チョコレートはいらない(前)
脚本家×会社員
「チョコは要らないから、それより」
続く言葉を、どう受け止めたらいいんだろう。
チョコレートは、食べるけど好物でもないのは知ってる。だから、今年もチョコはあげるとしても添え物程度で、何かほかの物をメインにプレゼントしようと思ってた。それを聞けない仲でもないので、「バレンタイン、何が欲しい?」ってダイレクトに聞いてみた。すると、彼は書き物している手を止めて顔を上げ、こちらを見た。
ただ見られただけで、なにも情熱的に見つめられた訳じゃない。なのに体温がじわりと上がった。慌ててごまかして、笑う。
「名前入りの原稿用紙、オーダーしようか?」
「明治の文豪じゃないんだから」
苦笑するけど欲しくないと云わないあたりが、らしいなと思う。
「じゃあ万年筆とか」
「書きものはこれが一番。書き味がいいし、持ってるだけでなんか色々アイデア浮かぶし」
彼がひょいと持ち上げて見せたのは、さっきまでノートに何やら書きつけていた何の変哲もないシャーペン。元はクリアなボディのそいつ――経年劣化と長年の使用でだいぶ傷がついてくすんでいる――は、私と彼が高校の時にたまたま貸してあげたら『これ、譲ってくれないかな』と頼み込まれて気前よく差し上げたと云う逸品だ。――普通に、お小遣いで買えちゃう位の量販品なんだけど。
「じゃあ……何だろ」
元々彼はあれが欲しいこれが欲しいと云うタイプではないのですぐにネタが尽きた。脚本家――本人いわく『今一つ売れてない脚本家』――なので、単純に書くものを連想したけれど、よくよく考えてみたら彼はパソコン作業が多いから、あれもこれも無用の品だったか。
「チョコは要らないから、それより」
「それより?」
「また、今度あれ作って。おいしい」
にこにこして、フライパンにまだ何食分かが残っているドライカレーを褒める亘。邪気のないその顔に、ちくりと心が痛む。そんな気持ちに気付かぬふりをして、彼の服をチェックした。今日は、大丈夫。ブラックウォッチのネルシャツもフードのついたカーディガンもどこもよれてないし穴も開いていない。目を光らせていないと、襟元が擦り切れたTシャツを外に着て行かなきゃオッケーと着続けていたり、袖に汚れが付いたシャツもそれが味だと云ったりしてなかなか古い服を捨てない困ったひとなのだ。
見るに見かねて着回しがきくアイテムを時折押し付けてた。『セールだったから』『ポイント三倍だったから』と、恐縮されないような理由をいくつも用意して、タイミングを見計らって。でも最初のうち、古い服のローテーションの中に新顔の服はなかなか入れてもらえなかった。『気に入らなかった?』と聞けば申し訳なさそうに『……汚すの、なんかもったいなくて』と云われてしまう。『着てない洋服は、ないのと同じだよ』と諭してから、ようやく着てもらえるようになった。
そうしたら、元々痩せてて見栄えはそう悪くない方の彼はプロットを練るのによく利用するカフェでナンパされるようになってしまって、こちらとしては痛し痒し、だ。あれだけ散々身なりに気を付けろと云っていた手前、今更着ないでとも云えない。それが嫉妬や焦りが理由ならば、なおさら。
だって私たちはお付き合いしていない。ただの友人だから。
『もう栞ちゃん、亘のお嫁さんになってくれればいいのに』
何度有村のおばちゃんに云われたか分からない。そのたび苦笑して、『あっちにも選ぶ権利はあるから』と躱した。躱したところで、『選ぶ権利なんかないわよ! あの甲斐性なし!』と身内の評価は厳しい。母は息子を溺愛する生き物だと思っているのだけど、おばちゃんはおじちゃんと仲良しさんなので、息子を溺愛する隙間はないらしい。
『栞ちゃんいつもありがとう、見捨てないで、仲良くしてやってね』
おばちゃんのその言葉を鵜呑みにして、もう何年になるだろう。
彼が仕事場兼住居として住んでいるこの古びたマンションは、私の住むアパートから歩いて一〇分。互いの実家も同じ区内の同じ町内だ。せっかく独立するならもっと都会ですればいいのになんで、と云われることもあるけれど、物価は安いし友人らもいるし居心地の良いここいらを離れる気にはなれなかった。
と云うのはもちろん建前で、彼から離れたくなかっただけだ。
小中高と同じところに通って、互いの親もよく知っていて共通の友人も多い、亘と私。小学校の時、彼が学校をお休みすると帰り道だからとプリント類を渡すように頼まれて、そこから面倒を見る機会が増えた。
大人になってもそれは変わらず、放っておくと食べる物も食べないでパソコンに向かい執筆しているので、書いている最中はサンドイッチやおにぎりと云ったつまみやすいものとお茶を、書き終えてぐたっとしている時にはお鍋いっぱいにカレーやシチューを作って、ごはんを炊いて。
もういいよ、って云われたら、あ、そう、って云っておさんどんはやめようと思っているのに、何故かその一言が向こうの口から出ないまま、ずっと続いている。
