思えば思う程ゆっくりと過ぎる時間に顰め面をしたくなるのを堪えて、ひたすら仕事をした。
仕事帰りの人と酔客とが入り混じった地下鉄に揺られた。僕の住む街は仕事場から三〇分。駅から家までは一五分ほど歩く。
自分の鍵を預けてしまったので、インターホンを鳴らした。ぱたぱたと駆けてくる足音さえ愛おしい。
がちゃりと開いたドアから玄関の中に滑り込んだ。
「ただいま」
自分の部屋に、そう云って帰るだなんて何だかくすぐったい。
「おかえりなさい」
少し赤い顔した三須さんの頭を一撫でして、二人で部屋へと移動した。
ダイニングテーブルに目をやれば三須さんが書いていたのか、伏せられた小さなカードと、ペンがそこにあった。三須さんはそれをさっと片付けながら、「今日はパスタです」と教えてくれた。
「いい匂い。ありがとう」
そう云ってハグしようとしたら、「それより、夕ご飯が先ですから!」とするりと逃げられた。
「あなたを先に食べたい」
片手を、捕えても。
「だめです」
ぺち、と手を叩かれて、退散するしかない。苦笑しながら洗面所へ行き、手を洗い、うがいをした。鏡に映る男はやけに緩んだ間抜けな顔をしている。
三須さんのせいで、僕はどんどん知らない自分に遭遇する。
嫉妬する自分。情熱的な自分。恋人への愛情が丸わかりな自分。
あなたのことがよく分からない、と去り際の恋人に告げられていた自分はもういない。
彼女と付き合うまで、さようならと云われればそうか、としか思わなかったのに『今、彼女にそんな事を云われたら』と想像すれば、即座に『云わせない』と思う、凶暴な自分がいる。
じゃがいもとキャベツとアンチョビのパスタと、アサリのワイン蒸しと、かりかりに焼いたベーコンのほうれん草サラダ。それと、スープは出来合いと申し訳なさそうに申告してくれたのが今日のお夕飯だ。
二人とも接客業の宿命か、食べるのが早い。あっという間に自分の分を食べ尽くしてしまった。作ってくれた時間よりずいぶん短いだろう食事時間を謝ると、「おいしいって思ってくれたんなら、いいです」と笑ってくれた。
人にはそれぞれ料理の癖とか、味付けの違いが大なり小なりあると思っているのだけれど、彼女のそれと僕のそれは驚くほど似ている。そんなところもいちいち嬉しい。
リンゴの皮を剥き、割って出せば「今食べたいと思ってた」と、彼女が目を細めた。
お風呂に交互に入って、出てきたら恋人はもう寝室で夢の中だった。
すう、すうと聞こえる規則的な寝息に少しがっかりして、でもここで寛いでくれるのなら何よりも嬉しいと思い直す。
僕はもう少し起きていようと冷蔵庫の中からビールを出し、ダイニングの椅子に腰掛けた。ふとテーブルの上に目をやると、さっきまでなかった小さな包みが置いてある。
ハードカバーを一回り小さくしたくらいの長方形の包み。ああそう云えば今日は女性が男性にチョコレートを贈る日だったとようやく思い出した。
十字に掛けられたリボンには、ちいさなメッセージカードが挟まれている。二つ折りのそれを開けば、「大好きです」と一言書かれていた。僕が帰って来た時に少し赤い顔していたのと、ここで何か書いていたのはこれかと思い当たった。
綺麗なその文字はカードの上の方にあった。
その後書き足すチャンスがなかったのか、はたまた言葉が浮かばなかったのか。文字の下の空白がアンバランスなカードを手に、僕は寝室に向かう。
ドアを静かに開ける。こちらに背を向けて眠る彼女は多分寝たふり。
サイドテーブルの時計の横に、カードを置いた。ベッドに膝を付き、体を横たえる。
「ありがとう。僕も、大好きです」と囁いて、横向きの彼女を後ろから抱き締めたら、狸寝入りの恋人の指が僕の腕に触れる。顔が見たくてそっと体をこちらに向けると、閉じていた筈の目は開いていた。
「手加減……」
「出来ません」
首筋にキスを落としながら断言すると、もう、と甘いお小言一つで赦された。
伝えたい言葉がある。でも今はまだ、云えない。彼女は色彩検定の勉強を始めたところで、僕も先日他店への異動を命じられたばかりだ。新しい勤務先は今の店より自宅に近くなったけれど、ふらりと休憩時間に立ち寄る彼女を見られるのはあと僅かになってしまった。
互いの身辺が一段落するのには、多分何か月か掛かるだろう。それでもいい。会える日も時間も少ない僕たちがこれから共に過ごす時間はきっと長いから。
落ち着いた時に、あなたも僕と同じようにそれを考えていてくれたら嬉しい。
あなたは僕に、心をくれたよ。嬉しいも悲しいも、紗の向こう側にぼんやり存在していたのに、今は直に感じる事が出来る。
同じ方を向いて、同じ道を歩きたいと思う。心だけでなく、勇気と知恵も二人でならきっと手に入れられる。
だからあなたは踵を三回鳴らして、いつでもここへ帰ってきて。
僕の傍で、笑って。
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14/03/13 誤字修正しました。