チョコレートはいらない(後)
「まずは美味しいものを食べましょう、元気が出ますよ」
そう話すのは、先日見事に心を揺さぶってくれた張本人だ。
たまたま電話する用があり、話していたその短い時間で異変を感じ取られた。そして、『今夜お時間はありますか? ……でしたら、是非食事でも』と断れない勢いで押されて、こうしている。
連れて来られたのはこの間とは違うお店。でも、感じの良さや品の良さは通じるものがあった。
彼はいきなり本題を持ち出してきたり、痛いところを触ったりはせずに、いつものように優しく柔らかく私をもてなしてくれた。
食事の間、彼は自分の失敗談をジョークにして私に聞かせた。海外に出張した時にパスポートを盗まれた話をあんなにのんびりと話せる人もいないだろう。悪いなと思いながらも、ついつられて笑ってしまった。
話題の舵を取りつつ、でも私を置いてきぼりにはせず、こちらにも話題を振って自分は聴き手に回ったりして、終始穏やかに和ませてくれた。このところ考え込んでしまうことが多く、こんなに楽しいのはちょっと久しぶりで、「もう一軒、行きませんか」と云うお誘いにも思わず乗ってしまった。
そして河岸を変え、夜景の見えるホテルの最上階のバーで、アルコールの力に少しだけ心が緩んだところをすかさず攻め入られた。
「今の恋が辛いなら、僕を利用して忘れればいい」
たった一言で、心を大きく揺さぶられて動揺する。前回よりも、振りが大きい。思わず、カクテルの入ったグラスを持つ手が震えそうになった。
――でも。
揺さぶられて、気付いた。
いくら強く揺れても、私の心の芯は動かない。
楽になりたかった。甘やかしてくれる人に甘えたかった。それを敏感にキャッチしたこの人がここまで連れてきてくれた。この人に自分を委ねればきっと包み込むように愛してくれるのだろう。けれど。
「……ごめんなさい」
謝るのは二回目だ。
「謝らないでください」
そう云われるのも、二回目。
「ようやく、分かりました」
彼には申し訳ない思いでいっぱいだけど、おかげで霧が晴れたみたいにはっきりと分かった。
この恋は、辛い。でも、忘れたいわけじゃない。
差し出された手を取ってどこまで逃げたって、きっと忘れられやしない。優しい人に抱かれて、いつかその人を愛しても、その人だけを愛し抜くことはきっと、ない。
「僕は、眠れる獅子を起こしてしまったのかな。よけいな事をした」
彼は、わざとのように苦笑して見せてくれた。そんなところにもきっと少し魅かれていた。けれど今それはもう告げられない。今云えることは。
「私、やっぱり彼のことが好きです。……報われないですけどね」
おどけて見せたら、ふんわりと笑ってくれた。
「それでも、もう揺らいではくれない?」
「ええ」
揺らいだら付け入ると、わざわざ云ってくれていた。黙っていても分からないのに。黙っていたら、恋していたかもしれないのに。
「付け入る隙がないなら、邪魔者は諦めましょう」
ごめんなさい。
謝らないでと云われたから、心の中で優しいその人にそっと三回目を告げた。
先週とぼとぼと歩いた帰り道を、ヒールがなるべく鳴らないようにして駆け抜けた。
たかだか一週間顔を合せなかっただけなのに、やっぱり会いたい。
恋じゃなくてもいい。なんでもいい。会いたい気持ちに理由なんかいらない。
そう気付いてしまったら、これ以上黙っているのは無理だと分かった。電話やメールで伝えたくない。会って、直接話したい。『会いに行ってもいい?』って聞かずに、アポなしで行くことにした。亘は大体、古びたマンションのあの部屋にいるから。
告白して駄目なら駄目で仕方ない。玉砕したら、地元に残っている最大の理由がなくなるのだからもっと会社に近いところに引っ越ししよう。それで、痛いと云って泣きながら好きなだけ恋の残骸を抱き締めていればいい。
返される言葉で傷つくのなら、一生治らなくてもかまわない。それでも私はそれを手放したりはしない。