台所で作らない時に、はいコレ、と私が玄関で素っ気なく渡す、かわいくないもらい物のエコバッグ。中には、かわいくないタッパーに入った、かわいくない煮物や煮魚。
それをうやうやしく、ありがとう、っていつも受け取る彼。それから、前回持ち込んだタッパー類が、綺麗に洗われ乾かされて、ごちそうさま、いつもありがとうと云う言葉と共に返される。見るに見かねて、時折埃の舞うそこを掃除したりもするけれど。
それだけの二人。
それ以上になんて、きっとなれない。バレンタインも誕生日、こちらからはチョコや誕生日プレゼント――ちょっとした小物や、着心地の良いシャツなど、いつもとても悩んだ末に選び抜いたもの――を渡す。けれど、亘にとってチョコはきっと義理チョコで、誕生日プレゼントにこめた思いになど気付きやしないし、私もあえては云わない。
家にいることの多い亘に心地よく過ごして欲しいから、マグもクッションもパジャマもいつも吟味しています、なんて。
ホワイトデーにお返しにとくれるのはスタンダードにキャンディだし、こちらの誕生日に『はい』と渡されるのはおいしいと評判のお店の焼き菓子の詰め合わせなど、いわゆる消え物ばかり。さらに、もらったからお返しすると云うただそれだけの受動的なスタンスが、亘の気持ちを雄弁に物語っている。それでも、『おいしいと評判のお店の』、と云う点に付加価値を見出したくなる。たとえそれがテレビ局や映画関係者からの差し入れでたまたま知ったものだとしても。
現状を正しく理解しているつもりでも、私は自分の気持ちをどうにも出来ない。出来るならとっくに一方的な恋心は葬って、私を大事にしてくれる、包容力のある男性に心を開いている筈だ。
そんな人から交際の申し込みをされることがない訳じゃない。一応お年頃ですし。
でも。
――どうしても、亘がいいと、駄々をこねる自分がいる。
その日、仕事で知り合った年上の男性から食事に誘われ、仕事の後に広尾のリストランテを訪れていた。相手の、取引先の人間へ向ける以上の好意に気付いていなかったと云えば嘘になる。それを分かっていて、さらに向けられた好意を自分が受け取らないのも分かっていてなお誘いを受けたのは、恋人もいない上に決定的な言葉を聞いたわけでもないのに頑なに避け続けるのは大人気ない気がしたから。――私を誘う人だっているんだよと亘に当てつけるような気持ちも、どこかにあった。
その人の人となりはよく知っている。穏やかで、厳しいけれど丁寧に仕事をする人。こちらはぞんざいな扱いを受けても文句も云えない力関係だったけれど、そんなことにはならず終始良いモチベーションを保ったまま先日仕事を無事に終えることが出来た。
『ありがとうございます、またご一緒にお仕事出来たら嬉しいです』とあながち社交辞令だけでもない言葉を口にすれば、『打ち上げをしませんか?』と誘われた。
打ち上げは確か、後輩の子が企画していた筈だけどと頭の中で手帖をめくっていたら、その人は『いや、こんな云い方は卑怯だな』と苦笑して、そして私をまっすぐに見た。
『食事をしませんか、二人で』
もちろん、断ってくれても構わない、これはあくまでプライベートのお誘いだからといつものように気を回してもらって、そして応じた。
密やかに話す人たちと、さりげないサービスをしてくれる店と、とびきりおいしい料理。さすが、出来る大人の男はいい店を知っている。亘はきっと来ないようなお店。――打ち合わせとか、打ち上げとかなら連れて来られるかな。そんな風に思った。
「――どうしてあなたはいつもそんな顔をするんだろう」と云われて、ようやく心ここにあらずだったことに気付いた。慌てて頭を下げる。
「ごめんなさい、少しぼけーっとしてました」
「いや、それはいいんだけど、――あなたのその寂しさを、受け止めてくれる人はいますか?」
誘われた時と同じにまっすぐに問いかけられて、苦笑するしかない。
店内できびきびと、それでいて優雅に立ち働く店員へなんとなく向けていた視線を動かす。ガラス窓に映る女は、とびきり不幸には見えないけれどとびきり幸せな顔もしていない。普段より少し頼りないように見える自分と目が合いながら、素直な気持ちを口にした。
「寂しさをくれる人はいます。受け止めてはくれないけれど」
亘は、脚本の物語のことでいつも頭がいっぱい。
私がどんな思いで通っているかなんてきっと想像もついていない。脚本家のくせにね。
「僕が、あなたの抱える寂しさごと、あなたを受け止めることは出来ませんか?」
そんな申し出に、心がぐらりとよろめいた。
でも、亘が駄目だからと云って、この人に寄り掛かるようなことは出来ない。
自分に言い聞かせるように、思った。でもまだ、揺れている。とんと押されたらこの人の胸に飛び込んでしまうのではないか。ついさっき寄り掛かれないと思ったのに、そんな風に簡単に、揺らぐ。
それでも申し出に飛びつかなかったのは私の、せめてもの意地だったのかもしれない。それが誰に対してのものなのかもわからずに、勢いだけで流されまいと弱い自分を奮い立たせた。