アパートの前を通り過ぎる。その先の道は、崩れてなんかいない。それに、もし崩れていても、遠回りをしても、絶対に辿り着きたい。
こんな風に勇気が出せるのは、もしかしたら今日が最初で最後かもしれないのだから。
時間も時間だし、恋人でもないのに手ぶらで行くのは気が引けた。適当にコンビニで目に付いたものを買う。イオン飲料水、イチゴミルク、サイダー、それから菓子パンにプリンに駄菓子をたくさん。――目についたものは、全部亘の好物だった。あーあ。
両手に下げた重いビニール袋を、亘のせいだと毒づきながらエレベーターを降りる。灯りが切れかかって『おばけ電気』になっている静かな廊下の端までそっと歩く。何度も訪れたその部屋のインターホンを鳴らす。
『――はい』
モニター越しに聞こえてくる声は、ちょっとガサガサしていた。
「私、……栞」
こんな遅くに訪ねるのは初めてだったけれど、いつものように名乗れば、がたん、がさ、どた、となかなかに賑やかしい音がして、ぷつんと音声が切れた。そしてガチャッと開いたドアから懐かしい亘が、姿を現した。
のだけれど。
「……なんで、そんなにやつれてんのっ!」
やつれて顔色が悪くて無精髭でよれよれの服を着た、いつもよりも五割増しで情けない亘がいつものように苦笑していた。
「もう、『大丈夫』ってメールで云ってたのにちっとも大丈夫じゃないじゃないの!」
照れ隠しに、買ってきたものを袋ごとどんとローテーブルに置く。
「うん、栞ちゃんに迷惑かけちゃ駄目だと思ってそうお返事したんだけどね」
「結果駄目なら一緒でしょ! ダウンしてお仕事に穴開けたらどうするの! 大丈夫じゃないならそう云ってよ」
聞けば、この一週間は明日締め切りの台本の仕上げに追われていて、シリアルバーと水道水の他はろくに飲み食いしていなかったそうだ。自分の気持ちでいっぱいいっぱいだった自分にも腹が立つ。亘の云うことなんか鵜呑みにしちゃ駄目なのに。
買ったものを袋から出して、ボーリングのピンみたいに次々に並べた。
「ほら、これ少しずつ飲んで」
「うん」
イオン飲料水を渡した。ペットボトルの中身がこく、こくと音を立てて亘の口の中に消えていくのをじっと見た。
「これ、入りそうなら食べて」
「うん」
プリンの蓋を剥いてプラのスプーンと一緒に渡す。それも、大きなひと掬いが次々に口の中に吸い込まれていく。
「菓子パン食べる? ごはん炊……」
じっとしていられない私を留めるように、立ち上がりかけた私の手を、亘が掴んだ。
「ここに居て」
「亘?」
「ここ」
そう云って、亘の右横のクッションをパタパタと叩く。シンプルなそれは私が持ち込んだものの一つだ。
「お願いだから」
請われて、ようやく指定された場所に座った。
座って、と云った癖にそれ以上のことは何も云わない。初めて掴まれた手も、座ればそろそろと離れて行ってしまった。
玄関先で料理を渡しただけのことが多いけど、帰らずに世話を焼くこともあった。でも焼くだけ焼いて、こんな風に亘のすぐ横に座ったりすることはなかったからどうしたらいいかなんて知らない。
少しでも体を動かせば亘に当たってしまいそうでそれも出来ないでいる。
コンビニで自分用に買っていたアセロラウォーターがあったことを思い出して、バッグから取り出して開けて飲んだ。酸っぱいくせに、喉が痛くなるくらい甘い。そのせいだけじゃないと思うけど、喉が渇く。
告白、しに来たつもりがいつものようにうっかり世話を焼いてしまって、なおかつ女の子な扱いを初めて受けて、動揺している。
云わなくちゃ、と思うのに、言葉が出ない。
沈黙が苦しい。
「……久しぶりだね」
「うん」
バカみたい、一週間ぶりのどこが久しぶりなのよ。
そう思う自分もいるけれど、やっぱり亘に同意する。まさしく久しぶりなのだ、私たちがこんなに顔を合わせないのは。
「書いて、好きにして、栞ちゃんに世話してもらって、……そんなのが当たり前だと思ってたんだ、俺は」
「うん」
嬉しい。それが彼の日常に組み込まれていたのなら。
「それがあるのを何とも思わないで、生きていたんだ」
「うん」
「それがさ、足元から全部崩れた」
大げさだな。さすが脚本家だ。って思っていたけど、自分だってついこの間そう思っていたことを思い出す。苦笑していたら、「本当だよ」と真面目な顔をした亘が、こっちを向いていた。
「大丈夫だと思ったんだよ、返事した時には。シリアルバーはたくさんあるし、何か欲しい物があればネット通販で買える、そう思ってたんだ」
何を云いたいんだろう、彼は。
「そうじゃなかった。全然わかってなかった。俺はね、俺は……」
珍しくもどかしさを露わにして、彼は私を見る。
「栞ちゃんがいないと、駄目なんだ」
幸せ過ぎる言葉に、息が詰まる。慌てて深く息を吸って、少し冷静になった。
「私じゃなくてもいいんじゃないの? ハウスキーパーの人でもなんでもいるじゃない」
「駄目だったよ、それを思い知らされた。デリバリーの食べ物は、おいしくてもなんか足りなかった。家政婦さんに来てもらおうかと思い付いても、他人をここに入れたくないって即座に思った」
茶色い目が、部屋を見渡す。
「栞ちゃんじゃなきゃ駄目なんだ、栞ちゃんだけが俺にくれるんだよ」
躊躇いがちに、頬に伸ばされる手。パソコン作業が多くなっても、メモを取るのは変わらないから、右手の中指にはいつもタコがある。その手が、初めて私の頬に触れた。
「栞ちゃんの作ってくれるごはんには、頑張ろうとか、もうちょっと出来るとか、前に進むための力をくれる何かがある。栞ちゃんの言葉には、厳しさだけじゃない、心がぽかぽかになる何かがある。栞ちゃんの笑顔には、心臓をドキドキさせてくれる何かがある、」
両手で、頬が包まれた。
「君がいないと俺は書けない」
許しを請うように項垂れて、彼は囁いた。
「……書くためだけに、私は必要なの?」
頬を包む手に、そっと手を添えて意地悪なことを聞いてみた。
「違う、――ああ、でも」
答えを探すように彷徨う茶色の目。
「栞ちゃんは俺を生かしてくれるから、いてくれないと書くことだけじゃなく、俺自身も駄目になる。……もう、なってた」
また項垂れるとすっかり伸びてしまった前髪が落ちる。床屋さん、行きなよって云ったのに。見張ってないと、やっぱり駄目ね。
そんな幸せな気持ちはすぐに水を差された。
「分かってるんだよ、今までのうのうと甘えてたくせに、ちょっと離れただけでこんな図々しいこと云ってるって、俺が一番呆れてる。そもそも俺、栞ちゃんにふさわしい人間でもないし」
「……じゃあ、私にふさわしい人間ってどんな人?」
勝手なことを云われて腹が立つ。その気持ちなまま、再度意地悪なことを聞いた。
「俺とはまるで逆な人。大人で、包容力があって、何でも自分で出来て、いつでも余裕があって、栞ちゃんのこと甘やかしてやれる男」
ゆっくりと私の頬を包んでいた手が落ちた。泣きそうになってんじゃないわよ、成人して何年経つのよ。
だから、私からギュッて抱き締めてやった。
「そんな人、つまんない」
それから、すぐに背けられそうな顔をさっきされたように両手で包んで、見つめた。無精髭が手にチクチク当たる。髭も毎日当たって欲しいけど、女子避けになるならいいか。私は案外嫌いじゃないし。
「私は、私がいないと駄目になっちゃう人じゃないと、やだ」
そうおどけて見せたら、亘は息を呑んだ。
「それ、えっと、それってつまり、」
「脚本家でしょ、私に聞かないで、自分で考えて」
手をぱっと離して、台所に向かった。
「栞ちゃん、」
「コーヒー飲む? 紅茶がいい?」
「紅茶をお願い……じゃなくって!」
「明日、ちゃんと早起きして床屋さん行くのよ? そんなに前髪長くしたら目が悪くなっちゃうじゃないの」
「そんなのはいいよ!」
「よくないの。私、有村のおばちゃんに頼まれてるんだから、亘のこと」
「し、栞ちゃ、」
「あとこの間『チョコは要らない、ドライカレー作って』って云ってたけど、欲しいもの、ほんとになんかないの?」