「ごめんなさい」
「謝らないでください。僕は気が長いから、もし付け入る隙があるならその機会をずっと待っています」
隙なんてありません、と云えないところが今の自分の正直な気持ちなのだろう。
その彼と幸せになったら教えて下さいね、駄目なものをずっと追い続けるほど気が長くはないので、とおどけて告げられて、その優しさにまた少しだけ心が揺れた。でも、亘を思う気持ちをひっくり返すほどではなくてほっとしてしまう。
どうして、亘なんだろう、あんな、収入が安定してなくて、いつも書くことばかりが最優先で、実生活が疎かな男が。
それでも。
『栞ちゃん、今度深夜枠で連ドラ担当することになった!』と珍しく興奮した様子で、その勢いのまま私をうっかり抱き締め、『ご、ごめん!』と真っ赤な顔してすぐに離れてしまった時とか。
『今度栞ちゃんが台所でごはん作るとこ、見せてもらえないかな? 書くのに参考にさせて欲しいんだ、料理上手な人って設定だから』って云われた時とか。
『栞ちゃんの着てる、それ……ああ、ポンチョって云うんだ、ありがとう。似合ってるね』なんて、何気ないひと言とか。
亘しかくれない、私が心躍る何かは。
カフェと打ち合わせ以外にほとんど家から出ない癖に、彼の脚本はものすごくリアルに登場人物の内面を描き出す。それが女子高生であっても。どんなに残酷な結末も、見る側に受け止めさせてしまう説得力が、その脚本にはある。語り手に寄り添うような丁寧な描写に、私は亘自身とは、また別に魅かれている。困ったことに。
亘が好きだ。亘の描く世界が、好きだ。だから彼を支えることは私にはずっと喜びだった。痛みを覚えつつ、今もなお。
とぼとぼと帰路に着く。おいしい料理を戴いた筈なのに、心はやけに沈んでいた。
――寂しさを、受け止めてくれる人はいますか?
あの人に問われた言葉が、いつまでも心の水面を静かに乱す。
――寂しさをくれる人はいます。受け止めてはくれないけれど。
一方通行の思いは、どこへ行くのだろう。流されていつかは世界の涯てにでも行きつくのか。そこで、いつまでも融けずに残るのだろうか。永久凍土から発見されるマンモスのように、気が遠くなる程の未来まで。
亘が好きだ。それは本当だ。
でも、気が付いた時にはもうずっと好きだったから、それが当たり前だと思い込んでいて、『亘が好き』と云う枠組みに私自身が囚われているだけなのかもしれない。もしかしたら恋などではないのかも。
ずっとこうしていられたらと思った。
亘は私が面倒を見ないと駄目で、せっせと餌付けして世話を焼いて。でも一方通行のそれを、あと何年続ける? 一生?
ボランティア精神なんかじゃない。そばにいて、世話をしていい特別な存在になれたらと思っていた。でもそれは特別なんかじゃなくて、私じゃなくても、誰でも出来ることなのかも。お金を出せばもっと優秀なプロの人だって雇える。そう気が付いてこわくなった。それに。
亘にだって、いい人がいるかもしれないのだ。たまの散歩はその実デートで、カフェでは恋人と談笑しているかも。いい年だし、結婚だって、するかも。私に黙っているだけでそう云う話があるのかも。彼のファンの女優さんがアプローチしているかも。
なんとかアパートに辿り着く。駅から来たこの道をそのまま歩けば亘のマンションへと続いている。でも。
その道路がぼろぼろと、崩れていくような気がした。――こわくて、そっちへ歩いて行けない。
『ごめんね、仕事が忙しくて当分行けそうにない』
嘘を吐いた。仕事が忙しいのは本当のことだけど、亘の面倒くらいは難なく見られる。でも、気持ちが、今は無理だ。
電話だと嘘がばれてしまいそうで、メールで告げた。メールでもやりとりはしているから不自然ではないだろう。
ほどなくして返信が来た。
『無理しないでね、こっちは大丈夫だから』
亘は、何をもってして大丈夫だと云い張るのだろうか。シリアルバーが段ボールにひと箱あるから大丈夫だとでも云いたいの?――また、心配してしまった、いけない。
少し亘離れをしようと思ったのに、初日からこんなでは先が思いやられる。私はどこまで彼を中心に生きているのだろう。人生の半分以上の時間『亘係』をしているので、なかなかその習慣が抜けそうにないことは確かだ。
それから一週間、以前にも増して仕事に力を入れた。
普段であれば平日でも週に二日は亘の様子を見に行くために残業はほどほどで切り上げていたのだけれど、それもやめた。でも。
電車に揺られていても、取引先と価格交渉をしていても、おいしいランチに舌鼓を打っていても、いつも浮かぶのは亘の少し困った顔。
――会いたいな。
それは本当の気持ちだよと誰かが断言してくれたら、私は迷わず会いに行くのに。
会いたいと思うその気持ちが、長年のルーティーンのなせる技なのか、ちゃんと恋なのか、恋の形を借りた何かなのか。
ずっと、考えている。
答えはまだ出ていない。