照れ隠しのつもりでつい早口で告げたら、後ろからふわりと包まれた。亘の腕が作る輪の中で、ぎりぎり触れられないでいる。でも、亘の匂いと息をすぐ近くに感じた。
「……栞ちゃんが、欲しい」
かっと、熱くなった。
「一流企業にお勤めしてて、綺麗な栞ちゃんとこんな俺とじゃ違いすぎるから、ずっとそう云う風に見ないようにしてた。もしかして栞ちゃん俺のこと、って思っても、そんなの気のせいだって決めつけてたし。……でも、俺、もう逃げないから。ねえ、」
ああ、卑怯だ。私は目を閉じて覚悟を決める。
亘が、ねえ、と云った後に続けるのは絶対に聞いて欲しいお願いごとだ。その切り札を、ここで切ってくるなんて。
「栞ちゃん、チョコは要らないから、それより君のこれからの人生を、俺にください」
続く言葉を、どう受け止めたらいいんだろう、なんて嘯いてみたところで、私の答えはとっくに出てる。
悔しいから、不安げに緩く抱かれたままだんまりを決めていた。結構待たせて、それから振り返った。
「ん、いいよ」
私が断れないと知っていて、いつも繰り出してくるその願いを、今日もやっぱり受け入れた。
「逆だけどね」
「逆って?」
きょとんとした顔はとてももうすぐ三〇になるようには見えない。年下彼氏に見えちゃうかな、一緒に外を歩いたら。まあ、いいわ。これからも一緒にいられるならそれだけで。
「私がいないと、駄目になっちゃうんでしょ? なら、亘の人生を私が引き受ける」
「……うん、そうだね。そうだ」
「私が、一生お世話してあげるから、亘は好きに書き散らしてなさいよ」
そう宣言したら、また泣きそうな顔して笑ってハグを解くと、「……よろしくお願いします」って握手を求めてきた。差し出されたその白い手をパーン! と叩く。
「まずはその取り掛かってる台本を仕上げちゃって? 今ごはん炊いておにぎり作ってあげるから」
「栞ちゃーん……」
何か云いたげな甘えた目。
「終わったらご褒美あげるから、頑張るのよ」
出来るだけ平静を装ってそんなこと云ってみた。お願いだから、ご褒美って? なんて聞かないで、自分で考えて。
「……待てないよ、そんなの。今すぐちょうだい」
そんな聞き分けのない我儘は、初めて。嬉しかったから、少しだけあげることにした。
私専用のスリッパを履いた足で少しだけ背伸びして、初めてその頬に口づけたらやっぱりチクチクした。
「これ以上は、後で」と離れた。亘は頬を押さえて真っ赤な顔して、「うん」と云うと、ぎこちない足取りで仕事部屋に向かう。その後ろ姿を見て手間のかかる男だ、とため息を吐いた。でも。
私がとても幸せな気持ちでいることは、私自身が誰よりも知っている。
今日はこのままここに泊まって、ほったらかしにしていた分、うんと亘の面倒を見よう。まずはお湯を沸かして、お砂糖も牛乳もたっぷりの紅茶をマグに一杯。
明日はお休みだけど、早起きしてアパートに戻ってお掃除とお洗濯をして、すぐにここに戻ろう。亘も早起きさせて、長すぎる前髪を切ってこい! ってお尻を叩かないと。
商店街でお買い物をして、たくさんお野菜とお肉を買おう。有村のおばちゃんに会ったら、こう云うんだ。
『一生、面倒見ることになっちゃいました』
おばちゃん、泣いて喜ぶかな。それとも、『栞ちゃんよく考えて? おばちゃん確かにあの子をよろしくねってお願いしたけど、世の中にはもっと栞ちゃんに相応しい男の人だっているんだからね?』って諭しにかかるかな。
ねえ、亘はどっちだと思う? ってもし聞いてみたら、どうしてそんなこと俺に聞くの、って泣き顔になりそうだと当たりを付けた。
今はそんないじわる云わないで、ただ紅茶をそっと置くだけ。
原稿に目を落としたまま「ありがとう」とお礼を云うその横顔に満足してから台所へと戻り、私はお米を研ぎ始めた。
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